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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-11-13-Sun   「救いの時、信仰の実」     伝道師 平賀真理子

[]7章1−2節

悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。 主の慈しみに生きる者はこの国から滅び/人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい/互いに網で捕らえようとする。

[]11章12−25節

翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

はじめに

私たち人間は、自分の無力さを知った時、無条件に「そこから救われたい!」と思います。魂は、神様が造られた本来の平安な世界を知っているのかもしれません。人は困った時にのみ神様を思い出し、「救って下さい」と祈ります。神様は、そんな罪深い人間を救う為に、まずイスラエル民族を選び出し、常に「救いの手」を差し伸べてこられました。それがこの厚い旧約聖書に証しされています。ところがイスラエル民族は神様に対して不従順を繰り返してきました。それでも神様は人間を愛するがゆえに、全人類を罪から救う為、御子イエス様をこの世に送って下さいました。イエス様の宣教活動中に、イエス様への信仰を表した人々は救われました。

最後の一週間

イエス様のご生涯の最後の一週間は、神様の「救いの時」の恵みが豊かに示されています。今日の聖書は、二日目と三日目の早朝の出来事です。イエス様一行は、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実を求めて近寄りましたが葉の他、何もありませんでした(季節ではなかった)。「いちじく」は聖書の中で度々取り上げられます。特にホセア書では、神様がイスラエル民族を、ご自分の民として見出した喜びを「いちじくの・・初なりのように見た」(口語訳9:10)と表現されています。他の民族に先駆けて、イスラエル民族を一番に愛されたことを言われたのでしょう。いちじくは年二回実を結びます。早春に緑色のこぶがつき(初なりの実)、それが成熟しつつある間に第二のつぼみが出て、秋口においしい果実がなるそうです。神様は、「いちじくの初なりの実」を、選民イスラエルに求められたのです。

イエス様といちじく

イエス様もイスラエル民族に、「初なりの実」を期待されたのでしょう。「空腹を覚えられた」は「切望した」の意味があります。選民イスラエルに、「イエス様をメシアと信じる信仰の実」を示すことを切望されたと理解できます。しかし今、メシア(イエス様)が神の都エルサレムに来ている時に、「信仰の実」を示すことが出来なかったことを、「葉の他は何もなかった」と表現しているようです。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(14節)は「救いの時」をわきまえられなかった選民イスラエルは、もはや選びから外されたとの嘆きでしょう。

宮清め

その後、エルサレム神殿に入られたイエス様一行は、境内で、神様に献げる犠牲(動物や鳩)の売り買い、両替などの商売人達が神殿に敬意を払わず、我が物顔して商売しているのをご覧になり、旧約聖書を引用して非難されました。神殿は、まず神様と人間の心の交流(礼拝)を行う聖なる場所であるゆえに、イエス様は、一切の商売を止めさせました。

枯れたいちじく

 翌朝早く一行は再び「いちじくの木」を見ましたが、根元から枯れていました。このことは、神様の救いの時に信仰の実を示さなかった者の行く末が「滅び」であることを示しているように思います。或いは逆に、こうも言えるでしょう。「御言葉や御心」に従って進まれるイエス様の、この世に打ち立てた主権こそが、本当に凄いものである、と。その主権の大きさについてイエス様は、神様の力を少しも疑わず信じることが出来れば「信仰によって山を動かす」ことも可能であると証ししています。

信仰の実をささげる

御子イエス様の到来によって全ての民に啓示された福音を、私達は聞き信じる幸いを与えられています。今や「神殿」とはエルサレム神殿ではなく私達自身のことです(「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(?コリ3:16)。 長年待ち続けた「救い」の時が到来しています。今こそ神様への応答として「信仰の実」を献げられるよう「救い」を受け取りましょう。