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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-06-14-Sun 「ダビデとヨナタンの友情」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

伝道所開設五周年記念感謝礼拝

[] 18章1−9節

1 ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。

2 サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。

3 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、

4 着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。

5 ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。

6 皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。

7 女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った。」

8 サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」

9 この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。

[] 15章14ー17節

14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

はじめに

 「人生・友情・学問」という題の小冊子が教文館から1965年に出版されております。著者は同志社総長であった上野直蔵さんという方です。その本に「友情とは」ということで次のように記されております。


「友情とは、心底を打ち明けて語り合う相互理解であり、孤独地獄を消し去るもの、又、利害を異にするのではなく、平等な間柄において成立する」。


 確かにそういうことであろうと思いますが、今日読みましたダビデとヨナタン、旧約聖書では無二の親友と呼ばれているダビデとヨナタンの友情は例外的なものであったのではないかと思います。

というのは、ヨナタンは王子です。ヨナタンはこう言っています「父は、事の大小を問わず、何かする時には必ず私の耳に入れてくれる」。ですからヨナタンは、父サウル王の良き相談相手であり、又、自分自身も軍の指揮官として、兵士達から絶大な信頼を受けていました。にぎやかな環境においても孤独は存在いたします。しかし王国と住民の平和の為に

侵略者と戦うヨナタンに、「孤独」という環境を楽しむ余裕などなかった、そういう立場におりました。他方、一兵卒として従っていたダビデ。この時点では、まだ一人の兵士にすぎませんでしたが、ダビデはヨナタンと違い、身分の低い貧しい者であった。二人の立場はかなり違っておりました。いうならば、「友情」という平等の関係など生じ得ない状況と思われましたが、しかし、ダビデとヨナタンの間には親愛の情が成立した。そこには、私達が見過ごすことのできない重要な要素が存在しておりました。

ダビデとヨナタンの友情

もう一度、サムエル記上18章の箇所を見たいと思います。

「ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、 着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた」(3節)

 注目したい言葉は「契約を結び」という表現です。日本語では「契約を結ぶ」。「結ぶ」という原文の動詞は「切る」(物をナイフなどで切る)が使われています。契約を結ぶ際に犠牲を捧げる。犠牲を切り分ける行為に由来しての表現であり、「契約」は「切る」というふうに表現しています(日本語では契約を結ぶと訳されております)。けれども、しかしここにはそのような意識が書かれてはおりません。ですから「契約を結ぶ」という表現には、その内包的な意味、すなわちダビデとヨナタンの友情が主の御前において真実なものであるという意味が込められての表現です。「私とあなたの間に、主がとこしえにおられる」(20:42)とヨナタンはダビデに語っていますが、揺るぐことのない約束として、生涯にわたり、このダビデとヨナタンの友情というものは保たれるわけであります。この神にある友情。ダビデとヨナタンの友情というのは一体何であったのか、ご一緒に考えたいと思います。

三つの側面

 ダビデとヨナタンの友情の特徴を、三つの側面から概観したいと思います。一つは、識見(物事に対する正しい判断、考え)を誤らせることがなかった、という友情でした。たとえば、父サウル王がダビデを殺すようにヨナタンと家臣全員に伝えます。その時にヨナタンは、父サウルに、「なぜ罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか。」と父をいさめております。識見(物の判断)を誤らせるどころか、彼らの友情は今日にも通じる価値観、倫理観を高めるように働いたということを見てとることができます。


 彼らの友情の特徴の二つ目は、歩む道を誤らせることがなかったということがあげられると思います。換言するならば、彼らの使命観、召命観を見失うことがなかった。たとえば、王子であるヨナタンが、ダビデに「イスラエルの王となるのはあなただ。私はあなたの次に立つ者となるだろう」と告げております(23:17)。なぜ、王子であるヨナタンがこのような自己理解に達したかはわかりませんが、自分が歩むべき道、自分に与えられた使命をはっきりと彼は認識していた。それをダビデと共有した。彼らの友情は、自分の歩む道、自分の使命というものをはっきりと二人で共有しているというところが特徴であります。


 三つ目の特徴は、予想されることですが、友人の困難を未然に防いだ、ということです。父サウルはダビデを殺すというその意志は変わりませんでした。それは言葉だけで本当は父はダビデを殺すなどということはないだろうとヨナタンは思っていたのかもしれませんが、父の決意がはっきりしていると知った時、彼はダビデを逃そうとします。これは旧約聖書でも有名な場面ですが、野原に潜むダビデに、彼が安全か危険かを告げる約束をしていました。空高く、3本の矢を射るのですが、もし大丈夫だったら近くに弓矢を射る、本当に命が危ない時は、遠くに弓矢を射るという約束でした。ヨナタンは父の殺意の気持が変わっていないことを知るや、空高く弓矢を3本、従者よりも遥か彼方に飛ばせ、ダビデに危険が迫っているので逃げるようにと知らせます。ヨナタンは正義を実行したのであります。

神の前に真実な、契約に裏打ちされた友情

 これらの特徴は、ダビデとヨナタンの友情というのが、刹那主義的ではなくて、神の前に真実なもの、契約に裏打ちされたものであることを明らかにしており、彼らの人生を貫き通して存在したのです。無論、このサムエル記上をずっと読んでおりますと、ダビデとヨナタンという二人の歩む人生というものは、「幸せ」と同時に「不条理」にも遭遇するものでありましたが、自分のように友人・他者をも尊重するという彼らの基本的な姿勢は、生涯にわたり貫き通されたものであります。

サウル王の三つの側面

 ダビデとヨナタンの友情と全く(全くといって良いと思いますが)逆の人間性をあらわにしたのが、王であるサウルでありました。同じ3つの側面からサウルという王様の姿を概観したいと思います。


 一つ目に挙げられるサウル王の姿は、識見(判断)を見失うことがあったということです。アマレクという民族とサウル王が戦う場面がありますが、その時に神様から託されていた命令、それは敵の全てを焼き尽くせという命令でありました。サウル王はこの神様の命令を軽く考えたのでしょうか。自分の部下の兵隊達が戦利品をあさって取り分けることを容認したのです。預言者であるサムエルは、後にサウル王に対して「あなたは主の言葉を退けた」と告げました。サウル王が戦利品を略奪することを容認するということは、他でもない「主の言葉を退けた」ということでありました。しかしそのことを預言者のサムエルから告げられても、サウル王は自分が「主の言葉を退けた」という自覚を持っていなかった。それが実に悲劇だったと思いますが、彼自身が自分のやったことに気がつかなかった。全くこの識見(物事に対する正しい判断、考え)をもっていなかった。自分のことしか考えなかったのであります。

自分の使命に対する理解

 二つ目に、サウル王は自分に託されていた使命を見失った。戦いに出かける時、当時は勝つことを神様の前に祈るという儀式を執り行っていました。この儀式は祭司がつかさどるべきものでした。ギルガルでのことですが、この犠牲を献げる時刻になっても、祭司(預言者でもある)であるサムエルが到着しないという場面がありました。自分のもとに集まっていた兵士達は、サムエルが来ないならもう帰ろうということで、一人二人と自分の所から去っていく。それを見たサウル王は、待て。私がサムエルに代わって焼き尽くす献げ物を献げるといってささげてしまいました。祭司がいない所で王が祭儀の司式を行う、という愚かさのみではなくて、散り始めた兵を引き戻そうとする・・自分の所に居てくれということでしょうか。これも「主を畏れ、心を尽くし、真(まこと)をもって主に仕えなさい」というサムエルの言葉とは異質のものでした。 サウルは自分がしなければならない仕事、使命に対する理解が不十分であり、それはヨナタンの姿と極めて対照的なものでありました。

困難を自ら招く

 三つ目に挙げられるサウルの姿は、困難を回避するどころか困難を自らに招き込むものでありました。ペリシテ人との戦いからサウル王とダビデが一緒に凱旋した時に、出迎えた女性達は楽を奏しながら「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌ったというのです(18:7)。サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって「ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか」(同8節)と言ったというのです。自分のことしか見ることが出来ない。その結果、無益な比較を他者としてしまいます。嫉妬がはらみ、やがてその嫉妬は人への恐れ(この場合はダビデへの殺意)を生むに至っています。それをサウルの人生は教えるところとなっております。

主の栄光が離れ去った王

 悲劇−悲劇と暗闇といったらいいのでしょうか、それは、このイスラエルの最初の王様といわれるサウルの生涯を覆って、彼の死に至るまで彼から離れなかった。そういう人物であります。主の栄光が離れ去った人物。サウルの生き方は、友情に裏打ちされたダビデとヨナタンの生き方と対照的なものでした。「罪に対する鋭敏な感覚」「主の御旨に対する洞察」「困難に陥った友人を支える」・・それらにおいてサウルという王の生き方は、貧弱なものでした。ダビデとヨナタンの生き方、友情。そして王であったサウルの生き方。それは全く正反対なものであったということであります。

何を学ぶか

 さて、現代に生きる私達は、このダビデとヨナタンの友情から何を学ぶことができるか、換言するならば、反面教師のサウルの姿から何を学ぶことができるかともいえます。それは、人生における二つの関係、人と神との関係、そして人と人との関係、その二つの調和ということであります。この二つが調和してこそ、人生は豊かなものとされる。一本だけが豊かでは本当の豊かさではなく、人と人との関係において、自分が王であり富も豊かに備えられたとしても、人と神との関係が豊かでなければ、人としての姿としては本当に豊かではない。それはサウルの示すところであります。

信仰者に託された言葉

 このダビデとヨナタンの友情というのは、彼ら二人だけのものではなくて、今日開きました新約聖書を参照したいと思います。ヨハネによる福音書の第15章14−15節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」そして17節には、「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」驚くべき言葉だと思います。信仰者に託された言葉。それはイエスキリスト、神との友人関係に、あなたがたはある。僕ではない。私とあなたは友である。という言い方です。時空を超えて、ダビデとヨナタンの友情はまさに神の真実に裏打ちされたものであるということですが、同時に私達と神との関係も又、「友」と呼ばれるにふさわしい関係であるということをここで知らされます。これは驚くべきことでありますが、同時にこれは、キリストの御体である教会に託された言葉でもあります。キリスト者、そして教会。それは、神と共なる関係に生きる、それはさきほど概観いたしました価値観の一つ一つが、この時代においても存在する。その内に私達は豊かに生きることが出来るということを示すものである。そのことを覚えたいと思うのであります。(文責:佐藤義子)