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先駆王2030

2012-05-02

5月1日

昭和54年4月24日、池田先生は会長を辞任された。

それから約1年後。

昭和55年4月29日。第5次訪中を終えた池田先生は、飛行機で上海から長崎空港に到着。

昭和55年4月30日。「かもめ」に乗車し、長崎から福岡に向かった。道中も感動的な師弟の出会いあり。

昭和55年5月1日。福岡入りした池田先生は、福岡県本部長会に出席。

席上、池田先生は「一言だけ」と前置きをされ、あいさつされた。

「皆様にご迷惑やご苦労をおかけして申し訳なく思っている。私どもは広宣流布の胸中の旗を断じておろしてはならない。折伏の修行の法旗を断じて降ろしてはならない。一生涯の成仏の、信心の炎の光を消しては絶対にならない」これを失えばみずからが悔いるのである。正しい御本尊に、正しい信心で、よき人生を生き抜いていただきたい。また、いかなる社会の風波があっても御本尊を信じ、一家和楽だけは絶対に築いていただきたい」

そして、翌2日に関西に向けて出発されるまでの2泊3日の滞在で、九州平和会館(現・博多平和会館)、九州文化会館(現・福岡中央文化会館)、九州記念館(現・福岡平和会館)にて、一生の思い出を作ってあげようと、記念撮影やピアノの演奏などを通じて、2万人近い会員を激励してくださった。

「先生にお会いできる!」そう聞いて、ジャージ姿で着の身着のまま飛び出したメンバー。タクシーで自転車で駆けつけたメンバー。たまたま書籍やしきみを買うために会館にいたメンバーも。

会館での自由勤行会だけでなく、玄関・中庭・ロビー・出版コーナー前と、人が集まれば記念撮影、勤行会、ピアノ演奏――先生の激励は途切れることがなかった。

そこには、守る会、ヤングミセス、未来部、学生部等々、先生を求める老若男女の姿があった。さらに創価班、牙城会、白蓮グループとして出動した役員にも、真心の激励は続いた。なかには「留守を守る家族に」と、訪れたばかりの中国の切手やお土産を託される姿もあった。

その他、自分の営むお店に、先生が足を運ばれたというメンバーや、お花をいただいたメンバーも。寸暇を惜しんでの渾身の激励で、博多の同志と、生涯の思い出を築いてくださったのである。

昭和55年5月2日付の聖教新聞。先生が出席された会合であるにもかかわらず、1面トップではなく、小さな扱い。「信心の炎を消すな 福岡県の本部長会開く」とだけあり、写真に先生のお姿はなかった。

当時、嫉妬に狂った宗門は、池田先生を「『先生』と呼んではいけない」「会合で指導したり、聖教新聞に出てはいけない」「学会で師弟を語ってはならない」と、師弟を切り離そうとした。

弟子は宗門の策謀に屈し、師を切り捨てようとさえした。その弟子を、池田先生は以前と変わりなく、命を削って激励をしてくださった。

あれから33年。創価学会は隆々たる発展を遂げた。

そして学会創立の2030年まで、あと18年。すでにバトンは渡されている。今、自分の手の中に、“魂の炎のバトン”が握られているかどうか……問い続け、走り続ける一瞬一瞬でありたい。

2012-05-01 5月1日

5月1日

昭和54年4月24日、池田先生は会長を辞任された。

それから約1年後。

昭和55年4月29日。第5次訪中を終えた池田先生は、飛行機で上海から長崎空港に到着。

昭和55年4月30日。「かもめ」に乗車し、長崎から福岡に向かった。道中も感動的な師弟の出会いあり。

昭和55年5月1日。福岡入りした池田先生は、福岡県本部長会に出席。

席上、池田先生は「一言だけ」と前置きをされ、あいさつされた。

「皆様にご迷惑やご苦労をおかけして申し訳なく思っている。私どもは広宣流布の胸中の旗を断じておろしてはならない。折伏の修行の法旗を断じて降ろしてはならない。一生涯の成仏の、信心の炎の光を消しては絶対にならない」これを失えばみずからが悔いるのである。正しい御本尊に、正しい信心で、よき人生を生き抜いていただきたい。また、いかなる社会の風波があっても御本尊を信じ、一家和楽だけは絶対に築いていただきたい」

そして、翌2日に関西に向けて出発されるまでの2泊3日の滞在で、九州平和会館(現・博多平和会館)、九州文化会館(現・福岡中央文化会館)、九州記念館(現・福岡平和会館)にて、一生の思い出を作ってあげようと、記念撮影やピアノの演奏などを通じて、2万人近い会員を激励してくださった。

「先生にお会いできる!」そう聞いて、ジャージ姿で着の身着のまま飛び出したメンバー。タクシーで自転車で駆けつけたメンバー。たまたま書籍やしきみを買うために会館にいたメンバーも。

会館での自由勤行会だけでなく、玄関・中庭・ロビー・出版コーナー前と、人が集まれば記念撮影、勤行会、ピアノ演奏――先生の激励は途切れることがなかった。

そこには、守る会、ヤングミセス、未来部、学生部等々、先生を求める老若男女の姿があった。さらに創価班、牙城会、白蓮グループとして出動した役員にも、真心の激励は続いた。なかには「留守を守る家族に」と、訪れたばかりの中国の切手やお土産を託される姿もあった。

その他、自分の営むお店に、先生が足を運ばれたというメンバーや、お花をいただいたメンバーも。寸暇を惜しんでの渾身の激励で、博多の同志と、生涯の思い出を築いてくださったのである。

昭和55年5月2日付の聖教新聞。先生が出席された会合であるにもかかわらず、1面トップではなく、小さな扱い。「信心の炎を消すな 福岡県の本部長会開く」とだけあり、写真に先生のお姿はなかった。

当時、嫉妬に狂った宗門は、池田先生を「『先生』と呼んではいけない」「会合で指導したり、聖教新聞に出てはいけない」「学会で師弟を語ってはならない」と、師弟を切り離そうとした。

弟子は宗門の策謀に屈し、師を切り捨てようとさえした。その弟子を、池田先生は以前と変わりなく、命を削って激励をしてくださった。

あれから33年。創価学会は隆々たる発展を遂げた。

そして学会創立の2030年まで、あと18年。すでにバトンは渡されている。今、自分の手の中に、“魂の炎のバトン”が握られているかどうか……問い続け、走り続ける一瞬一瞬でありたい。