Hatena::ブログ(Diary)

日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-03-06-Sun 「パウロとアグリッパ王」 牧師 佐藤 義子

[]1章2−4節

2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。

3 牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。

4 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。

[]26章24−32節

24 パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」

25 パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。

26 王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。

27 アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」

28 アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」

29 パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」

30 そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。

31 彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。

32 アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。

はじめに

 総督がアグリッパ王の願いを受けて、町の主だった人々も集めてパウロを鎖をつけたまま引き出し話をさせた時、パウロはまず、自分がユダヤ人として幼い時から旧約聖書を学び、厳格なファリサイ派の一員として律法に忠実に従い信仰生活を送ってきたこと、そしてキリスト教徒達をひどく迫害してきたことを告白します。その迫害している最中に、天からイエス様の声を聞き、イエス様が神の御子、救い主であることを伝える使命を与えられたこと、彼はこの使命を受け入れて、それに従ったことを語りました。彼がしてきたことは、人々に、今の生活を悔い改めて神様のもとに立ち帰り、神様に喜ばれる行いをするようにという勧めでした。彼の宣教は「救い主は苦しみを受け、又、死者の中から最初に復活して、全ての人に光を語り告げることになる」ということを伝えたのであり、自分は、聖書に書かれていること以外は何も語らなかったと、堂々と伝道したのです。

短い時間で・・

 ところが話を聞いていた総督が大声で、「お前は頭がおかしい」と話を中断しました。パウロは総督に、自分は真実で理にかなったことを話していると答えた後、今度はアグリッパ王に向かって、「ユダヤ人なら誰でも知っているイエス・キリストの十字架と復活、又、聖書に書かれているメシア(救い主)の預言のことなど、王様、あなたなら知っている筈だ」と語りかけました。「預言者達を信じておられますか。信じておられることと思います。」と、突然パウロからほこ先を自分に向けられた王は、心の準備もないまま、「短い時間で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と、パウロの問いから逃げてしまいました。

パウロの訴え

 私達も又、この王のように、真理の言葉を聞きながら、そして自分に問われているのに他人事のように聞き流してしまうことが多くあるのではないでしょうか。根拠のない安心感の中にいた王は、「短い時間で・・」と、答えないことの弁解をしましたが、パウロはすかさず、「短い時間であろうと長い時間であろうと・・」と、救われる信仰に「時間の長さ」は関係ないこと、パウロの願いと祈りは、王様はじめその場に集まったすべての人達が、自分のように光の世界で生きてほしい、悔い改めて神のもとに立ち帰って欲しい、そして悔い改めにふさわしい行いをして欲しいことだと訴えました。

救いのチャンスを無駄にしないためには

 このあと、アグリッパ王は席を立ち、パウロの話は終りました。王は、パウロの語る真理の世界(光の世界)から逃げて、再び暗闇の世界に帰ってゆきました。「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と評論家のように語り、自分が救いのチャンスを逃したことに気づいていません。パウロの説教を聞きながら、彼は、闇の世界と光の世界について一瞬でも考えたことでしょう。今のままでよいのか、と自分の心に問うたかもしれません。しかし彼は自分の心の奥を、深く見つめることをやめて、神のもとに立ち帰り悔い改めにふさわしい新しい生き方を選ぶチャンスを逃してしまったのです。せっかく心に救いの種が蒔かれたのに、その種は、鳥に持っていかれ、跡形もなくなってしまいました(マタイ13:18)。


 私達は、大切な問いから逃げることなく、蒔かれた種が実を結ぶ土壌にしていただけるよう、救いの道を励んで歩みたいとねがうものです。