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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-06-30-Sun 「狭き門より入れ」 牧師 佐藤義子

詩編118:13−21

マタイによる福音書7:13−14

はじめに

今日の聖書は、マタイ福音書5章6章7章にわたる山上の説教の、最後のしめくくりの部分にあたります。イエス様がこれまで語られた教えを前提として、「狭い門から入りなさい」との、イエス様の招きの言葉です。

私達の社会で「狭き門」と言うと、競争率がはげしい受験などの場合に使われますが、聖書の「狭い門」は意味が全く逆で、人々に人気があり、人々が多く押し寄せるような場所は、ここでは「広い門」となります。

古代都市においては、自分達の町を守る為に、町は城壁で囲まれ、観音開きの扉によって開閉されていたそうです。日の出とともに開門し、日没には閉められたようですが、当時の人々は「門」と聞くと、おそらくエルサレムの町に入る大きな門と、それにつながる広い道と、大勢の人々が出入りしている情景を思い浮かべたことでしょう。

滅びに通じる門と、救いに至る門

イエス様の譬えによれば、人々にとってなじみの深い、広々とした道に通じる「大きな広い門」から入ることは、「滅びに通じる道」を歩くことになるので避けなければなりません。それとは反対に、「命に通じる門」は狭く、その道は細いとイエス様は言われています。

そして、私達の前にはこの二つの門(入口)しかありません。人は必ず、どちらかを選んで歩いていることになります。しかし入口が違えば行き着くところは、一方は「滅び」、他方は「命」の世界であると告げています。

「命」と「滅び」

命に通じる道とは、死んでも生きる「永遠の命」が与えられて神の国に入る道です。滅びの道とは、イエス様の譬え話に出て来る永遠に苦しむ陰府(よみ)の国につながる道です。それゆえにイエス様は、私たちに、狭い門から入るように招いておられるのです。私達人間は広い門、広い道を好みます。それは広い方が歩きやすいからであり、そこを通る人々が多ければ多いほど、(根拠のない)安心感をもつことができるからでしょう。

「神と富」

山上の説教に「神と富」の話があります。悪の力は、イエス様に対して誘惑したように、人間の本能に働きかけて、私達を欲望のとりこにしようと誘惑します。お金・地位・名誉・権力など、この世を生きていく為の強力な手段となり得るものを優先させようと自己中心、自己正当化(自己絶対化)への道へと誘導します。これが広い門から続く広い道を歩く人々の生き方です。「狭い門」に続く細い道とは、「神と富」の区分からすれば、神を選びとる道です。ここを歩く人々の規準は、人間の本能や欲望ではなく、神様に従う道、イエスキリストの教えに従う道です。さらに言うならば、イエス様の歩まれた十字架への道、迫害の道、試みの道でもあります。

「それを見いだす者は少ない」

イエス様は、「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16:24)と言われました。私達が、キリスト者になろうとする時、日本では少数者であるため迫害があります。今でも教会に行くことを家族から反対されるケースはありますし、家族や親族にクリスチャンはいないなどの理由で、洗礼を認めない家庭も多くあります。狭い門から入る者の最初の試練かもしれません。しかしどちらの門から入るかは、自分の命がかけられている問題です。狭い道を通る者は、これまで持っていたこの世のさまざまのことでふくらんだ荷物を捨てる覚悟・決断も必要です。イエス様の十字架への道は、イエス様ご自身さえ、「父よ、できることなら、このさかずきを私から過ぎ去らせて下さい」と祈られました。けれどもその直後に「御心のままに」と、神様に従う準備があることを伝えています。狭い門から入る者は、この祈りに示されるように、自分の思い・願いを神様に申し上げて祈りますが、しかし最終的には神様の御心・御計画を優先させ、すべてを神様に委ねて生きていきます。この狭い門と、続く細い道を「見いだす者は少ない」(14節)現実社会の中で、私達は、神様の導きによって命に通じる道へと招かれて歩むことが出来る恵みを感謝するものです。