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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-06-16-Sun 「最も大いなるもの」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

仙台南伝道所開設9周年記念感謝礼拝                    

申命記6:1−5

マルコ福音書12:28−34

コリントの手紙12:31−13:13

はじめに

本日は三つの聖書の箇所を読んでいただきました。

この箇所について、一つは、イエス・キリストの言葉と旧約聖書を対比させながら見る、二つ目は、使徒パウロが語った言葉を見る、三つ目には、教育学者ペスタロッチの言葉を見る、その三つの側面から御一緒に考えていきたいと思います。

律法学者の質問

本日読んでいただいたマルコ福音書には、律法学者が登場します。彼は、イエス・キリストに質問をします。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。

旧約聖書は大変長い大きな書物ですが、その中で、どの掟が最も重要か、ひとことでいえば何か、と質問しているのです。この質問に対してイエス・キリストはすぐに返答をしています。それが12章の29節からです。

イエスはお答えになった『第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』

イエス・キリストはこれに続いて、第二の掟も言っております。

第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」そういう議論をしています。

律法の専門家

イエス・キリストは、律法の専門家の質問に対して、主を愛すること、そして人を愛すること、この二つにまさる掟はないのだ、と言い切ったのです。もし、私達がその場にいたら、一緒に議論に加わり、それでは、

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということは、具体的にどのようなことをしたら良いのですか?と質問したくなります。実は、律法学者もイエス・キリストに答えています。「先生、おっしゃるとおりです。「『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と、彼は、真ん中の二つをまとめて「知恵を尽くし」と言い変えています。律法学者というのは、ものを考えて一生懸命神様に仕えようとしていた人ですから、「知恵を尽くして」というわけです。

では私達の場合はどうか。それぞれの持ち場において最善を尽くすということだと思います。が、私達は律法学者のように、自分が都合のよいように言い換えるのではなくて、イエス・キリストが引用した旧約聖書を見てみたいと思います。

旧約聖書の申命記には・・

申命記6章の4節以下には、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」とあります。

あなたは、いつも、この言葉を語り聞かせ、自分自身も額(ひたい)につけ、家の門の柱にも書き記しなさいと言っている。神の言葉をいつも身近に置いておく。神の言葉から離れてはならないというのです。(今でも、ユダヤ人はそれを忠実に守り、祈る時は、カバンから四角い黒い小さい箱を出して、この申命記の言葉が書いてあるものを額につけたり腕にまいたりしています。又、同じような四角い箱を家の門に張っています。自分達は神様の言葉から離れない、ということを文字通り今日に至るまでやっています)。

神の言葉をいつも身近に置いておく。神の言葉からは離れないということを、イエス・キリストは、一番最初の大事な掟として語った。そして続いて「自分だけではなくて隣人をも自分のように愛しなさい」と、語った。律法学者もイエス・キリストもこの言葉がレビ記19:18の引用であることを知っていました。そしてその言葉に、律法学者は同意したのです。(ルカ福音書では、この後、律法学者が「隣人とは誰か」と質問し、イエス・キリストの、あの有名な「良きサマリヤ人」の譬えが始まります。10:25−)。

さらにこの言葉に注目するならば、隣人を愛するだけではなくて、自分のように愛する。「自分のように」ということについては、考えなければならない大事なことが込められていると思います。

弟子達への継承

イエス・キリストと律法学者の問答を要約するならば、主を愛しなさい。神様の言葉から離れないでいなさい、そして隣人を愛しなさい、自分のように愛しなさい、ということになります。これが大事な掟なんだ、ということを言ったのです。そのことは、イエス・キリストと律法学者との問答だけではなくて、イエス・キリストの教えとして弟子達にも継承されました。しかもイエス・キリストの弟子達は、「イエス・キリストの十字架」をやがて目撃していきます。愛するということは、命がけの生き方になっていくのであります。

特にパウロは、主を愛すること、隣人を愛することについて、コリントのキリスト者達に、手紙の中でそのことをくわしく具体的に論じたのです。

コリントの信徒への手紙13章

預言する賜物をもっていても、知識的な能力があっても、完全な信仰をもっていても愛がなければ無に等しい。全財産を貧しい人々にほどこし、目立つ活躍をしたとしても、愛がなければ何の益もない。愛というのは、忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかず、不義を喜ばず、真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」パウロは手紙の中で、こう表現したのです。

愛というものをどうにか説明しようとしてさまざまなことを表現しているのです。こんなにいっぱい話をして、何を言いたいのか、ひとことでこれを言うならば何だろう。パウロは、自分自身でもまとめています。8節を見ると、「愛は決して滅びない。預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」とあります。愛というのはすたれない。しかも「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と断じたわけです。どうして三つも立派な徳を挙げておきながら、愛が一番偉大なんだろう。「信仰」や「希望」を押さえて「愛」が一等賞とはなぜか。

「愛」によって、「信仰」も「希望」も確かにされる

パウロは2節で、そのことについてすでに答えを出しています。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無にひとしい」。

山を動かすほどの完全な信仰を持っていたら、もう十分かと思うと、そうではなく、愛がなければ無に等しいといっているわけです。逆に言うならば、愛によって信仰は確かにされる。愛は、信仰をさらに確かなものにする。では、希望はどうか。コリントの手紙には希望については解説がありませんが、ローマのキリスト者達に宛てた手紙に、「希望は、わたしたちをあざむくことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5:5)とあります。私達の希望は、私達を裏切らない。なぜかというと、神の愛が私達の内に与えられているからだ。神の愛によって、愛があるから、希望は希望として私達の内に確かになる。希望も、愛によって確かにされる。信仰も希望も、愛によって信仰者の内に確かなものとされる。愛というのは、そのような意味で偉大なのだ、ということを、パウロは、イエス・キリストから教えられた愛を記して、その考えを継承している、と読み取ることが出来ると思います。

そのことを私達は聖書を通してわかる。しかし最後に考えたい三つ目のことは、私達はそのことをどのようにして実践することが出来るのか。私達は、本当に愛に根ざした信仰なり希望なり、その愛自体を実践することが出来るのかということです。そこで、これまで旧約聖書やイエス・キリストの言葉やパウロの言葉を概観してきましたので、もう少し時代を経て、近代の教育学者のペスタロッチという人の言葉を引用しながら考えたいと思います。

人は、神から恵みによって愛が与えられるゆえに・・

ペスタロッチという人は、「教育の父」と呼ばれた人で、次のようなことを語っております。「教育の根本は愛である。愛されて育つ子供は人を愛し、愛を分かち与える喜びを知り、生涯にわたって心豊かな人生を創造し続ける。同じように、人は、神から恵みによって愛が与えられるゆえに、人を愛することが出来る。そして、神を愛することが出来るのだ」。

どういうことかというと「愛を分かつこと・実践することが出来る人は愛を知っている人だ。自分が愛されることを知っていなければ、人を愛することは出来ない。だから、教育というのは、根本は愛が必要なのだ。

愛されて育つ子供は、人を愛することが出来る。そして豊かな人生を生涯にわたって送ることが出来るのだ」。

愛の実践

そうはいっても、手遅れだと思う人がいるかもしれませんが、しかし、そんなことはない。神から愛が私達に与えられているから、私達は人を愛することが出来るし、神を愛することができるのだ。すなわち、神から愛が与えられるからこそ私達は愛を知り、愛を実践することが出来るのだ。この愛を、イエス・キリストも、パウロも、ペスタロッチも、偉大なものとして私達に語り聞かせてくれているのです。

ここまでいろいろ教えられるとするならば、私達は自問自答したくなります。「信仰者は何を大事にして生きたら良いのか?」

それは、「愛」、のひとことに尽きるでしょう。

信仰者の集まりである教会は、何を第一として歩むべきか。

それも又、「愛」であります。

 それを実践し得る。ある意味で、この世に於いて、まことの愛を実践し得る。それは、「神の愛を知っているわたしたちキリスト者」である、といっても過言ではありませんし、それは、教会の大きな働きの礎(いしずえ)だということを覚えたいと思います。