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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-06-29-Sun 「永遠の命にあずかる」 佐藤義子 牧師

[] 25章31−46節

31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、

33 羊を右に、山羊を左に置く。

34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、

43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

はじめに

 マタイによる福音書は28章までありますが、その中にイエス様の説教が大きくいって五つあります([山上の説教] 5章−7章 弟子達を伝道に送り出す[派遣説教]10章 種まきのたとえに代表される[たとえによる説教] 13章 [正しい教会の在り方についての説教] 19章 [終末についての説教] 24章−25章)。本日はイエス様の説教の最後の個所にあたります。

二つに分けられる

 ここには、すべての人は永遠の罰を受ける者と永遠の命を受ける者とに分けられる時が来るということ、そしてその分けられる原則について語られています。当時、羊飼いは羊とヤギを同時に放牧しましたが、夕方になると寒さを嫌う山羊と、新鮮な空気を求める羊とは分離されました。そのように、イエス様が再びやってくる時(終末・再臨)、人間も又、右と左に分けられるとイエス様は語ります。

右側に置かれた人達

 その時、右側の人達にイエス様は「さあ、私の父に祝福された人達」と呼びかけます。彼らは神様の祝福をいただく人達です。さらに続く言葉は「天地創造の時からお前達に用意されている国を受け継ぎなさい」です。この世界が創られた時から用意されている神の国・天の国に「あなた達は初めから入るように招かれている」という驚くべき内容です。

 旧約聖書のエレミヤ書には、エレミヤが神様の言葉を取り次ぐ預言者としての召しを受ける時の神様の言葉があります。「私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」との言葉です(1:5)。ここでは更にさかのぼり「天地創造の時からあなた達の為に用意されている神の国を受け継ぐように」といわれています。私達は、自分の命は親の結婚後に初めて可能性が与えられると考えますが、そうではないというのです。天地が創られた時から神の国に招かれる人達が決まっているというのです。神の国を受け継ぐように定められた人達とはどのような人達だというのでしょうか。イエス様は言われます「お前達は、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」

右側の人達の応答

 それを聞いた右側の人々は驚いて、自分達はイエス様に対してそのようなことをした覚えはないといいます。神の御子イエス様がそんな悲惨な中におかれていたとは考えられなかったからです。しかしイエス様は、右側に置かれた人々は、小さな存在であった彼らの隣人達にしたことがイエス様にしたことであり、その人と共にイエス様がおられたと語られます。このことをたとえるならば、幼な子にはいつもかたわらに母親が共にいて、幼な子にしたことは幼な子の母親にしたと同じだといえます。

いつも道はふたつ!

 左側に置かれた人々に対するイエス様の宣言も、逆の意味で彼らにとって予想外でした。自分達は隣人愛を行なってきたと考えていたからです。しかし「だれも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)。とあります。神様に仕えるとは神様の意志を行うことであり、神様の意志は、小さい存在である隣人にも心を開くことです。自分の欲望・自分の満足を求めた隣人愛は「最も小さい者の一人であるイエス様」抜きの愛です。

「正しい人達は永遠の命にあずかる」

 「正しい人達」とはイエス様を受け入れた人のことです。イエス様を受け入れるとは、イエス様が神様から遣わされて「私の罪に対する赦しを神様から得る為」に十字架にかけられたことを「信じて受け入れる」人のことです。それは、この世の支配から神様の支配のもとに移されて神様の憐れみを豊かにいただくことを意味します。神様の憐れみの中に置かれた者は、イエス様の愛によって心が隣人に向かって開かれ、隣人が助けを必要としていることに気付かされ、押し出されていくのです。