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1998-04-24

『一人ならじ』山本周五郎


常在戦場の覚悟と生きざま


 人にどう見えるかではない。自分がどうあるかである。


 メディアの発達はテレビ全盛の時代を招来し、活字文化などは脱ぎ捨てられた靴下ほどの位置に追いやられてしまった。そして情報化社会は人間同士のふれあいを不要なものへと貶(おとし)めつつある。


 次から次へと流れる刺激的な映像。絵の効果を高めるBGM。ライトアップ・効果音・笑い声……。雨や雪をも自由に降らせ、人の視線が届かない位置にカメラは構える。テレビこそは現代の神器(じんぎ)にして、新時代の御本尊だ。それが証拠に大多数の人の自由な時間の殆どは、テレビに捧げられているではないか! テレビは見る人を掴(つか)まえて放さない。座り続けている様は行儀の悪い禅僧さながら。そして、人生から感動を奪い、人間から批判力と思考力を抜き取り、瞳から輝きを消し去る。なぜなら、テレビの映像はどこまでいっても虚像であるからだ。座して呆(ほう)けている自分の方こそが実像なのだ。


 ブラウン管の向こうにしか感動やドラマを見出せない社会は虚像に満ちている。「人にどう見えるか」との価値観に束縛されてしまった善良な精神は、SMプレイ状態でローソクと鞭を待つばかりだ。


 この本を読むこと4度目にして感じたことは「テレビを消してこの本と向き会え」ということだ。


 味わい深い短編の数々は読む人をして襟を正さずにはおかないものがある。「心の深さ」に只、圧倒され、打ちのめされ、身動きすることさえままならなかった。


 劇中の人物は皆「自分がどうあるか」という一点に生を燃焼させ、死をも厭(いと)うことはない。だが、その振る舞いはどこまでも水の如く淡々としたものである。


「人にどう見えるか」という視点には確固たる自分がない。いかに立派な素振りをしたところでウェディングケーキのように空虚なものだ。


「自分がどうあるか」ここに哲学があり、信念が存在する。自分自信に対し、一点の澱(よど)みもなく晴朗な生きざまを日常の中で貫いているかどうか。ページを繰るごとに周五郎は問いかけてくる。


 最後に一つだけ書かせてもらうと、「夏草戦記」の一場面に次のような件(くだり)がある。


 主人公・三瀬新九郎が死罪を前にして、武田勝頼の家来・多田新蔵の壮烈極まるエピソードを語る。織田軍に捕えられた新蔵が、信長より直々に随身するよう言われるが、黙したまま語らない。熱心な勧めにもかかわらず彼は黙り続ける。信長の命で縄を解いたその瞬間、新蔵は傍らの槍を取り、目にも止まらぬ速さで4〜5人を突き刺した。立ち竦(すく)んだ織田家の人々は、四方からとり詰めてようやく新蔵を討ち止めた、というものであった。


「俺はこの話を思いだすたびに泣ける」と新九郎は語る。泣けるほどの共感を喚起するものは何なのであろう。時を超え、武士としての魂が響き合い、共鳴する。そこには意味すらも必要としないのかも知れない。


 生命の奥深いところで交錯する共感の妙。志に生きた人間が発する光は、生のあり方を眩しく示し出す。

一人ならじ

「薯粥」(『一人ならじ』所収)山本周五郎


 中々、本を読む時間がなく、読んだとしても書評を書くほどの衝動が湧いてこないので(笑)、若き日の覚え書きを記し、所感を残しておこうと思う。


〈梶井図書介(ずしょのすけ)との一本勝負に勝ち、城主・水野監物(けんもつ)忠善から食禄500石で師範にとの御意(ぎょい)を、隼人辞退する〉

「あいや十時氏しばらく」うしろから図書介が声をかけた。「只今の勝負はまさしく拙者の敗北でござる。御前においてかく明らかに優劣がきまったからは、もはや師範の役は勤まり申さぬ。拙者は退身つかまつるゆえ、どうぞ御斟酌(ごしんしゃく)なくお受け下さるよう」

「……ほう」隼人は眼をみはり、びっくりしたようにふり返った。「只今の勝負に負けたから、もはや師範は勤まらぬと仰(おっ)しゃるか、……すると、仮に拙者が師範になっても、また別に兵法家がまいって試合をし、負ければ師範ができぬというわけですか」そこまでいうと、急に隼人の頬へかっと血がのぼった。かれは膝をはたと打ち、「ばかなことを仰しゃるな」と大喝(だいかつ)した。「兵法は死ぬまでが修行という。技の優劣は修行の励みでこそあれ、人間の価値を決めるものではないぞ。人の師範たる根本は『武士』として生きる覚悟を教えるもので、技は末節にすぎない。貴殿はその本と末とを思い違えておる。さようなことでは、今日までの御扶持(ごふち)に対しても申し訳はござらぬぞ」


 梶井図書介(かじいずしょのすけ)との一本勝負に勝った十時隼人(とときはやと)の科白(せりふ)。この言葉は、城主である水野監物忠善(みずのけんもつただよし)にも向けられたものだった。


 20代で読んだ本の中で、最も鮮烈に刻印されたものの一つ。普段は温厚な隼人が激怒するシーンは圧巻。私憤ではなく、武士としての矜持(きょうじ)が、相手を許さなかった。


 現代にあって我々は、人間を見失って、末節である技の優劣を競うような社会で生きている。自分の大切なものを踏みにじられても、食べてゆくために我慢を強いられている。資本主義は競争社会だ。生き馬の目を抜くような現実を前にして、なす術(すべ)を持たずに立ち尽くす。「それで、いいのか?」という問いかけに対し、「仕方がないさ」とシニシズムをもって答える自分がいる。食べるためなら何でもやってのける人々が、日本を支えているのだ。


 周五郎の小説は、「それで、本当に生きてると言えるのか?」と読者を鞭打つ。痛みを覚え、何かが変わるようでなければ、読む資格がない小説の数々である。この一冊を、私は何度でも読むことだろう。

 2005-12-22


一人ならじ

「一人ならじ」山本周五郎


「戦場では幾千百人となく討死(うちじに)をする、誰がどう戦ったか、戦いぶりが善かったか悪かったか、そういう評判は必ずおこるものだ、わたくし一人ではない、なかにはそういう評判にものぼらず、その名はもとより骨も残さず死ぬ者さえある、そしてもののふの壮烈さはそこにあるのだ」


 戦(いくさ)は勝つことが目的だ。そのために、毀誉褒貶(きよほうへん)を斥(しりぞ)け、功名心を捨て、戦場に散ってゆく命の数々。その潔さに武士の魂がある。


 口先だけの自己主張は浅ましいものだ。中には、営業マンさながらに、自分を飾ろうとする人物も多い。こうした連中が目指しているのは、“自分の評判を高める”ことだ。実際はどうあれ、評判さえよければいいのだ。


 テレビに出てくるタレントみたいに、上がったり下がったりする評判に一喜一憂するのは愚かな生き方だ。誰が見てようが、見てまいが、自分だけは真実を知っている。せめて、自分自身が納得できるだけの人生を送りたいものだ。

 2005-12-27


一人ならじ