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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-06-15-Sun 「人生が変わる時」 有馬味付子牧師(東京・練馬キリスト教会)

仙台南伝道所の開設四周年記念感謝礼拝でした。

[] 18章1−11節  

1 主からエレミヤに臨んだ言葉。

2 「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」

3 わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。

4 陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。

5 そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。

6 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。

7 あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、

8 もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。

9 またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、

10 わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」

11 今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。」

[] 19章1−10節

1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。

2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。

3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。

10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

はじめに

 「陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。粘土は陶器師に向って『あなたは何を造るか』と言い、あるいは『あなたの造った物には手がない』と言うだろうか」(イザヤ書45:9/ 口語訳) 「あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。」(イザヤ29:16/同)

初めに読んだエレミヤ書(18:1−11)と、上記の御言葉は「私達は陶器師である神様によって造られた粘土の作品にすぎない」ということを教えています。

粘土が陶器師を忘れる

 私達人間は、神に造られたものであるということをついつい忘れてしまう。そして自分が神様に成り上がってしまう。これが「罪」ということです。自分が神様より偉くなっていますから、神様を自分の都合の良いように利用しようとします。自分の祈りが答えられなかったら「何だ神様は!」と非難するような心境になるのです。そして神様をいい加減に扱うようになります。人よりも自分が偉くなり人を見下げるようになります。人間のもともとの根底には、消すことのできない「自分を誇り、人をバカにし、少しでも人より上にいたい」という気持があります。これが自分ではどうすることも出来ない罪です。「陶器師と造られた粘土」の聖書個所は、私が学生時代に出会って以来、私の心の深く入っていきました。私達一人一人は、本当だったら「ああ、これは失敗だ」と言われて、くしゃくしゃにされ、「ダメだ、これは。造り直しだ」と、粘土の塊の中に投げつけられ、丸められ こねられて、新しい作品に造り変えられても文句のいえない者です。それは、神様のなさることで神様の自由です。

けれども・・

 そういう私達を、神様は罪を赦して生かして用いていて下さるのです。そのことを思いますとありがたくて感謝で一杯になります。私達が神様に「造られたもの」であることを忘れないで神様に従っていくならば、私達には神様の尽きることのない祝福と平安があります。これが疑いのない事実であるということを、ここにおられる皆様も日々実感していると思います。へりくだって生きる時、本当に神様にしっかり結び合わされているならば、必要のない不安・恐れというものを持たなくて済むのです。

忘れることは、神様から切り離されること

 しかし私達は「神様に造られたものである」ということをすぐ忘れてしまう。それを忘れると、どんなにお金があり、高い地位にあっても、どんなに権力や権威を手に入れても、基本的に心の奥底に不安と恐れがひそんでいるのです。決して平安がない。自分自身についても、人間関係においても、いつも心が満たされない。それはそうだと思います。「自分の命を造って下さった方を忘れている」ということは、神様から切り離されている。そういう状態ですから平安があるわけがない。生まれたばかりの赤ちゃんや小さい子供は、お母さんの姿が見えないと大変不安になって泣きだします。そしてお母さんの姿が見えると必死になってお母さんにしがみついていきます。お母さんに抱きしめてもらうとあんなに泣いていたのにニコニコ笑っています。だからといって赤ちゃんはどれだけ自分がお母さんに依存しているのかそんなことは知るはずもありません。大人になった私達もまったく同じです。

まことの神様

 神様にしがみついていれば、全く何の不安も恐れも持たなくてすむのですが、神様を忘れたり意識的に神様を無視したり神様から切り離された状態にある時、不安や恐れがどんどん広がっていき、それでいて原因が自分にあるということに気がつかない。それに気が付くと又、平安が与えられる。天地を創られたまことの神様、主イエス様を送って下さった真の神様をまだ聞いたこともない・知らないという方は、その不安や恐れがどこからくるのか全く知ることが出来ません。ですから私達は先に神様を知って信じることが出来たのですから、もっとこのことを伝えていく使命が与えられているのです。

ザアカイ

 先ほど読みましたルカ福音書19章10節に「人の子が来たのは、失われた者を尋ね出して救うためである。」とありましたが、この「失われた者」というのは、まさに神様から切り離された状態の中にいる人のことをいっています。神様を認めない状態、神様を無視している状態、神様に背を向けて反抗している状態、これが「罪」ということですけれど、ザアカイはこの「罪」のただ中にいたのです。まったく失われたものであった。しかも自分から失われた者になることを選んだのです。神様を信じて神様に従う生き方を選ぶことも出来た。にもかかわらず取税人という生き方を自分で選び取ったのです。それはお金の為です。

取税人

 取税人は、この時代、一番人々から嫌われ、憎しみを買った人達です。エリコの町というのは、なつめやしとバルサムという木が生えていて、それを栽培し、又、ばらの花も栽培して高く売れました。ローマ政府にとっては、エリコの町はたくさん税金をおさめる良い町でした。当時の税金は最終的にはローマ政府が受け取っていましたが、徴収は民間に請け負わせていました。請負の権利は投機の対象となり、ローマの金持がその権利を買い落して取税人に集めさせ、自分達は甘い汁だけを吸っている状況でした。(現代も同じような状況があります)。

取税人の頭(かしら)ザアカイ

 ザアカイはエリコの取税人の頭でした。税金を払う人達は自分達の税額を知ることはできませんでしたので、言われる通り払わねばならず、取税人達は何倍ものお金を納めさせていたのです。人をだまして自分達の利益を得ていたのです。彼らは民族としての仲間を裏切りローマ政府に協力する者でしたから「売国奴」「裏切り者」と呼ばれて心底嫌われていました。ファリサイ人(モーセの律法を厳格に守る人)達は、取税人や罪人(律法を守らない人との意味で社会からも孤立しユダヤ教の会堂からも追い出された人達)が自分の衣にふれることさえ汚れるといやがり避けました。ザアカイには家族もいたでしょう。使用人もいたでしょう。仲間もいたでしょう。しかし本当のところは現代の人に特徴であるという「疎外感」や「孤独」の中で苦しんでいました。お金の為に選んだ道でしたが、神様を無視し神様を切り捨てている状況の中で、ザアカイはイエス様の話を耳にしたのです。

イエス様に会いたい

 人々はイエス様について「あの人は取税人や罪人と一緒に食事をしている」と非難しました。しかしザアカイはそのうわさを聞いてイエス様にぜひ会いたい、一目見てみたい、とエリコの町に来ると聞いて出かけましたが群衆にさえぎられて見ることができない。そこでザアカイは先廻りをして、いちじく桑の木に登ったのです。ザアカイの気持がこの行動にむき出しになっています。この行動がイエス様の心をとらえました。イエス様は「ザアカイ、急いで下りてきなさい。きょう、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃったのです。これはもっと強い意味があって「あなたの救いの為に、私は今日あなたの家に泊まらなければなりません。それが父なる神様の決められたことですから。」これがその意味です。ザアカイは、イエス様のお心を喜んで受け入れました。急いで下りてきた。喜んでイエス様を客として迎え入れた。イエス様の時代は食事を共にするということは、今より何倍も重要な意味をもっていました。

食事を共にする

 食事を共にすることは、その人を赦し、その人を認め、その人の全てを受け入れることを意味しました。教会で愛餐会が大切にされるのは、このような意味があります。ただ仲良く楽しく食事を一緒にしているだけではありません。今までいがみあっていた人達が食事を共にすることで互いに赦しあい、自分が見下げていた人を悔い改めの心をもって対等に、或いは、尊敬する者として一緒に食事をする。教会で食事を共にすることは本当にどんなに恵まれたことであるか、もう一度今日味わってみたいと思います。ザアカイはイエス様が自分の家の客となって下さったことで、神様の赦しを信じることが出来た。今まで失われていた者が神様との関係のただ中に戻ってきた。ザアカイの人生はこの時変わった。

新しい人生

 お金の為に、社会から追放されても会堂から閉め出されても、取税人ということにしがみついていたザアカイは、イエス様によってたった今、罪から救われた。ザアカイは湧き上がる大きな喜びで包まれました。ザアカイは罪から救われた時に全く新しい人生を歩み始めたのです。そのあふれでる喜びは「おこない」となってほとばしり出ることになりました。

わたしのこと

 私が神学校に行きたいと思ったのは高校3年の時ですが「自分の罪」というものが本当にわかった時でした。「祈り会」に出ていた時に、私は何て罪人だろうということがグサっときました。この私の自分ではどうすることも出来ない罪を、イエス様がご自分で十字架にかかってゆるして下さった、イエス様が死んで下さった。それを思うとありがたくてありがたくて感謝で心が一杯になりました。その喜びに満たされた時に、これを一人で私の中でとどめ置いてはいけない!何とかこれを一人でも多くの人に伝えていきたいと思いました。それで神学校にいくことを決心しました。

罪から救われると・・

 罪から救われるということは、その人に行動する力を与える。救われて暗い穴に隠れる人は絶対にいません。罪を赦され、罪から救われた人は、必ずや他の人の為に何か役に立ちたいと、人を配慮する力が与えられる。私は牧師の家に生まれました。小さい時から人を愛しなさいよ、といわれて育ちました。けれども「愛しなさい」「ねばならない」というのは私は嫌いでした。愛と聞くとイヤという思いでした。しかし自分が罪を赦されたと感じた時に「愛」という言葉がいやでなくなりました。そして人を配慮して生きていく内に「愛」という言葉がだんだん好きになりました。今では「愛」という言葉はこれ以上の言葉はなく、最高の言葉だと思います。キリスト教は神様の愛につきる、と、今気がついています。神様は愛である、ということ、これは本当に嬉しいことです。私はそれがわかった時に、自分の人生が変わりました。

本物のクリスチャン

 四年前のこの伝道所の開設式の時「本物のクリスチャンを育てる教会でありたい」と話しましたが、本物のクリスチャンとは何だろう。まず「自分は神様に造られたものだ」「神様に造られたものにすぎない」ことをいつも忘れないということです。それはいつも自分の罪を自覚しているということです。第二に、私の罪の為にイエス様が十字架で死んで下さったということをいつもいつも心に覚えているということです。そして何か問題が起こった時(特に人に騙されたり、人に裏切られたりあざむかれた時)にこの事を思い出す。そうすると不思議とその問題をなんなくクリアすることが出来る。非常な強い力が与えられる。イエス様の十字架はそういう力を持っている。第三に、救われた喜びを毎日の生活の中で、行いとして表す。ザアカイは救われた時、即、不正な取り立てなら4倍にして返し、財産の半分を貧しい人の為に使うと言いましたが、そのように即、行いに出る。本物のクリスチャン・・それは、信仰と生活が別々のものに分離してしまってはいない。自分の日々の生活の内に何パーセントイエス様に従っているか、もう一度自分を見つめ直してみたいと思います。

私達の目指すところは、一日の内すべてがイエス様の御心に従う、御心を行うことです。そういう人に成長していきたいなと思います。(文責:佐藤義子)