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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-05-19-Sun 「み言葉と共に働く聖霊」  倉松功先生(元 東北学院)

エゼキエル書36:26−28

使徒言行録5:27−32

はじめに 

本日は、ペンテコステの礼拝を共に守っております。ペンテコステというのは、五旬節(ごじゅんせつ)のことで、50番目・50日目という意味があります。いつから数えて50日目かというと、ユダヤの三大祭りの一つである「過越(すぎこし)の祭り」から数えて50日目です。五旬節も過越祭もユダヤ教のお祭りですが、キリスト教徒の私達にとっても大切なのは、キリストが十字架の上で死を遂げ、三日目に復活された・・この出来事は、すべてこの「過越祭」の準備の時から始まっており、この祭りと関係しているからです。

キリストが三日目に復活して昇天し、神のみもとにいらして御霊と共に三位一体の神であられるわけですが、このペンテコステの日に、「御霊(みたま)」が降(くだ)ったのです。これは、父なる神とキリストが、私達に聖霊を送って下さったのです。

どうして御霊が降ったのか。そのことが、今日、私達の思い起こすべきこと、記念すべきことだと思います。

過越の祭り

過越の祭りとは、イスラエルの人々が、苛酷な奴隷の労働を強いられていたエジプトから脱出する時のこと、神は、エジプト人を懲らしめなければイスラエル人のエジプト脱出は不可能であったことから、さまざまな災いを下しました。その最後の災いがエジプトに下された時、神は、イスラエル人に、小羊の血を鴨居に塗ることによって、その災いを避ける(過ぎ越す)ことを定められました。これによって、イスラエル人のエジプト脱出が可能となりました。この出来事を記念するのが過越祭です。

神の小羊

キリストは、弟子達と共に、過越の祭りを祝って食事をします。その後、父なる神から与えられている、救い主としての最後のわざ=十字架にかかり復活なさる=を遂行していくわけであります。

そのキリストが、ヨハネ福音書によれば「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれています。エジプト脱出の時、イスラエルの人々が神の下した災いを避けるために犠牲となった小羊にたとえて、その後、新約聖書において、キリストのことを「神の小羊」と呼ぶようになりました。ヨハネの黙示録5章では、「ほふられた小羊」・「あなたは、ほふられて、・・ご自分の血で、神のために人々をあがなわれ、」(参照:6−14節)とあり、7章では、「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(10節)と記されています。

キリストは、全人類の罪の贖い、罪の赦しの身代わりとしての「神の小羊」であるとヨハネ福音書は説いています。そういうわけで、「過越の祭り」は、キリストの救い主としてのわざと密接に関係しています。

み言葉

以上のことを前提として、今朝の主題である「み言葉と共に働く聖霊」の、「み言葉」とは何かを考えます。

創世記冒頭に「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」とあります。ここで神が言葉を発しています。ここに明確に神の語る言葉があります。それを受けて、ヨハネ福音書の冒頭に、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあり、更に、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(14節)と丁寧に、キリストが神の言葉であると説いています。神の語る「言葉」は神であり、その「言葉」が肉(体)をとったのがキリストです。

したがってキリストを語る言葉、キリストを証しする言葉(説教)も、神の言葉であると、パウロは次のように言っています

私達から神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」  (テサロニケ2:13)。

今日の聖書

 今朝読んだ聖書の箇所は、使徒言行録2章1節以下の、ペンテコステの聖霊降臨後に、弟子達が語った説教、小説教、弁明の最後の部分であり、大祭司の尋問に対するペトロの弁明、答えです。

その話の内容は三つあります。

第一は、旧約聖書の約束

第一は、イスラエル民族、族長達、とりわけ詩編やイザヤ・エレミヤ・エゼキエルなどの預言者達によって、神の救いの約束が語られています。旧約の預言、旧約の約束、イスラエルを悔改めさせ救うという、神の救いの約束が語られています。たとえば、イザヤ書61:1には「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。」とあります。ここでは、救い主・キリストが語られており、伝道者のわざの中に聖霊が働くことを言っています。

ペトロはここで、旧約聖書においてどのように救いが約束されているかを語ります。たとえば私達が良く知っている、イザヤ50章―53章に記されている「苦難の僕」としての苦しみは、十字架にかけられるキリストの、救い主であることが語られています。

これが神の言葉として、神の言葉を語る人達が語ったものです。そしてそこで聖霊が働くものの一つであります。

第二は、神の約束がキリストに於いて実現された!

旧約で預言されていた「苦難の僕」としてイエス・キリストは十字架にかかって、お亡くなりになった。そして復活して昇天された。そのキリストが、実際に行なったキリストの救い主としてのわざ、救い主としての

生活・歩み。それが使徒達の語った二番目のことです。キリストが教えられた山上の説教とか譬え話などは、実は、キリストが十字架におつきになり死んで復活された・・そのことなくしては実際には起こらなかった。キリストの死と復活が、私達にとってどういう意味を持っているかが、譬え話であり山上の説教であるわけです。ですから、キリストの十字架と復活なしに、山上の説教を理解することは出来ません。たとえば、「あなたがたは地の塩・世の光である」と言われた時、その根拠は、キリストが、私達一人一人の為に十字架におつきになり、そのキリストが持っておられる「救いのわざ」によって保証されています。どんな身分の人でも、どんな職業の人でも、「キリストの十字架の苦しみと復活という救いのわざ」に与って(あずかって)います。与ることが許されています。救いのわざから見れば、全ての人は、地の塩・世の光である。こういうわけです。何か良い業をしたから、地の塩・世の光であるわけではありません。キリストがおっしゃった言葉の背後には、キリストそのものが一人一人に与えられています。キリストの、救いのみわざがあるから「あなたがたは地の塩・世の光である」と言えるのであり、キリストが保証したわけです。キリストのみわざ、キリストの救い主としての歩み、これが、御霊が降り、御霊が働く神の言葉の内容の二つ目であります。

第三は、「キリストの証しを語るみ言葉」を確信させる聖霊

三つ目は、福音(キリストによる救いの出来事・事件)を私達に悟らせ、その言葉を私達に確信させる=それを信じる、信じる気持が起こる、告白をする。それを受け入れさせる力、働きをする聖霊です。これは、私達の力ではありません。信じようと思って信じられるものではありません。何度も何度も繰り返し神の言葉を聞くことによって、私共は信じるように持っていかれる。そこに促されていく。これは私共の力ではなく聖霊の働きであります。

パウロは、神の、キリストによる救いを宣べ伝えるために「十字架に付けられたキリスト以外には何も知るまいと心に決めていた」(1コリント2:2)ほどです。又、「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖い(あがない)となられた」(同1:30)と言っています。

ところがそのパウロは、復活について、「キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」と言っています。これも、キリストが復活したことによって保証されています。あるいは、キリストの十字架と復活を離れては福音はない。ほかに福音があるわけではない。ということもパウロは言っています。

み言葉と共に働く聖霊 

第一に、聖霊が共に働く御言葉は、神の、旧約聖書における約束・預言です。そして第二に、旧約の約束が実現された福音です。そして第三に、その福音を私達に悟らせ、受け入れさせ、告白させる。

これらの三つの「み言葉」と共に働く聖霊によって、教会は生れ、つくられました。今後もそのようにして、教会は形成されていくでしょう。

福音とはキリストそのものであり、キリストによる救いの出来事が事件となりました。そのキリストの十字架と復活を明らかにしてゆくのが聖霊です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」とパウロ自身が告白しています。

旧約の預言や約束、キリストの救い主としてのわざと共に、聖霊がどういう形で働くか、そのことを顧みてみたいと思います。聖霊について、キリストご自身が、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」(ヨハネ14:26)と言われました。父なる神のもとから出る聖霊がくる。その聖霊が、キリストについて証しをする。証言する。しかもキリストは、「父なる神がキリストの名によって遣わす聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」と語り、父なる神と、御子キリスト、そして聖霊の三つが一つであることを告げておられます(三位一体)。

 

教会暦では、ペンテコステの次の日曜日から、「三位一体の主の日」となります(たとえば今日は、三位一体後の第何番目の主の日というふうに)。そういう生活の中に、私達はいます。

主の日(聖日)の説教は、キリストの十字架の死と復活を語り、それを根拠にして、そこを後ろ盾にして、そこを元にして、キリストの教え、キリストのなさったさまざまな奇跡、弟子達が語っている聖書の言葉、そういうものが語られ、又理解されている、ということでなければなりません。

今日のペンテコステの礼拝を共に守ることがゆるされましたことを心から感謝いたします。