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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-03-25-Sun  「一粒の麦」  牧師 佐藤義子

イザヤ書63:7−9、

ヨハネによる福音書12:20−26

はじめに

 受難節に入り一ヶ月が過ぎました。この時期は私達キリスト者にとって、2000年前、「イエス様が私達(私)の罪のために十字架にかけられた」出来事を思い起こして、罪と向き合い、克己・修養・悔い改めの時です。

日本では、「罪」という言葉は、法を犯して刑務所に行くことを思い浮かべる為に、日常会話にはあまり登場しません。日本の文化は、「恥の文化」と言われ、「人間社会の人の目」を意識します。対する西洋の「罪の文化」は「人間社会の目」ではなく、「神様の目」を基準とします。

神様は、聖であり、義である神様です。この神様への信仰を中心としている聖書には、「罪」と言う言葉は多種類におよび、真剣に取り上げられています。「的を外す、失敗する」「悪を行う」「背き、反逆」などの意味を持ちますが、「罪」の語は、罪の結果としての罪責(罪を犯した責任)だけでなく、その罪に対する罰、さらには償いをも示しています。「罪」は、罪の発端から結末、さらには罪の除去、そして罪からの救済まで互いに切り離すことの出来ない事柄として、取り上げられています。罪の考え方の基調となっているのは、人は神に似せてつくられた神様の作品であり、本来はエデンの園の住人であるということです。罪とは、神様に似せて作られた部分を失った人間の堕落であり悲劇であり、神様から離れることです。罪の反対は神様への「従順」であり「信仰」です。

罪の処置(後始末)

罪には、法的な罪、倫理的な罪、祭儀的な罪などありますが、全ての罪の根底に、神様からの「そむき」(離反)の罪を見る旧約聖書は、徹底的な罪のつぐないを求めています。その第一は「悔い改め」です。そして第二は「あがない」です。あがないとは、もともと捕虜や奴隷に対して、身代金を払って買い戻すような、法的手続きを意味します。人は自分の罪をつぐなう為に、「内面的な悔い改め」と共に、決められた「いけにえ」を捧げて、神様の憐れみにより与えられる「赦し」を求めました。

「栄光を受ける時が来た。」

今朝の聖書には、エルサレムに礼拝する為にやって来た数人のギリシャ人が、イエス様に会いたいと、弟子のフィリポの所にやってきた時のことが記されています。イエス様は、御自分のところにギリシャ人、つまり外国人がやってきたことを聞いて、御自分が栄光を受ける「時」が来たと語られました。イエス様が言われる「時」とは、御自分が十字架に付けられ、その後の復活・昇天を経て、神様の右の座に帰られる時のことです。その「時」が、今、来たと言われました。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

この意味は、「穀物の種は、豊かな実を結ぶ為には、死ななければならない。一粒の種は土に落とされ、土に埋もれなければ、いつまでもただ一粒のままでとどまっている。けれども、地中に埋もれて古い命を失うならば、やがてその殻を破って、多くの新しい命が生れ出る」ということです。そして、御自分を一粒の麦に譬えて、イエス様が地上での救いの業を果たす為には、死ななければならないことを意味しています。

  

この世的に考えるならば、「イエス様に外国人が会いに来た」のですから、これから新しい分野での伝道が始まる!と考えられます。しかし、イエス様は、いよいよ広く全世界の人々に神様の救いを届ける為に、御自分の命を、神様の祭壇に「あがない」として献げる「時」が来たと宣言されました。旧約時代の、「罪」のつぐないとして献げられた和解の供え物「いけにえ」は、新約時代「イエス様の一回限りの十字架の血潮」にとって代わることになりました。この出来事によって全ての人の前に「神様の赦しと救いの道」が開かれたのです。イエス様に会いたいというギリシャ人に与えられた本当の返事は、これから十字架に架かるイエス様を示し、そのイエス様につながり、苦難に従うことでした。そして、従う者にはイエス様も共にいて、大切にされることを約束されたのです。