16章7−11節

7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。

8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。

9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。

10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず

11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 28章1−15節

1 て、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。

4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

11 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。

12 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、

13 言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。

14 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」

15 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

はじめに

 イエス様が十字架上で亡くなられ、アリマタヤ出身のヨセフの手により新しい墓に葬られたのは安息日に入る直前でした。土曜日の日没を迎え、安息日があけた日曜日の明け方に、二人の女性がイエス様の墓を見に行きました(1節)。マルコ福音書とルカ福音書では、女性達はイエス様の遺体に香油を塗る為とその理由を記していますが、マタイ福音書では墓を見にいったとだけ記されています。彼女達はまだ多くの人々が眠っている時間にお墓にやってきたのでした。そこで彼女達は驚くべき出来事に直面します。第一に大地震。第二に天使の出現とお墓をふさいでいた大きな石が転がされてお墓が開いたこと。第三に天使からイエス様の復活が告げられ、そのことを弟子に伝えるように命令を受けたことです。

人知を超える体験

 私達の想像をはるかに超えるこれらの出来事に、彼女達はどんなに驚いたことでしょう。3節にありますように、天使達は稲妻のように輝く姿と、雪のように真っ白な衣を身につけており、それを見た墓の番兵達は恐ろしさのあまり震えあがり死人のようになった(4節)というのですから身体は恐怖と緊張のあまり硬直状態になったということでしょう。意味がわからない人知を超える体験は、私達人間にとって、まさに恐怖そのものです。

恐れと喜び

 二人の女性は天使からイエス様が復活なさったという驚くべき知らせを聞き、さらにこの知らせを弟子達に急いで伝えるように命じられます。聖書に登場する天使はメッセンジャーという意味があります。神と人間との仲介者としての役割を担っています(マリアの受胎告知や婚約者ヨセフの夢での出現)。婦人達は恐れながらも大いに喜び、急いで走って行きました(8節)。イエス様の復活は恐れを伴う出来事であると同時に、弟子達(イエス様を信じる者)にとっては人生を左右する決定的な大きな喜びの出来事です。

さらに驚くこと

 さらに驚くべきことが起こりました。女性たちの行く手に、復活されたイエス様が声をかけてこられたのです。二人はイエス様の足もとにひれ伏しました。イエス様は言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟達にガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10節)。天使から命じられた言葉を、今度は復活されたイエス様ご自身から直接聞きました。

わたしの兄弟たち

 イエス様はここで、ご自分の弟子のことを「兄弟」と呼ばれています。マタイ福音書12章49−50には次のようなイエス様の言葉があります。「そして、弟子達の方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。誰でも、私の天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。』」天の父(神様)の御心を行なうならば、兄弟姉妹と呼んでいただけることを私達はすでに学びました。でも・・

裏切っても?

 でも、ゲッセマネでのイエス様の苦しみの祈りの時には三人の愛弟子達は眠ってしまいました(26:40−)し、その後イエス様を逮捕しに来た人々の前に弟子達は皆イエス様を見捨てて逃げ出しています(同56)。ペテロも三度も否んでいます。私達がイエス様の立場であったら、以前と同じ愛を弟子達に抱き続けることは困難です。兄弟と呼ぶ為にはいくつかの条件を必要としたことでしょう。しかしイエス様は二人の女性達に弟子のことを「わたしの兄弟達」と呼んでいます。本来なら赦され得ない者が赦されている。ここに十字架の愛を見ます。何と大きな恵みでしょうか。私達はこの恵みを受けるように招かれているのです。

復活とは死に対する勝利

 聖書は、イエス・キリストの十字架の死と、三日目に復活したことを、すでに起こったこととして伝えています。死とは何か。全てを否定する力、虚無、絶望、深い闇・・人間の太刀打ちできない相手です。人間が最も恐れている死を、イエス様は神によってよみがえらされたのです。(後略)