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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-08-29-Sun 「信仰の中の不信仰」 鈴木 譱栄 牧師(石巻山城町教会)

[]11章29−40節

29 主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。

30 エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、

31 わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」

32 こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。

33 彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。

34 エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。

35 彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」

36 彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」

37 彼女は更に言った。「わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」

38 彼は「行くがよい」と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。

39 二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。

40 来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。

[]8章12−17節

12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

はじめに

 教会の本棚を整理する内に、「神様への手紙」というアメリカの小さな子供達が神様に手紙を書いた、小さな童話のような本2冊を見つけました。「神様、前にも手紙書いたよね。覚えてる? さて、僕は約束したことはちゃんとやりました。でもあなたは、まだ僕に約束した馬を送ってくれません。どうなってる?」「もしアラジンみたいな魔法のランプをくれたら、あなたの欲しいもの何でもあげるよ。ただしお金とチェスのセットはだめ。」「神様、もしカメラを送ってくれたら僕も代わりに良いものあげます。」大抵はこのようなもので、いろいろなことが書かれています。


 これは本当に子供らしく天真爛漫な祈りで、私達に微笑を与えてくれますが、その内容は条件つきの祈りになっています。しかしよくよく考えてみると、大人である私達もいつのまにかこのような祈りをしているのではないでしょうか。ヤコブが野原で石枕をして夢を見た後、神様に「私を無事に帰るようにして下さるならば十分の一を捧げます。」という祈り(創世記28:20)、又、マルチン・ルターが雷で死にそうになった時、「神様、もし私の命を救って下さるならば修道士になります。」という祈りも有名です。いろいろな危機や困難に直面すると、私達は「神様、こうして下さるならば、私はこうします」というような祈りが自然に出てくる時があり、ある面、純粋な私達の気持の表れでもあり、そのような祈りを神様が聞いて下さることもあります。しかしこれは、危機に直面して自分でも分からず出た祈りであって、それが常にささげられる「祈り」であるならば問題があると言えます。子供なら子供らしさを感じますが大人がそのような祈りを続けるならば、キリスト教信仰を間違って理解する幼稚な祈りといえます。今日は、一国の指導者であったにも拘わらず、そのような祈りで悲劇的な結末を迎えた「エフタ」を通して、私達の信仰を確かめたいと思います。

士師記

 イスラエルは、エジプトの奴隷の生活を400年間強いられ民は苦しんで神様に叫びました。神様はその叫びを聞き、モーセを通してイスラエルの人々をエジプトから解放しカナンの地に導きました。イスラエルの人々はさまざまな奇跡を味わい、荒野での生活を通して神様の臨在を体験したにもかかわらず、カナンの地に入ると異邦人達の文化やその風習、又、偶像崇拝の罪悪に染められていきました。神様が警告し憎まれた他の神々を礼拝し、カナンの宗教的な慣習に同化されていきました。その都度、神様は他の国々を興し、イスラエルを苦しめ侵略するように仕向け、その危機の中でイスラエルが神様に立ち帰るようにされました。


 危機に直面すると、神様は一人の指導者を選び、彼を通して神様の御旨を伝え、神様に背いた状態から正しい信仰に戻るように神様の愛を一生懸命に訴え、神様の前で正しく生きることが何であるかを教えて無理やりにでも引き戻す、そのような過程がよく描かれています。


 人間は、罪を多く行ない背く存在であることを示しています。それにも拘わらず神様は、イスラエルをご自分の民として選ぶのをあきらめない。どうにかして自分が選んだ民を、様々な試練や問題を通して神様に連れ戻そうとする、その愛と執念が描かれているのが士師記です。

試練の意味

 皆さんが人生を歩んでいる内に様々な試練に会う。何か上手くいかない。問題が続く。その時はそこに神様の御手が働いておられる。もし、そのまま神様から離れて遠く行くとそれは滅亡の道なので、神様に立ち帰るように。そこにはもっと大きな祝福と恩寵が待っているということを心に留めておきたいと思います。


 神様が私達の歩みに介入して下さる。働いて下さる。それが祝福なのです。自分の子供でなければ好き勝手にしてもそのままにしていますが、神様が愛しているゆえに、行く道をふさいで、神様の御許に立ち帰るように促しておられるのです。これこそ神様に選ばれた証拠です。そのことを早く悟れば神様の愛のふところに早く入ることができますが、我が強い人は、自分勝手にあっちこっち行きますので、傷だらけになります。(イスラエルは約束の地まで40年間さまよいました)。そのような人にならないで、「これは神様の御手だ」と捉えて、早く教会に戻ってひざまづいて神様に祈り、悔い改めたなら、神様の暖かい御手が皆さんを立ち上げて下さるのです。

ギレアドの人、勇者エフタ

 今日聖書に出てくるギレアドのエフタは「勇者であった」(11:1)と書かれています。しかし彼は両親の正式な結婚生活の中で生まれた人ではなく、母は遊女でした。当時においては罪人のように無視された女の人から生まれた、そのような背景を持っている人でした。エフタが大きくなると、正妻の子供達から「あなたはよその女の産んだ子だから、私達の父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と言って追い出されました。今を生きる私達の世界にも有り得るような話です。エフタには何の罪もなく、ただ出身が悪いというだけで故郷を離れて住まなければならなくなりました。当時、家族や親戚がいる安全な所から離れて一人で暮らすということは、様々な危険を伴う生活でした。家から追い出されたエフタは兄弟達を避けてトブというところで暮らしていましたが、自分のそのような立場を悲観して絶望にくれるのではなく、たくましく生きる道を模索したような気がします。「そのエフタのもとにはならず者が集まり、彼と行動を共にするようになった。」(3節)。それを見るとエフタは力強い勇士でありましたが、賢く、ある面、心が痛んでいる人や世の中で落ちこぼれになった人達をしっかり引き寄せる人柄を持っていたのではないかと思われます。悲しみと痛みを覚えている人々、捨てられた者達が、エフタのもとに集まって来たのです。

ギレアドの長老達

 しばらくしてアンモンの人々が、イスラエルに戦争を仕掛けてきました。危険にさらされたギレアドの長老達は、エフタを連れ戻そうとやって来ます。「帰って来てください。私達の指揮官になっていただければ、私達もアンモンの人々と戦えます。」(6節)を見ると、エフタの群れが、いかに力強い大きな群れになっていたのかが分かります。当時は王はなく、神様から選ばれた人が、神様の指示に従って、自分の民を治めていました。近隣地域との摩擦が常にあった当時において、強い軍事力と優れた指導力をもった指導者がいるかいないかは、その国の存亡が左右される重要なことであったのです。それでギレアドの長老達は、危機を前にして、自分達が追い出したエフタの所に助けを求めて下ってきたのです。


 エフタは「私がアンモン人と戦い、主が彼らを私に渡してくださるなら、この私があなた達の頭になると言うのですね。」と、長老達の話を確かめようとします。それはギレアドの人に対する不信感が残っているような感じがします。勝利の後、いつか又変わるのではないかという気持が見えます。そして、「主が彼らを私に渡してくださるなら」と言うのを見ると、戦いに勝つのは自分の力ではなく、主の力によるものだということをしっかり示しています。エフタの信仰の姿勢が表れているのです。人々から捨てられ、荒野の生活を体験したエフタは、人を頼るのではなく神様に頼っていく、そのような姿勢を常に学んできたのです。


 ギレアドの長老達は言います。「主が私達の一問一答の証人です。私達は必ずあなたのお言葉どおりにいたします。」

指導者として立つ

 このように、遊女の息子として、差別や無視の対象であったエフタは、イスラエルを導く指導者になりました。人間は外面を見て、その人達の出身や持っているものを見ますが、神様はその人の心の中心を見ているのです。ギレアドに戻ってきたエフタは、まず主の御前に出て、自分が言ったことをことごとく繰り返す姿があります。エフタは主の御前で、今までの全てのことを、自分の心情をことごとく神様に告げています。


 エフタがいかに勇敢な人であっても、一国の軍隊と戦うことが心にいかに大きな負担になったのか分かります。彼は人々が頼るほど大 きな力を持っていたようであっても、この戦争を前にして、本当に小さな惨めな心になって、神様の前で一日、ことごとく、その戦争について話をしているのです。つまり、祈っているのです。アンモンの王は、戦いの理由を、昔イスラエルがエジプトから上って来た時、アンモンの国土を奪ったから、今、それを平和に返還せよ、と伝えてきました。これに対してエフタは使者を送り、アンモンの王の話が間違っていることを詳しく、歴史的な事実を用いて反論をします。それを見ると、エフタは緻密にいろいろなことを考え、戦争を避けようとする様子までも見せています。


 しかしアンモン王はエフタの話を聞こうともせず、戦争を仕掛け、ついには戦わなければならなくなりました。その時「主の霊がエフタに臨んだ」(29節)とあります。イスラエルの民のために戦う為に、「主が共におられる」。そのような「しるし」が与えられました。

エフタの誓い

 エフタは兵を集めます。その時エフタは主に誓いを立てています。

「もしあなたがアンモン人を私の手に渡してくださるなら、私がアンモンとの戦いから無事に帰るとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」

 そしてエフタは、アンモンと戦い、徹底的な勝利をおさめます。勝利の喜びをもって帰ってきたエフタの前に彼を迎えたのは、喜びに溢れて踊りながら家から出てきた彼の一人娘でした。突然、勝利の喜びは、悲劇に変わりました。イスラエルには人を神様に献げるというような習慣はないのです。しかしここにそのようなことが書かれているのは、当時、異教の宗教の儀式が、一時的にイスラエルにも入って来たのではないか、と聖書学者達は解釈しています。


 一人娘を失うエフタの悲しみ。父親の話を聞いた一人娘は、その父親の誓いに素直に従いますが、悲しみが込められているこの娘の話は、読む者を残念な気持にさせるのです。

信仰の中の不信仰

 今日、この話が私達に示して下さることは何でしょうか。


 勇士エフタは、だんだん敵の兵が近づいてくるのを見ながら、「神様、あなたがアンモン人を私の手に渡して下さるなら、・・の者を献げます」と祈りましたが、この祈りには、主の助けを信じていながらも、敵を前にして、敵に対する恐ろしさと不安にゆれているエフタの気持が感じられます。あせる気持で、勝利に対する願いをしながら、その代価として何かを神様に献げるという条件つきの誓いを立ててしまうのです。「勝利に対する保証」を得ようとする緊張感と焦りが感じられます。いかなる犠牲を払っても、神様の助けを求めなければならないという危機感と真剣さの余り、このような誓いをしてしまったのです。


 これこそ、私達信仰者が持っている、「信仰の中の不信仰」なのです。

「主の霊」が臨み、「神、共にいます」にもかかわらず・・

 エフタをイスラエルの頭にしたのは、人間の業を通して働いて下さる神様のご計画によるものでした。エフタに主の霊が臨み、エフタも主が自分とイスラエルと共におられるのを確信していました。それなのに、あまりの不安に、「神様、私がこのようにしますから、このようにして下さい」と幼稚な祈りをしているのです。神様は人間の何かを必要とする方ではなく、人間の行為によって動かされる方でもありません。私達が無理な誓いを立てることによって願いがかなえられたり、神様の御心が変えられることはありません。


 痛みと苦しみを覚えながらも、誓いを実行しようとするエフタとその娘・・誠実な信仰の姿が見えますが、信仰者でありながらも不信仰な態度をとったその代価は大きなものでした。

ロマ書8章12−17を通して

 神様は愛のゆえに、私達を愛して下さるから独り子イエスをこの世に送って下さいました。神様の人間に対する一方的な恵み、憐れみによって私達は救われたのです。私達は主イエス・キリストによって神様の子になりました。私達は神様の子として、父なる神の相続者としての身分が与えられました。それで、「アバ父よ」と神様を呼ぶのです。子供が「パパ」とお父さんを呼ぶように神様を呼び、すがりついて頼む。そのような祝福が与えられているのです。私達が神様を愛し、神様に私自身を献げ、奉仕し、礼拝を守り、主の体である教会の為に働くということは、そのような神様に繋がれ、そのような神様に応えてゆくのです。


 この世には、私達を不安にさせるもの、いろいろな問題があり、誘惑に満ちています。しかし、全ての戦いに勝たせて下さる、そのような神様に自分自身を投げる、委ねる、進み出る者には、必ず勝利があります。