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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-06-12-Sun 「神の業が現れるため」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

ペンテコステ礼拝及び開設七周年記念>

[] 42章1−6節

ヨブは主に答えて言った。 あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。 「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。

[] 9章1−5節

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。」

はじめに

本日の礼拝は仙台南伝道所開設七周年の記念の礼拝であり、又、ペンテコステの礼拝ともなっております。ペンテコステは、ギリシャ語の50を意味することから五旬節(ごじゅんせつ)とか五旬祭とか訳されております。ユダヤ人は過ぎ越し祭から数えて50日目に春の収穫(麦)を祝う祭を行なっておりましたので、ペンテコステは春の祭りでもありました。

イエス・キリストが十字架につけられて三日後に復活し、その後人々の前に現れて、やがて天に昇り、そういう出来事が起きた数日後に五旬祭がやってまいりました。イエス・キリストの十字架のあとのペンテコステの日に、弟子達は天から聖霊が降るという体験をいたします。いわゆる聖霊降臨の出来事です。

その日以来、弟子達はイエス・キリストにある礼拝を自覚的に守り始めます。それで私達はこのペンテコステの日を「キリストの教会が始まった記念の日」とも呼んでいます。今日、このペンテコステの日に、いにしえからの問題である「因果応報」の問題について考えてみたいと思います。

因果応報

因果応報というのは、それに従って、良いことは良い結果を生み、悪いことは悪い結果を生む。どのような時においても、勧善懲悪(良いことを行なった人はほめられて、悪いことを行った人はこらしめられる)という結果で終るならば、私達の心は平安の内に納得するのですが、正しい者がひどい目に合ってしまう、悪い者が栄える、となると、私達の納得はたちまち崩壊し、当惑してしまいます。筋が通らない、道理がたたない、理解し難い、不条理である・・心の中は穏やかではいられなくなるのです。

善良な市民が因果応報に合わない災厄に会う。これは不条理であり、どうしてこんな事が起きるのか、と嘆くことになります。不条理をどのように理解して受け止めればよいかという課題は、聖書の中の人物達が問いかけ、又、時代を超えて私達にもつきつけられている課題です。

 本日は、旧約聖書の人物・ヨブが体験した不条理に注目しながら、不条理についてご一緒に考えたいと思います。

ヨブ  

ヨブ記を概観しますと、登場人物を四つに分けることが出来ます。順に挙げると、ヨブと家族、神、サタン、ヨブの友人達、のグループです。

ヨブ記は次の言葉から始まっております。「ウズの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ロバ五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。」 

ヨブは全き信仰を有していた人物でした。当時、神の祝福と考えられていた子孫や財産が豊かに与えられ、しかも東の国一番の富豪であったということから、その地域で一番の信仰深さをもっていた者と言う評判をされていたのです。人々だけではなくて、神もヨブの信仰を認めていました。

神はサタンに語りかけます。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

神の言葉を聞いたサタンは抗弁致します。「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

サタンの主張

サタンの主張は『ヨブは御利益があるから信心があるのだ。何も得るものがなければ信仰を捨ててしまう』というのです。「結果があるから原因がある」というのです。サタンはヨブを試みました。家畜や子供達を取り去って(即ち、神から与えられた祝福のすべてを奪って)しまいます。しかしヨブの信仰は揺らぐことはありませんでした。そして、神のヨブに対する評価も変わることがありませんでした。

しかしサタンは又、神に抗弁致します。実にサタンは神に逆らうものですが、「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」サタンは、「ヨブの信心など、命の危険にさらされるならばふっ飛んでしまう」と主張したのです。そして再度ヨブを試みます。

三人の友人達

ヨブは全てのものを失い、そして自らの命にかかわる災厄をこうむる。いわれなき災厄です。不条理が襲いかかってきたのです。さてそんな時に友人達がやってまいります。テマン人エリファズ、シュア人のビルダド、ナアマ人のツォファルの三人の友人がお見舞いにきます。彼らは不条理というものを認めません。当時の常識的な考え方を持っていました。即ち、信仰深い者には神は祝福を与え、信心の足りない者や、罪を犯した者には裁きを与える。因果応報の考え方を持っていたのです。その彼らがヨブにお見舞いをしにやって来て語りかけます。

彼らはヨブの姿を見て、これはとても神の祝福が与えられた姿ではない。むしろ神から罰が降った結果の姿である。だからこのひどい最悪の悲惨な状況を除く為には(結果を変える為には)原因である「罪」をヨブが悔い改めなければならないという勧めをするのです。『考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ 正しい人が絶たれたことがあるかどうか。わたしの見てきたところでは 災いを耕し労苦を蒔く者が、災いと労苦を収穫することになっている。』

悪い事をしたから悪い結果を得たのだ。そういうふうにして、ヨブに、早くこの悲惨な状態から脱しなさい、悔い改めなさい、と勧めます。それが友人達の慰めの言葉でありました。

ヨブの悩み

その言葉を聞いたヨブも又そう思い、因果応報に従って考えました。ですから非常に困惑し、悩んだのです。なぜなら、こんな結果を招いた原因であるはずの罪を、自分の内に見出せない。悔い改めたいのだけれども、何を悔い改めていいかわからない。全き人ヨブでしたので深刻な状態に直面したのです。

もし、罪と言う原因がないのに災厄だけが、悲惨な結果だけが降りかかってきた、という事実があるとするならば、因果応報の法則に従って人を取り扱う神が、説明できない不公平を容認したことになる・・。あってはならない不条理が起きた!ヨブにとっては深刻でありました。

不条理

 不条理という問題に直面したのはヨブだけではありません。ユダヤ人がユダヤ人というだけで虐殺されたホロコーストの体験も不条理でした。皆様も読んだり聞いたりしたことがあると思いますが、その不条理を伝えた本の一冊が、精神医学者のヴィクトール・フランクルの著した「夜と霧」でありました。彼は、ユダヤ人というだけの理由で逮捕され、アウシュビッツ収容所に送られ、彼の両親と妻と子供はガス室で殺されたり餓死をし、彼だけが奇跡的に生き伸びたのです。彼の本の中に次のような一節があります。

「人生から何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が我々に何を期待しているかが問題なのである」。

アウシュビッツから解放されて数年後の著作でありますが、「人生から何か、私達が与えられるのではないか、何か貰えるのではないかと期待して生きるのではなく、正しい行いによってむしろ人生に答えを与える生き方をするのが重要なのだ」というのです。

こんなフランクルの人生観に触れて、自分の生き方を180度転換させたのが、国際政治学者の姜尚中(カン サンジュン)です。在日コリアンとして生れ、苦しい青春時代を通して絶えず彼を悩ましたのは、自分はなぜ生きているか、であったといいます。「悩むことにも意味が」「病むことにも意味が」というフランクルの言葉に触れて、目からうろこが落ちる体験をしたと言います。

不条理を受け入れる

人は誰でも不条理を抱えて生きている。むしろ意味を見つけ出して、その不条理を受け入れる時、自分が自分と和解出来るのでないかと悟ったというのです。不条理の人生を嘆くのではなくて、不条理の人生に対して、自分なりの答えを投げかけ、そしてその人生をこつこつと歩む。そこに、生きる意義があると悟った、というのです。

フランクルや、姜尚中(カン サンジュン)もそうでありましたが、ヨブは不条理の人生にどのような意義を見出したのか。その答えが、本日のヨブ記42章の1節から6節です。

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ヨブは主に答えていった。

「あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

『これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは。』

そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。

『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』 

あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵(ちり)と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。」

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「何の利益も与えられない」といって嘆くのではなくて、「神と共に生きる」。そこに、生きる生きがいを見い出した。「ただ生きるのではなくて、神と共に生きることこそ意義がある」と悟ったのです。

姜尚中(カン サンジュン)の言葉でいうならば「人間てすごい。捨てたものではない。」 フランクルの言葉でいうならば、「それでも人生にイエス(Yes)という。」 そしてヨブの言葉でいうならば、「今、この目であなたを仰ぎ見ます」という生き方です。

「誰が罪を犯したか」 

 この不条理という問題は、新約聖書にも出てまいります。今日引用したヨハネ福音書もその一例です。「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子達がイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』」

時代は旧約から新約に過ぎ去っていますが、弟子達はやはり因果応報の考え方に従ってイエスに質問をしています。当時の常識的な考え方によれば、目が見えないのは、原因が必ずあるはずで、罪がそこにあるはずである。だから弟子達は誰が罪を犯したのかと聞き、生れた時から目が不自由であることは、本人が罪を犯す余裕はなく、本人以外の、一番近しい存在である両親が罪を犯した結果なのかと問うたのです。あくまでも因果応報の法則上です。

神はわれらと共にいて下さる。

イエス・キリストの答えは明快でありました。

『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れる為である。』

驚くべき言葉です。目が見えないことが神の業が現れる機会であるというのです。具体的にどのような業が現れるかということは、人、それぞれの場合で異なることですので、個別の事象を普遍的なこととして理解することは出来ませんが、しかし、どのような場合においても確かなこととして言えることは、不条理と思われる災厄においても尚、「神はわれらと共にいて下さる。」ということです。

ヨブは究極の不条理に置かれた時、なおかつ彼は「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と語り、生きる。しかし「ただ生きる」のではなく、「神と共に生きる道」を自覚的に保持致しました。

そんな生き方、それはペンテコステ以後の教会、イエス・キリストという救いの根拠を与えられている今日においても尚、私達の生きる信仰の告白として聞く。そして私達もその道を生きるものでありたいと願うものです。