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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-02-28-Sun 「人々の不信仰、神の御計画」 平賀真理子 伝道師

[] 23章5−6節

5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。

6 彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

[] 6章1−13節

1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。

2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。

4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

6 そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、

8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、

9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。

11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」

12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。

13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

はじめに

 イエス様は故郷に帰られました。故郷を訪れたのは、人々に悔い改めを勧め、「神の国」の到来を告げる為でした。故郷でのイエス様の宣教は、神様の権威をそのまま映したような教えであった為、人々は驚きました。ところが人々は、先ず、イエス様の学びの経歴や、奇跡の業の出所を疑い、父親が大工であり、家族・家柄をよく知っていることから、イエス様の話されることに対して疑いをもちました。子供時代を「知っている」「知られている」ことは、互いの心に大きなイメージ(先入観)を残すものです。少年時代のイエス様については、「神と人とに愛された」とルカ福音書にあります。しかしイエス様の成長の過程を見てきたと自負している故郷の人々にとって、イエス様は自分達と同じ延長線上にいる人間であり、ユダヤ人が何千年も待望していた「救い主」と認める(受け入れる)ことは困難であったと思われます。私達は、「人は中身!」と口先では言っても、家柄、学歴、職歴、身分など外面的なもので評価してしまう傾向があります。自分自身が「中身を大事にする」生き方をしていないと、本物がわからないのではないでしょうか。ロマ書に「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」(8:5)とあります。私達は「肉」ではなく「霊」の部分をまず第一に生きているかを吟味したいと思います。

「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」

 この言葉は他の文献にもあるそうで、当時の常識だったのでしょう。故郷での人々については実りが少ないことも予想されながら、それでも故郷の人々にも悔い改めを得させ,「神の国」の訪れを知ってほしいとのイエス様の愛による帰郷だったのではないでしょうか。しかし「人々はイエスにつまずき」(3節)ました。イエス様の奇跡の業を受ける信仰がありませんでした。人々の態度は硬い壁を叩くようなものだったのでしょう。人々の不信仰は、御子イエス様との交流の恵みを自ら捨ててしまったのでした。しかしイエス様の宣教の歩み=神の御計画=を止めることはありませんでした。いや、そうであるからこそ、進めなければならなかったのでしょう。

二人一組での宣教

 付近の村を宣教された後、イエス様は12人の弟子達をご自分の代理として派遣されました。弟子達は二人ずつ一組で,イエス様の権能を授けられ、各地に行って働くことを求められたのです。その働きとは、人々を悔い改めさせ、神の国のすばらしさを知らせることでした。それ迄の自分中心の生き方をやめ、心を神様に向け、神様の御心を第一にして生きることを教え、又、悪霊を追い出し、病気を癒すことでした。

「パンも、袋も、帯の中に金も持たず・・」

 イエス様は派遣にあたり、悪魔の支配するこの世の力(物質)に縛られないため、食べ物やお金などを持たないよう命じられました。神の国を告げ知らせる者は、徹底してこの世のものに支配されることを排除するようイエス様は求められたのです。持つことを許されたのは、杖一本と履物でした。杖は神様の使者としての権威を表わし、履物は福音を告げ知らせる者の美しい足(ロマ10:15)を守るものだからでしょう。

「・・その家にとどまりなさい」

 ある家に入ったら、そこにとどまるように命じられています。宣教が予想したほどすすまない時、何らかの理由をつけて場所を変えるならば、宣教活動に本腰が入らないからでしょう。とどまるということは宣教の拠点を置く(私達でいえば教会)ことです。その一方で、「迎え入れず、耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行く時、彼らへの証しとして足の裏のほこりを払い落しなさい。」(11節)と言われました。宣教が「聖なるもの」であり、神を受け入れない汚れた土地とは何の接点もあってはならないからであり、福音を伝えた後のことは、聞く側の責任であるということです。私達キリスト者は、一人一人が福音伝道者だといえます。神様の救いの働きに参加させていただいている恵みを感謝し、今週も、主の教えと歩みを思いつつ、過ごしてまいりましょう。