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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-08-11-Sun 「ゲツセマネの祈り」  伝道師 平賀真理子

詩編75:7−11

マルコ福音書14:32−42

はじめに

 最後の晩餐の後、イエス様と弟子達はエルサレム郊外のオリーブ山に出かけました。その麓に「ゲツセマネ」というイエス様が愛しておられた祈りの場所がありました。ゲツセマネ(油縛りの意)には、オリーブが沢山生えていて、その実が沢山取れたということです。

十字架の苦難を前にして祈られたイエス様の祈りは、「ゲツセマネの祈り」として有名です。       

わたしと共に目を覚ましていなさい

ゲツセマネについた弟子の中からイエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を選び、祈りの場所へ伴われました。12弟子の中で、この三人を、イエス様はいつも大事な出来事の場所に連れて行かれます。

 ゲツセマネでのイエス様のご様子は、危機感迫るものであったようです。「イエスはひどく恐れてもだえ始め」(33節)、「死ぬばかりに悲しい」(34節)と言われました。これから受けようとなさる苦しみを予感し、恐れてもだえるほどに悩まれたのです。それだけではなく、マタイ福音書26章では、イエス様は弟子達に、「わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われています。それは、神の救いの業の上に、自分達が少しでも参与出来るというこの上もない名誉なことでした。ゲツセマネの出来事の前に、弟子達が終末について質問した時も、イエス様は「終末は、天の父なる神様しか知らないが、目を覚ましていなさい。」と言われています。

終末の開始

神の御子・イエス様がこの世に生まれたという出来事により、終末は既に始まったと言われます。それは神様が人間を救うという約束を守るため、御子をこの世に送り出して下さったからです。そして人間の救いの為に、人間の罪をすべて贖(あがな)う=(身代金を払って、罪の奴隷から自由にする)、つまり「神の御子」の命の尊い犠牲(十字架の死)を実現されたことこそ、「終末」の出来事の中心とも言えるでしょう。「目を覚ましていなさい」は、終末の合図として「今こそ、その時!」ということでしょう。

ゲツセマネの祈り

ゲツセマネの祈りの言葉は、「(アッバ)、わたしの父よ」と、かなりの親愛の情を含んだ呼び掛けで始まり、「あなたは何でもお出来になる」と、神様の御力への賛美が続き、そして「この杯を取りのけてほしい」(杯とは、神様が人間に与える運命・使命を指す言葉)との願いが祈られます。私達人間は、「杯を飲む」=受け入れる、か、「渡された杯を、神様が過ぎ去らせる(取りのける)」ように、祈っていくことしかできません。

 イエス様が祈られている「杯」とは、神様への不信仰を続けた人間に、本来渡されるべき「さばきの杯」のことであり、それを、神の御子でありながら、へりくだって人間となられた(フィリピ2章)イエス様が、「人々の罪の贖い主」として代わりに飲むという運命(使命)を指しています。ご自分に与えられている使命を前にしながら、しかしこの「さばきの苦い杯」を出来ることなら神様が取り除いて下さるように切実に祈られているのです。けれども最後には、「私の願いではなく、父なる神様の御心に適(かな)うことが実現されるように」と祈られました。

 ここに私達が神様に願い事をする時の、あるべき祈りの姿を見ることが出来ます。

心は燃えても、肉体は弱い

 他方、共に祈ることを求められた三人は眠ってしまいました。「汗が血の滴るように地面に落ちる」(ルカ書)ほど、極度の緊張と苦しみの中で祈られたイエス様と対照的です。イエス様は彼らを起こし「心は燃えても、肉体は弱い。目を覚まして祈っていなさい」と言われ、再び祈られました。祈り終えられたイエス様は再び眠ってしまった弟子達に「もうこれでいい。時が来た」と御自分を捕らえに来た人々の所に向かわれました。

私達の祈り

私達が辛い時、悲しい時、苦しい時「どうぞこの杯を取りのけて下さい」と何度でも祈ることがあります。そのような時、私達は自分の思いだけにとらわれるのではなく、「神様の御心、神様の御計画があるならば教えて下さい。そしてその運命(使命)を受け入れられるように御力を与えて下さい」と祈れるように、聖霊の助けを求めてまいりましょう。