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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-03-22-Sun 「イエス・キリストの名によって」 佐藤義子 牧師

[] 6章1−11節

1 さて、王国を継いだのは、メディア人ダレイオスであった。彼は既に六十二歳であった。

2 ダレイオスは、王国に百二十人の総督を置いて全国を治めさせることにし、

3 また、王に損失がないようにするため、これらの総督から報告を受ける大臣を三人、その上に置いた。ダニエルはそのひとりであった。

4 ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国全体を治めさせようとした。

5 大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった。

6 それで彼らは、「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関してなんらかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話し合い、

7 王のもとに集まってこう言った。「ダレイオス王様がとこしえまでも生き永らえられますように。

8 王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら一同相談いたしまして、王様に次のような、勅令による禁止事項をお定めいただこうということになりました。すなわち、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる、と。

9 王様、どうぞこの禁令を出し、その書面に御署名ください。そうすれば、これはメディアとペルシアの法律として変更不可能なものとなり、廃止することはできなくなります。」

10 ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。

11 ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。

[] 3章1−10節

1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。

2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。

3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。

4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。

5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、

6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、

8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。

9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。

10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

はじめに

 捕虜として連行されたダニエルは、捕囚の地・バビロンでも毎日三度、祈りと賛美の時をもっていました。今日の聖書には、ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時に神殿に上って行ったとあります。ペンテコステの日、弟子達が一つに集まっていた時に聖霊が降りましたが、それは朝9時のことでした(2:15)。更に10章にはペトロが祈る為に屋上に上がったのが昼の12時頃と記されています。イエス様の時代、ダニエルと同じように初代のクリスチャン達も、一日三回、決まった時間に祈りを捧げていたということを、私達は心に覚えたいと思います。

祈り

 一日三回祈るということは、一日最低三回は神様を仰ぎ見る時間を持つということです。社会で働いておられる方々は、朝起きた時から夜寝るまで追われるように次から次へと休みなく体を動かしておられることでしょう。しかし忙しくしているといつしか神様が自分と共におられるということを忘れ、自分だけで働いている気持になる、という誘惑があります。又クリスチャンは、信仰的に霊的に、御言葉から切り離された生活に陥る誘惑が毎日、いつもあります。先週の説教でも、信仰生活にブレーキをかける重荷や、からみつく罪のとりこになる誘惑について語られましたが、毎日決まった時間に祈るということは、これらの誘惑を断ち切り、神様の守りから離れずに一日を終えることが出来る恵みの時となるでしょう。

 一日三回、何を祈るのでしょうか。私達人間にとって最も大切なことは、自分の創り主を正しく知ることです。イエス様を通して神様を知ることにより、私達は何を祈るべきかを学んでいきます。私達人間が生きる目的は、自分の生涯を通して神様の栄光をたたえることである、と学んだ時、私達の口は、それにふさわしい人間としてつくり上げて下さい、と祈るのです。

「美しい門」で。

 午後3時、ペトロとヨハネは祈る為にエルサレム神殿に上っていきました。二人が神殿の境内に入ろうとした時、お金を恵んでほしいと、憐れみを乞う男の声を聞きました。ペトロとヨハネは男の顔をじっと見て、「私達をみなさい」と命じました。男は何かもらえる、と期待して二人を見つめていますと、次の命令が与えられました。

「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」

イエス・キリストの名によって」

 「イエス・キリストの名前で」ということは、名前の中に神様の人格的な力があって、名前を呼ぶことによりその力が引き出されるのです。弟子達がイエス・キリストの名前で行動する時、イエス・キリストがそこにおられるのです。洗礼も又、イエス・キリストの名において授けられます。ペトロは彼の右手をとって彼を立ち上がらせた、その時、彼の足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだしたのです。

大きな賜物

 男が求めたものはささやかな施しでしたが、目を合わせて見つめた後に与えられたものは施しよりもっともっと大きな、彼にとって一番必要とする「命令」でした。「歩きなさい」という命令そのものが大きな賜物だったのです。ペトロが、イエス・キリストの全権をもって語り行動し、この男に「イエス・キリストの名によって」と言った時、男はイエス様に自分の意識を向け、自分の全信頼を置きました。右手を取ろうとするペトロに右手をゆだね、神様の力が自分の身に起ころうとすることに身をゆだねました。これが信仰の従順です。彼はいやされました。いやされた彼の喜びは、歩き回り踊ったりして神様を賛美し、二人と一緒に祈るために境内に入って行ったことに表わされています。

人々の驚き

 10節には、これを見た人々が「我を忘れるほど驚いた」とあります。神様の業はまさに驚きの連続です。私達人間のなしえないことを私達の創り主であられる神様はなさることがおできになります。この信仰が、ここにおられる私達すべてのものに与えられることを祈りましょう!

私へのメッセージ

 私達すべてのものは霊的な意味で、生まれながら歩けない足を持ったようなものではないか。そして本当に願うべきことは「歩く」ことなのに、いつしか歩くことを願わずに、ささやかな施しで満足してしまうような、この男の人と同じような状況にあるのではないか。聖書は、「私達が必要としているもの・求めるべきものは、今あなたが望んでいるものではなくて、もっともっと根本的なことである」ことを教えているのではないか。そして聖書は、イエス・キリストの名によって願う時に、必ずそれは与えられる、と教えているのではないか。今日の聖書を通して、そのように語りかけているようにも思えます。聖書はいつも、他人にではなく、あの人にではなく、この私自身にメッセージを語る神の言葉です。お一人お一人が、今日、この聖書から自分に語る神様の言葉を聞きとることが出来るように祈るものです。

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