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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-12-08-Sun  「主を土台とする教会」 牧師 平賀真理子

列王記8:52−61

コリント書3:7−17

       

はじめに 

 本日は献堂感謝礼拝です。これ迄、佐藤博子姉のお宅をお借りして礼拝を献げてきた私達に、神様はこのような新しい礼拝堂を与えて下さいました。先ず、神様に感謝を献げます。わずか11年の歩みの後に、このような立派な教会を与えられたことは奇跡としか言いようがありません。人間的にみれば、さまざまな恵まれた状況と多くの方々の献金により、さらに、建築に携わって下さった方々の、誠実なお働きによって建てられたと言えるでしょう。それでもその方々に、そのような良い働きをしたいと思わせて下さって、実際にその事が起きたのは、神様の「特別な恵み」として感謝せずにはいられません。

宗教全体が力を失いつつある現代にあって、神様の力を示す「奇跡」を目の当たりにして、私達は共に感動し、喜び合いたいと存じます。

しかしそれだけで終わるわけにはいきません。私達は、受けた好意に、本当に感謝しているならば、その働きに対してお返しをしたい、その好意に恥じないように生きていきたいと思うのではないでしょうか。

ソロモン王の祈り

 今日の旧約聖書には、イスラエル王国が神様の恵みのもとで大きく栄え、神殿建築が完成した時のソロモン王が献げた祈りと願いの後で、全会衆を祝福した時の言葉が記されています。

 王は、神様にささげた祈りが真実なものとなり、神様に恩返しできるように会衆を教え導き語ります。恩返しとは、「私達の心を主に向け」「主の道に従って歩み」、「神様の戒めを守る」ことであり(58節)、さらに、「主こそ神であって、他に神のないことを知る」ことです(60節)。神様によって造られた人間は、神様の掟に従って正しく歩むことこそ「お返しする」(応答する)ことなのです。ところが人間は神様に従い得ず、本来の喜びに満ちた人生から離れて(=罪の世界)しまいました。しかし神様は、罪の世界にいる人間を見放さず、御自分のもとに帰れるように働きかけて下さっています。

神様の所へ帰ることこそ、私達が罪の世界から救い出される道なのです。

教会

教会とは、イエス・キリストを頭(かしら)とした、イエス・キリストの身体にたとえられます。使徒パウロは、教会に対して「イエス・キリストという土台を既に据えた」と言いました。この言葉の背景にはコリントの教会が、リーダーをめぐり分裂の危機にさらされていたという背景がありました。パウロは彼らの人間的な判断の危険を見抜き、自分が最初に据えた「土台」=「イエス・キリスト」に立ち返るように勧めています。

主イエス・キリストを土台とする根本精神、パウロが神様から委託されて建てた土台の上に、正しく造り上げられている教会であるならば、その教会の全ての判断は、限りある人間の知性を越えて。神様から示される答えから導かれるものであることを、教会の人々は再び思い起こさねばなりませんでした。さらにもう一つ、思い起こさねばならないことは、「共同体としての教会」が、神様の目から見て、その評価に耐え得る信仰共同体であるかを「問われる日」(終末)が来ることです。

「主を土台とする生き方」

今回、建設会社の方々が建物を完成して下さいました。次は私達が、どのように教会の土台に合った建物=「信仰」を打ち立てていくのか、天から見詰められていくことでしょう。「主を土台として生きる」とは、御言葉の実践です(たとえば「山上の説教」マタイ福音書5−7章)。

最後にネヘミヤ記8:10の御言葉を読んで終ります。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」。