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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-08-24-Sun 「福音伝道に必要なもの」 伝道師 平賀真理子

[] 16章16−21節

16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。

17 わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。

18 まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。

19 主よ、わたしの力、わたしの砦/苦難が襲うときの逃れ場よ。あなたのもとに/国々は地の果てから来て言うでしょう。「我々の先祖が自分のものとしたのは/偽りで、空しく、無益なものであった。

20 人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」と。

21 それゆえ、わたしは彼らに知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる/わたしの手、わたしの力強い業を。彼らはわたしの名が主であることを知る。

[] 1章14−20節

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

18 二人はすぐに網を捨てて従った。

19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、

20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

はじめに

 今日の新約聖書の箇所は、イエス様が「ガリラヤで伝道を始める」ことと「四人の漁師を弟子にする」内容が書かれています。ここで、イエス様の第一声が明らかになります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」です。

「時は満ち、神の国は近づいた。」

 『時』とは「神様が定められた時」という意味があって、ここでは、父なる神が御子を世に遣わし、罪深い人間達すべてを救おうと予めご計画されていた時がついに来た!との宣言です。『神の国は近づいた。』は、イスラエル民族が期待していた、メシアの政治的な国が建てられるということではなく、神の特性である愛の支配が間近に迫っているということで、神と人間、更には人間と人間の関係が御子の働きによって回復するという、本質的な希望にあふれたメッセージなのです。

「悔い改めて福音を信じなさい。」

 『悔い改めて』は、誤解しやすい言葉です。「してはならないことをしてしまった」「良くない思いを心に抱いてしまった」ことを後悔することや、“反省”して落ち込むことでもありません。神様がイエス様を通して語られた「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから。」という呼びかけに対し、これを受け入れて、応じることを意味します。「悔い改める」の元々の意味は、心を変えるということです。心の向きを変えるとも言えます。神様の呼びかけへの応答は、神様に背いた生き方、即ち、反抗的な生き方、惰性に従った生き方、曲がった生き方などから、方向転換して、信仰を持ってキリストにおける神に向かって生きることです。

方向転換

 「大きな悔い改め」が求められる時があります。生き方の大いなる方向転換の時です。つまり、イエス様を「主」として「キリスト」として受け入れていく決意をする時です。多くの人はイエス様の御言葉や生き方や聖書を通じてその決意が与えられます。「与えられる」と言いました。これは、聖霊によって与えられるとしか言いようがありません。しかし、神様は神様に向かって生きる人に聖霊を送ってくださるのです。 又、悔い改めは、「大きい悔い改め」の後にも必要になる時があります。人生の大きな選択で悩んでいる時、巧みなサタンの誘惑にあっている時など、多々あります。罪ある私達は、日々、神様に方向を向ける確認をしていないと、それてしまいやすいからです。そんな時こそ聖書を読み、神様に祈っていく態度が必要です。そのことによって聖霊(神の霊)が与えられて、正しい方向へ軌道修正してもらえます。それは大いなる恵みといえます。悔い改めは厳しいもののようにイメージされることがあるかもしれませんが、実は裁きではなく、救いに与る希望の源なのです。

「福音を信じなさい。」

 福音とは「よき知らせ」という意味です。神の「よき知らせ」=神様が罪の世界に陥った人間を救うべく計画を立ててくださり、御子イエス様をこの世に送り、イエス様の十字架上での死によって、人間すべての罪を贖ってくださったこと、そして、その死にも打ち勝ち、復活されたことで、神様と人間の関係が回復されたこと、又イエス様が人間として歩まれた時にお教えくださった御言葉や癒しの奇跡など、救いの喜びの中身です。神様が私達をいかに愛して下さっているかを切に感じます。イエス様はその証となられるお方です。

「信じなさい。」

 これは確信を抱くとか、信頼するという意味を含んだ言葉です。「そうである!」と強く思い、それをプラスに受け取っていく意味です。讃美歌や祈りの最後の「アーメン!」は、「まさにそうです!」という意味です。私達は礼拝や信仰生活の中で、神様やイエス様に向かって生きることを肯定され、人生を積極的に歩んでいけるように祝福された存在なのだということを、示されています。 「福音を信じる」こと、それを証することで主に招かれているわけです。

弟子の選び

 イエス様は、まず御言葉を宣言されましたが、次になさったことは、弟子の獲得でした。地上に基盤を立て、伝道するための礎となる人々を探し出すことでした。神様の御用の為に働くのであれば、イスラエル社会ではレビ族出身者ときまっていました。しかし、イエス様はそんな掟はお構いなしに、旅の途中の通りすがりにその場で働いている人に実に無造作に呼び掛けています。そして、呼び掛けられた二組の兄弟達も、すぐにすべてを捨てて従っています。私のように持ち物が多く未練がましい人間から見れば、彼らの行動はついつい、「本当?」と疑ってしまいます。シモンとアンデレという兄弟の家も、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの家もそれほど貧しいわけでもなく、特に後者のヤコブとヨハネの家は雇い人もいるので、かなりの資産があったのでは?と言われています。でも、四人ともすぐにすべてを(家族も財産も)捨てて「わたしについてきなさい。」というイエス様の呼びかけに従ったのです。シモンとは弟子の筆頭となるペトロのことです。この4人は12使徒に選ばれていますし、その内三人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)は核になる弟子として、死んだ娘の蘇生(5:35-43)、山上の変容(9:2-13)、ゲッセマネの祈り(14:32-42)など、重要な場面にイエス様が三人だけ許して立ち合わせておられます。

主の召しに答える

 二組の兄弟は、主の召しにすぐに答えそれまで積み重ねてきたものすべてを捨てて、主に従うという行動をしました。「主の召しに答える」ということでは、アブラハムやモーセの信仰を思い起こします。主が安住の地に導くことを約束され、それをひたすら信じていけばいいのです。彼らはそう信じ、そう行ない、神様の祝福を得ました。思い煩いの多い私などがその立場になったら、途中の困難に出会うたびに、いちいち立ち止まって動けなくなるな〜と予測できます。四人の弟子達は核になる弟子と言いましたが、実は、いろいろ失敗して、イエス様を激しく怒らせたり、絶望させていますし、イエス様の受難の際には逃げ去ってしまっています。しかし、イエス様の復活の後は、悔い改めて、許され、福音伝道に邁進したのです。彼らの歩みは、実にこの点で後に続く信徒の慰めになります。

後に続くわたしたち

 「イエス様の福音に触れ、従う」という大きな決意をします。「悔い改め」です。「主の教えを学べる立場」になります。これが、「礼拝をささげて、説教を聴き、御言葉の解き明かしを聴く」ことになります。そのような恵みにありながら、時々主の意にそぐわない言動をしてしまいます。「神様に赦しを請う」ため祈ります。イエス様のお働きにより聖霊が働いて、赦しを得、その恵みに感謝します。その「恵みを広めたい」と思うようになり「そのように働く」ものとなります。この一連の流れは一日の単位でも、一週間単位でも、一年単位でも、人の信仰生活上でも起こり得ることです。進んで、失敗しなさいといっているわけではありません。神様に心を向けていれば、必ず聖霊が働いて赦しを得ることができ、力強く歩んでいけることを四人の弟子達が表している、とお伝えしたかったのです。

「人間をとる漁師」

 今日の聖書に「人間をとる漁師」という表現がでてきます。「漁師」ということで、今日の旧約聖書のエレミヤ書などでは、敵を表現するもので、あまりいい意味はありません。「漁師」ではないのですが、わたしもかつて、この世で、人をとる仕事をしていました。採用係といって、企業に働き口を求めてやってくる学生さん達を選んで採用する仕事です。会社や社会システムの矛盾を疑問に思いながら、「うちの会社はいい会社です。あなたの可能性を高めます」などとあまり思ってもいないことを言わなくてはならず、うそをつかねばならない罪悪感の中で仕事をしていました。会社説明会でも大勢の前で説明する立場になり、「どうせなら真実を語る口にしてほしい」と秘かに願っていました。ちょうど教会の門をたたいた頃でした。

 数年たって洗礼を受ける決意を与えられましたが、礼拝だけは守る姿勢で歩んできました。恵みを受けて、このたび、福音宣教の仕事を担わせていただけるようになりました。信仰の基準が高いわけでは全然ありません。この期に及んで御言葉を勉強中です。この世の中にありながら、どうにかこうにか心を神様に向け、なんとか守られたとしかいいようがありません。かつてこの世をアップアップしながら泳ぎつつ、神様の清さと愛の大きさにあこがれつつ、生かしていただいてきた自分を思い出します。

福音伝道に必要なもの

 仕事やこの世での生活で大変な思いをされている人が多いと思います。しかしそこに埋もれないで、心を神様に向け続けて下さい。イエス様はそのために、あなたを救いに入れるために福音を宣べ伝えて下さったのです。説教題の「福音伝道に必要なもの」。「もの」をひらがなにした理由を話します。二つ意味があります。「物」として、福音伝道に必要な物は「あなたの、神に向けられた心」です。「者」として、福音伝道に必要な者は「福音に触れ、神に心を向け、主に従う決意をした者」です。即ち、神の側につくと決意できた者です。あなたがそうなることを神様は愛を持って待っておられます。