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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-01-08-Sun 「恵みにより救われる」  牧師 佐藤義子

[]36章6−10節

[]2章1−10節

はじめに 

 私達は、自分の生きている世界のことを何となくわかっているような気になっていました。しかし大震災で、私達を取り巻く環境が一変した時、実はそうではないこと、私達人間の想定範囲は、きわめて限られたものであったことが明らかになりました。多くの命が失われ愛する家族を失ない、今なお深い喪失感の中で先に進めない方達や、敷かれていたはずのレールが、突然目の前から消えて、不安と焦燥感の中にいる方達、又、先日も、失業手当が切れる時期を控えて、深刻な状況が報道されておりました。

 人間が生きる為には、衣食住や、家族や、将来の夢や希望も大切であり、それらを突然失った方々の力になりたい、助けたいと、本日も、七ヶ浜や蒲生の被災家屋の修復作業のため、アメリカから応援に駆け付けて働いておられるサマリタンズ・パースの方々が、ご一緒に礼拝をささげています。

私たちは死んでいた!

今日読んでいただいたエフェソの手紙2章の1節には、突然、今生きている人に向かって「あなたがたは死んでいた」との言葉が出てきます。

さらに「あなた方は過ちと罪を犯して歩んでいた」「わたしたちも皆、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」とあります。この手紙はエフェソの教会の信徒達に送られた手紙ですが、聖書は常に今を生きる私達に向けて語られている神様の言葉ですから、「あなた方」という部分を「私」に置き換えて読み進みたいと思います。

そうしますと今日の箇所は、「以前の私は、過ちと罪を犯して歩んでおり、神の怒りを受けるべき者として死んでいた」となります。この箇所からも、聖書は「生きる」とか「死ぬ」という言葉を、一般的な意味で使っていないことがわかります。 聖書で「死ぬ」とは、呼吸が止まることではなく、自分の過ちと罪の結果、神の怒りを受けた者。神に従わない不従順な者に働く霊に従って、肉の欲望の赴くままに生活していた者が神の怒りを受けている状態のことです。

エフェソの信徒達は、「以前は死んでいた」けれども、今は生きています。

キリスト・イエスによって共に復活する

神様を畏れないこの世の支配者、サタンとか悪とか呼んでいますが、その霊に従って、肉体の欲望や心の欲望のままに行動した結果、生まれながらの人間は、肉体は生きていても死んでいるということです。

ではどうしたら死から命に向かうことができるのでしょうか。死から命に向かうために、聖書は、そこにはまず神様の豊かな憐れみと、神様の人間へのこの上ない愛があったことを伝えています。罪で死んでいた人間を、神様はイエス様と共に復活させて下さったこと、それは一方的な神様の恵みによるものだと4節以下に記されています。 

この恵みを受ける信仰が与えられたことで、信じる者は救われたのです。

恵みにより、信仰によって救われる

今、私達が生きている世界が終った後に、神様の創られた世界が完成する時がやって来ます。神様はイエス・キリストを私達に遣わして下さり、その死によって、私達の罪を贖って下さいました。その限りない豊かな恵みは、来るべき世において、栄光を受けられたキリストのご支配を直接受けることの約束へと続きます。神様の恵みが私達に注がれ、私達の中に働く時、私達の心は神様に向かい、神様の恵みを確信することが出来ます。

この信仰が与えられる時、救いが起こります。神様の恵みが救いをもたらすのです。救いは「神様の恵み」によって起こるので、私達が神様のために何かをする必要はなく、救われた人は、誰も自分を誇ることはできません。

神の作品として生きる

 口語訳で10節には、「私達は神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日をすごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである」とあります。

 私達はそのように造られているのですから、そのように歩んでいきましょう。聖書はいつもそうですが、例外なくすべての人に語られています。聴く耳をもって従っていきたいと願うものです。