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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-09-04-Sun 「悔い改めなければ」  牧師 佐藤 義子

[]5章6−9節

主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。 裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。すばるとオリオンを造り/闇を朝に変え/昼を暗い夜にし/海の水を呼び集めて地の面に注がれる方。その御名は主。主が突如として砦に破滅をもたらされると/その堅固な守りは破滅する。

[]13章1−9節

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

はじめに

今朝の福音書には二つの段落がありますが、内容は一つです。どちらも私達に「悔い改めなければ滅びる」と警告しています。今は、イエス様の執り成しによって救われる道がまだ開かれている時です。しかし、来年迄の猶予期間内に悔い改めることをしなければ、救いの道は閉ざされます。

ある不幸な出来事

イエス様に、ある出来事が報告されました。それはピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことでした。古代イスラエルでは、自分の罪に対する神様の怒りをなだめ、罪の赦しを得る為、又、神様に近づき、神様と交わる手段として動物の犠牲をささげる宗教的慣習がありました。旧約の預言者達は形式的な動物犠牲よりも精神的な悔い改めが大切であることを訴えましたが、バビロン捕囚以後、動物の犠牲を捧げることが礼拝の重要な要素となりました(牛・やぎ・羊など。貧しい人は鳩等)。

この事件のくわしいことはわかっていませんが、恐らく礼拝を捧げに来たあるガリラヤ人達がピラトの怒りにふれ、ピラトはこの人達を犠牲の動物と一緒に兵士達に切り殺させたようです。このようなことは、ユダヤ人社会にとって、特別にショックに感じられる出来事でした。

神の裁き?

このことを報告した人達は、これはガリラヤ人に下った厳しい神の裁きであると考えました。特にファリサイ派の人々は、災難を受けた人々は他の人々より罪が深かったから、そして人々に知られていない罪を彼らが沢山犯したからだと考えていたようです。イエス様に報告した人達は、この災難はガリラヤ人達の特別な罪が罰せられたのであり、この災いは自分達にはふりかからなかったと考えて安心していたのです。

「決してそうではない。」

イエス様は、他人の災難と比較して自分は罪人ではないという自己満足に陥り、悔い改めを怠っている人達に、「決してそうではない」と、はっきり因果関係を否定しました。そしていちじくの木の譬えを話されたのです。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植え、三年間実を結ぶのを待ったけれども木は実をつけなかった。そこで主人は園丁に、木を切ってしまうように命じたが、園丁は、こやしをやってみるので来年まで待ってほしい。それでもだめなら切り倒して下さいと頼んだ話です。

譬え話の意味

ぶどう園の主人は父なる神様です。実を結ばない木を、あと一年待ってほしいと頼んだ園丁はイエス様です。実を結ばない木は、悔い改めることをしない人のことです。イエス様は、悔い改めをしなければ私達の魂は間違いなく滅びると明言されます。滅びの反対は救いです。もし悔い改めれば、滅びから救われて天の国(神の国)に招かれ、永遠の命を与えられる約束があります。道は二つだけで、選ばなければなりません。

悔い改める

  悔い改めるとは、これ迄の、自分自身に仕える生き方(=自分自身の思いを最優先させる)をやめて、神様に仕える生き方に変えて、神の御子・イエス様を信じて受け入れ、その教えに従って生きていくということです。自分がしたいからするのでなく、神様が自分に何を望まれているのかを最優先に考えて生きることです。それが譬え話の「実をつける」ことです。