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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-11-20-Sun 「希望は私たちを欺くことがない」 佐々木哲夫先生 (東北学院大学

[] 62編1−13節

【指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。】わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。〔セラわたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。

[]5章1−5節

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

はじめに

最近は、「希望」と言う言葉を聞くことが多くなりました。今般の国会で、野田首相が所信表明演説の締めくくりを、「国民が希望を持つような政治をしようではありませんか」との言葉で閉じていました。

私達が「希望」という言葉を聞きますと、ギリシャ神話の「パンドラの箱」を連想します。パンドラが黄金の箱を開くと、そこから出て来たものは病気、盗み、妬み、憎しみ、悪だくみ・・など、世のあらゆる悪がそこから出てきました。慌ててその箱を閉めようとした時に、最後にその箱から出てきたのが「希望」でした。もしこの箱が万が一、開けられた時の為に、箱の底に、プロメテウスがしのばせて置いたものでした。 どんなにひどいことが起きても、希望を持って生きていく為に置いたものでした。

今日よりも明日は必ず良くなる、こうなりたい、ああしたい、将来に実現を期待する、願う。それが私達の知っている希望です。

聖書に登場する「希望」

他方、本日読んでいただいた新約聖書には「希望」という文字が三か所記されております。「神の栄光にあずかる希望」(2節)、「練達は希望を生む」(4節)、「希望は私たちを欺くことがありません」(5節)です。

ここに記されている「希望」は、私達が承知している希望と同じものなのでしょうか。異なるとすると、どのように異なっているのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。

本日の聖書は、説教でしばしば引用される個所でもあります。

特に有名なのは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉です(4節−5節)。

苦難

最初の「苦難」は、私達がこの世で出会う様々な問題・・・衣食住のこと、健康のこと、年齢を重ねることによる不自由、仕事のさまざまな問題、生きていく上で解決しなければならない様々な問題を「苦難」と言い表しております。「苦難」という表現の時は勿論、苦痛が伴います。他の箇所では「迫害」とも訳されており、決して解決がそう簡単なものではない、楽ではない、そういう問題のことです。この解決しなければならない問題に直面する時に、逃げることなく、しっかりとその苦難を引き受ける。その為には「忍耐」が必要とされてきます。

忍耐

パウロは手紙の中で「大いなる忍耐を持って、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって」その忍耐を貫き通したと記しています(2コリント6:4−7参照)。それゆえ、この苦難を引き受ける時に「忍耐する」というのは、決して受け身の姿勢を意味しているのではなくて、むしろ、問題解決の為に自分は何が出来るのか、という対応策を模索する積極的な姿勢を意味して「忍耐」といっているわけです。

しかしてそれは、「練達を生む」と聖書は記すのです。

練達

「練達」という言葉は、「練られた品性」など、さまざまに訳されている言葉で、直訳するなら「テストに合格している」ということです。

すなわち「苦難と忍耐」というテスト、そのテストに合格の判定を得た心、しかも強い心で、柔和で純真な心、まるで火の中を何度もくぐりぬけた鍛錬された名刀のようなもの。「苦難」を、忍耐を持って引き受けると、それは人を磨き上げていく。それを聖書は「テストに合格したような確かな人間性を備えたものとなる」という。その「練達」がまさに「希望を生む」というのです。

希望

この「希望」は、「神の栄光にあずかる希望」(2節)、「私たちを欺くことのない希望」(5節)、両方合わせて「神の素晴らしさに自らも参与したいと願う希望。それは私達を決して裏切らない」というものでありましょう。

欺くことがない

「欺くことがない」という言葉も、直訳するなら「私達に恥をかかせない」という意味です。砂漠の旅人が見る「しんきろうのオアシス」のように、近づくと消えてしまう、裏切られて終りになるような希望・・ではない希望です。この希望は、パンドラの箱から出てきた希望とどのような違いがあるのでしょうか。少なくとも希望には二つの種類があるようです。

二つの種類

 ところでヴィクトール・フランクルも又、「希望」について、興味深い示唆を与えてくれています。彼は106年前、1905年にウィーンに生れて、フロイドやアドラーに師事した精神科のお医者さんでした。結婚して二人の子供に恵まれて、ウィーンで平和な生活を続けていたのですが、第二次世界大戦の、ドイツ軍のヒトラーのオーストリア併合によって、その生活は破壊されていきます。彼の一家全員と両親は逮捕されて、アウシュビッツの収容所に送られました。逮捕の理由は、彼らが「ユダヤ人であった」ということだけです。やがて奥さんと子供達と両親は、ガス室や飢えの為に亡くなってしまいます。彼だけが奇跡的に助け出されて、戦後、収容所での体験をもとに、さまざまな著述を著し、有名な「夜と霧」を著したのです。その書物の中に「希望」についてのエピソードが記されています。

 1944年の暮から1945年の新年の間に、アウシュビッツの収容所で、大勢の死者が集中的に出た。原因は、クリスマスには自分達は解放されて家に帰れるという素朴なうわさが皆に拡がり、その希望に身を委ねた。苛酷な労働に従事し、食べ物も少なく栄養失調になり、狭い、健康的でない収容所で、伝染病もある場所で生きてきた彼らが、希望が失望に変わった時に落胆し、大勢の人が体調を崩して亡くなってしまった。

 希望が失われた時に人は生きる気力を失い、病原菌に対する力をも失ってしまった・・彼はお医者さんなので、そのような解説を加えていました。そのような体験をした後に、フランクルは収容所から解放され、ウィーンの市民大学で三つの連続講演を行いました。その中で「希望」というもの、「心の支え」というものには、二つの種類があることを語っています。

将来と永遠

 一つの種類は、「将来に支えを置く」場合、もう一つは、「永遠に支えを置く」場合の、二つがあるというのです。特に後者の、「永遠」に支えを置く希望は、将来いつの日か解放されて外の世界で自由な生活を送る、ということを支えにする必要がなかったので、無理な要求を将来に背負わせることがない。むしろ逆に、気持を毎日しっかり持てたというのです。非常に逆説的な出来事ですが、収容所生活の中で、一番気分がふさぐのは、「いつこの生活が終るのか」、「いつまで続くのか」、その期日が分からなかった、というのが収容所仲間の一致した証言でありました。

 フランクルは収容所での生活を通し、今を生きる、今を苦悩する、と、いうことにも意味があり、又、困難に対してどのような態度をとるのか、そのような時に、その人が持っている本来的なものが表れるということを体験した。

「生きるか・死ぬか」という極限状況に置かれた時に、「永遠」に希望を置く人と、「将来」に希望を置く人とでは違った生き方が表れたというのです。

いうならば、「永遠」に支えを置く希望はむしろ、「今を生きる力」となった。困難に忍耐する力を与え、練達した人間性を育んだというのです。

フランクルのこの証言は、まことに逆説的な響きをもつものです。「永遠」に根ざした希望は、人を高貴にし、今を生きることに確かな実を与えてくれるというのです。

 

神の栄光にあずかる希望

翻って、本日の聖書を見ますと「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と語りかけてきます。その「希望」というのは、神の栄光にあずかる希望であり、私たちに恥をかかせることのない希望なのです。これはまさに「永遠を支えとする希望」のことです。

 私達は二つの希望を知っている者であると言えます。

私達は「将来を支えとする希望」と「永遠に支えを置く希望」を知っている者です。

特に、「永遠を支えとする希望」は、「将来」の為にではなくて「今」の為に生きる。今に生きる「今」という時を見つめます。いうなれば、今を精いっぱい生きることで、生きる意義を見出し得る希望であるということがいえます。

今を生きる。その今の連続の先に将来があり、将来は、生きる「目標」でもありますが、「結果」でもある。今を精いっぱい生きることによってこそ、将来の結果が与えられる。そのような生き方を確証してくれる、保証してくれる。それが神の栄光にあずかる希望です。

神の栄光にあずかる希望は、永遠的な広がりを持つと同時に、現実的な手段をも私達に与えてくれます。人生から何が与えられるのだろうかと将来に期待して生きるのではなくて、むしろ、自分は今、何をなすべきかと考える。「今」を一生懸命生きる原動力となる希望、しかもそれは私達を欺かない、恥をかかさない希望である。

収穫感謝の喜びの中で、私達はこの二つの希望をもって前進していきたいと願うものであります。

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