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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-01-30-Sun 「まだ悟らないのか」 伝道師 平賀真理子

[]5章21−31節

21 「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず/耳があっても、聞こえない民。

22 わたしを畏れ敬いもせず/わたしの前におののきもしないのかと/主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め/それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず/とどろいても、それを越えることはできない。

23 しかし、この民の心はかたくなで、わたしに背く。彼らは背き続ける。

24 彼らは、心に思うこともしない。『我々の主なる神を畏れ敬おう/雨を与える方、時に応じて/秋の雨、春の雨を与え/刈り入れのために/定められた週の祭りを守られる方を』と。

25 お前たちの罪がこれらを退け/お前たちの咎が恵みの雨をとどめたのだ。」

26 「わが民の中には逆らう者がいる。網を張り/鳥を捕る者のように、潜んでうかがい/罠を仕掛け、人を捕らえる。

27 籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。こうして、彼らは強大になり富を蓄える。

28 彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず/貧しい者を正しく裁くこともしない。

29 これらのことを、わたしが罰せずに/いられようか、と主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。

30 恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。

31 預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」

[]8章11−21節

11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。

12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。

15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。

16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。

17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。

18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。

19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。

20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、

21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

はじめに

 今日の聖書に「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして・・」(8:11)とあります。イエス様は、ユダヤ人・異邦人の区別なく神様の救いを求めている人々の救いのために、自由に旅をされました。一方、ファリサイ派の人々は、律法を重んじるあまり、律法を知らない異邦人と接触して自分達が汚れることをとても嫌っていました。ファリサイ派の人々にとって腹立たしいことは、自分達が軽蔑している「異邦人」を救う奇跡をイエス様が行っていることです。そして、ユダヤの民衆だけでなく、周辺の異邦人達からもイエス様への人気が高まったことへの嫉妬がありました。ですから、「イエス様を試そうとして」の「試す」はイエス様の人気や権威を失わせる目的を含んでいました。何が何でもイエス様を「神の御子」として認めることは絶対にしないという前提で、イエス様に対して「天からのしるし」を求め、議論をしかけました(11節)。「天からのしるし」とは、「太陽や月がどうにかなる天変地異」や、旧約聖書の預言者が行った奇跡と同じような奇跡を要求したと考えられます。イエス様を信ぜず、悔い改めのないファリサイ派の人々を、イエス様は「そのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれ」ました(13節)。

パンを持ってくるのを忘れた弟子達

 舟の中で、イエス様は弟子達に「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」と戒められました(15節)。「パン種」とは、パンを膨らます酵母菌(イースト)で、少し入れれば大きく膨らむことから、ほんの少しで、人々や社会に広く影響を及ぼす原因となるものと考えられます。「ファリサイ派の」とは宗教における形式主義者のことで、神様を第一にしていると言いながら「律法」という決まりだけを守らせ、その精神に立ち返ることをしないため、手本となるべき彼ら自身の姿勢が間違っているので、指導される民衆にも腐敗が広がっていくのです。「ヘロデの」と言われるヘロデ王は、イエス様ご降誕の時、幼児を虐殺したヘロデ大王か、又は息子で洗礼者ヨハネを斬首したアンティパス王か、どちらにせよ、自己保身を暴力で図るヘロデの流れを指します。このような悪から弟子を守る為に「気をつけなさい」とのイエス様の戒めに対して、弟子達は「パンが一つしかない。足りない…」としか受けとめることが出来ませんでした。

なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。」(17節)

 そこでイエス様は、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」とエレミヤ書を用いながら(5:21)、「分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。覚えていないのか。」と何度も言葉を重ねておられます。それは、パンが与えられた奇跡を通して、神様の御業が明らかにされているのに、そのことを理解できず、自分の関心事しか見えず、聞こえず、理解できない鈍感な弟子達に対する嘆きと叱責に聞こえます。

叱責ではなく期待と励まし

 マルコ8章には、イエス様に相対した3つのグループの姿があります。第一は群衆。第二はファリサイ派。第三は弟子達。信じて集まって来た群衆にイエス様は奇跡を行われました。ファリサイ派の人達には「しるし」を与えることを拒まれました。そして弟子達には特別な恵みが与えられています!神様の人間に対する愛と、イエス様を通して人間を救おうとする御旨を理解してほしいと期待されています。弟子達は普通の民衆でしたが、主に見出され、呼びかけに応じて従った者達です。今日の聖書での弟子達は、イエス様のファリサイ派に対する思いや自分達への愛情も理解できず、パンの心配をしているような者でしたが、彼らは望んでいることより はるかに豊かで素晴らしい恵みを与えられています。イエス様は、神様の救いのご計画において弟子達に期待されているのです。弟子達の姿は、私達の姿そのものではないでしょうか。「まだ悟らないのか」は叱責ではなく、私達への期待と愛の励ましです。