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1999-01-30

『野に降る星』丸山健二


魂を射抜く、物語の気高さ


 1月29日深夜零時、読了。放心状態。言葉を失うほどの感動。心酔、では及ばない。圧倒、でも足りない。


「やってくれたな」言葉にならない言葉が胸の裡(うち)で竜巻と化す。魂を撃たれた。射抜かれたと言ってもいいだろう。昂(たか)ぶる心が夜の静寂に包まれて、厳寒の夜空に冴え渡る満月の如く皓々と光を発する。しかし、感想を書き記すには、私の魂を鍛え直さねばならない。咀嚼し得ない硬さに歯が立たないというのが実のところだ。たとえ百万言を費やしたとしても、この本の一行にすらかなわないだろう。


千日の瑠璃』(文藝春秋)の前作。これほどの高みに辿り着いていたとは思わなかった。私が持っている千数百冊の本は、その殆どが古本屋で手に入れたものだが、定価を払っても惜しくないのは、丸山健二飯嶋和一を措(お)いて他にいない。身銭を切ってこの本を買うべきだ。汗水流して働いた分に相応しい、貴重な時間を有することができる。


 有明村の伝承は300年前に始まった。ある夏の夜空に落下した隕石。それを包んでおいた布が青く染まったことに由来するものだった。「青旗神社」に祭られた藍の生葉染めを施された2畳大の旗を、30年置きに処分し、新しい旗を奥社に取りに行く。その使者の物語である。粗筋(あらすじ)をいうと、旗を取りに行くだけの話なのだ。旗を取りに出発し、旗を手に入れ幕は閉じる。だが、片道15キロの行程に、30年前の時が交錯し、家族の所業を反芻し、戦争の惨禍を客観し、経済の波に翻弄される一日市場村(ひといちばむら)を見下し、「巡りヶ原」の思想に耳を傾け、国家主義・事大主義を看破する。


「雪がやんで 星が降る」。この美しい一行から始まるドラマ。独立した一行が物語の合間に林立し、杭のように佇立している。エピグラムを思わせるその一行はゴシック体の文字さながらにキックが効いている。「始めに言葉ありき」の感を抱かずにはいられない。


『千日の瑠璃』にしてもそうだが、ここに全てが、全て以上のものが描かれている気にさせられるのは、何故(なにゆえ)であろう。


 例えば、東京をこう描写する――


 そこに住む人々は、一夕の閑話を楽しむ暇もなく、生きても生きても立つ瀬がなく、正面切っての駁論もままならず、特に何をしたわけでもないのに掣肘されつづけ、火葬場を巡って巨大な渦を作り、その渦の中心へ引きずりこまれる星回りを生きていた。また、およそエンジンを冷やすことを知らない夥しい数にのぼるクルマは、どれも皇居を巡って走り回っていた。


 都会人の実相を残酷なまでの辛辣さで描く様は、ゴヤの版画に匹敵するのではないか。


 戦争に参加した父親に対する情け容赦ない眼差し――


 かれらはまだ、右手に軍刀を、左手に辮髪頭(べんぱつあたま)の生首をつかんでいるわけではなかった。かれらはまだ、後手に縛りあげた女の後頭部を狙って小銃の引き金に指を掛けているわけではなかった。かれらはまだ、生きている者をまとめて穴に突き落とし、上からスコップで土を投げこんでいるわけではなかった。かれらはまだ、空中高く放った嬰児の真下で笑いながら銃剣を構えているわけではなかった。


 畳み込むような文章が、戦争によってさらけ出される人間の獣性を、ものの見事に書き上げる。


 些事にこだわって大局を見ようとせず、物事をさほど深く考えなくてもいい、という意味での庶民の立場にあぐらをかき、一考を要する大切な問題を他人任せにし、腹黒い女房にねじを巻かれ、酒ばかり食らい、国家に悲憤慷慨する気力すら初めから持ち合わせていなかった一日市場村の男たち、かれらがそうしたように、有明村の男たちもまた、未曾有の大事件であったあの戦争に、まるで訓練犬のようにおとなしく従ってしまった。


 時流に与(くみ)した者への鉄槌は如何なる迎合も赦(ゆる)さない断固としたものだ。


 如何なる圧力にも屈せず、大規模な殺戮に荷担することもなく、戦いを否とする日々を貫き通す、父たちにはそれができなかった。それができなかった父たちこそがあの悲劇の元凶ではなかったのか。


 自立した魂を持たぬ者たちの無抵抗が、狂った時代の歯車を大きく回転させる。年月は過ぎようと人間の本質は変わらない。


 節操など微塵もない政治家、怠慢なくせにのさばる官憲、甘言を弄してどう生きていいのかわからない人々の金を巻きあげる企業人、涜職に麻痺している官吏、国会議事堂や皇居へ出入りして箔をつけたがる算用高いえせ文化人、かれらが生み出し、瀰漫させる腐敗と堕落、それらすべては、詰まるところ普通の人々の盲従の悪癖から出た産物にほかならなかった。


 現在を軸に、過去を照射し、更に現在を照らし返す。生(せい)のリアリティは苛烈な緊張をはらみ、物語は降りしきる雪のように積み重なり、自立の精神が流れる星のように闇を裂く。


 否定にせよ肯定にせよ、四方から見つめ、上下から迫る。魂を把持せんとの試みが、期せずして森羅万象を表出している。核に潜在する強力な力が、空間に解き放たれることを予期せずにはいられない緊迫感に満ちている。


 更に両極端を描くことによって、その間の全てが暗黙の内に佇んでいる。


 それにも増して、語彙の豊富さが、存知しない言葉の海が、私の世界を超えた宇宙を感じさせる。


「風もないのに、風鈴が一回だけちりんと鳴った」この音の捉え方。

「真新しい死者と真新しいゴムボール」この色彩感覚。

「間近に走る稲妻の、天と地を結ぶ金色の柱の眼を奪うばかりの美しさ」この風景描写。

 傷痍軍人の性行為と死。効果音としての豚の鳴き声と小道具としての義手に義足。白刃と血の煌(きら)めきという舞台装置。

 前進し続ける作家の面目躍如というほかない。


 聖地・巡りヶ原は語る――


 何よりもまず自己を取り戻さなくてはならない、すべてはそこから始まる。


 巡りヶ原は守るべき生命の大地だった。青い旗は、人間自立の象徴であった。


 私たちは青い旗を通して私たち自身に頭を下げなくてはならなかったが、しかし問題なのは、この私たちにそれだけの価値があるか否かだった。生かされているのではなく、生きているかどうかだった。


「死んでいないから食べ、死んでいないから働き、死んでいないから生き、生きるしかないから眠」るような人間では駄目なのだ。


「有明村にあるのは誇りだけってわけか」と言い、「腹の足しにもならねえよ、そんなもん」と吐き捨てるように言った。ややあって私は、こう言い返した。それがなければ何もないのと同じことだ、と。


 猛吹雪が行く手を阻み、有明村に生きる誇りを再確認させる。厳父と化した巡りヶ原が下す仕打ちは、否応なしに魂の自立を促す。過ぎ去りし30年が洗い清められ、巡り来る30年を祝福するかのように白銀が輝き渡る。


 何ものをも頼らぬ自立した男は、旗の前を堂々と歩みゆく。その力強き一歩一歩が、再生の軌跡を描く。


「巡りヶ原の思想」と「青い旗の精神」は『千日の瑠璃』(文春文庫)で世一に受け継がれ、「八角形の楼台」は『見よ 月が後を追う』(文藝春秋:絶版)で動かざるものの象徴として登場する。


 戦争と自立をテーマにしたこの作品で、丸山はストーリーテラーとしてジョージ・オーウェル(『1984年』、『動物農場』)に互し、思想的にはニーチェに匹敵すると言っても過言ではない。


 同時代にこのような作家が存在することに誇りすら覚える。

野に降る星

1999-01-14

『小説家の覚悟』丸山健二


孤独な魂が発する鮮烈なメッセージ


 痺れた。心が震えると言うよりは、痺れたと言った方が正確だ。打たれたと言ってもよい。地震ではなく雷のそれだ。


 私が始めて丸山の作品を手にしたのは、今から7年前のことだ。以前から探していた『メッセージ 告白的青春論(角川書店/絶版)』を神保町の古本屋でやっとの思いで見つけた。拳で殴り掛かってくるような内容に度肝を抜かれた。23歳で芥川賞に輝いた人間とは思えなかった。更に、文学とは余りにも懸け離れた生きざまに目を剥(む)いた。ペンを持つには太々(ふてぶて)し過ぎた。原稿と向き合うには筋肉がつき過ぎていた。恐ろしい男だ、と思った。凄い、と唸った。正真正銘の自立した男がそこにいた。山頂に吹雪を抱く山の如く屹立していた。吐き出される言葉は、マジックで描(か)かれた線のように黒々とした太い輪郭を持ち、辛辣な表現は、彫刻の線のように深く彫り込まれている。


 丸山のエッセイは、何を言いたいのかよくわからない箇所は一つもない。誤解のつけいる隙もない。どっちつかずの淡い色や、思わせぶりな玉虫色などどこを探しても見当たらない。断固たる意志と、明確な目的観と、鋭敏な観察眼によって、光と闇を描き上げる。暴力的な匂いをプンプンまき散らしながら。


 ある編集者がおれに訊いた。どんな読者を対象にして小説を書いているのか、と。おれは素早く答えた。目的を持ってがむしゃらに生きている若者か、そうでなければきちんと働いて妻子を養っている男だ、と。(240p)


 30代半ばにして丸山はこう語る。要するに自立した男だ。当たり前と言えばこれほど当たり前の話はない。しかし、こんな当然のことが余りにも無視されていないだろうか。見て見ぬ振りをしていないだろうか。売れればよしとして、読者に媚びへつらい、書き手の魂まで売ってしまう。そうした人間が相手にするのは、判断力の欠けた低年齢層か、とうの昔に夢を捨て去ったストレスまみれの中高年であろう。丸山は違う。自立した男として、読み手に対しても自立を求める。傲慢なようでありながら、そうではないことに気づく。読み手と書き手との対等な関係、緊張感をはらんだ向かい合う位置を望んでいるのだ。「おまえは、どうなんだ?」と彼は問う。過密な都市の中で誰かに、もしくは何かにもたれて立っていやしないか? モノや情報が溢れる社会の中で、本当に自分で考えた意見を持っているか? 自分で自分の責任が負えるか? 力のこもった拳が容赦なく振り下ろされる。要求されるのは、踏みこたえる力。


 三木清が『人生論ノート』(新潮文庫)で、こう書いている――


 個人であろうとすること、それが最深の、また最高の名誉心である。


 丸山健二は「おれは芥川賞作家だ」とは絶対に言わない。「おれはおれだ」とこれみよがしに言う。「おれ以外のなにものでもない」と。


 虚飾をはぎ取った孤なる魂の輝き、そこにのみ独立自尊の確固たる自負が生まれる。文壇とのつきあいを一切拒否し、ストイックな行動を貫くのも大いに頷ける。一見、乱暴に思える話も、眼をこらしてみると実に常識的な意見が殆どである。


 更に丸山の特長の一つは、生々しい科白にある。寸鉄人を刺すピリリとした締まりと、カギカッコで括らねばならない重みが感じられる。生き生きとした場面展開に息を吹き込み映画のワンシーンのように肉迫し、立体化する。


 それにしても、「それじゃあ、おまえに何かほかのことでもできるのか」(97p)、「やるやつは黙ってやるさ」(98p)こうした科白が高倉健の声で聞こえるのはどうしたことか。


 小説家であることに対する後ろめたさが、妄想の如くつきまとっているところが、また凄い。


 山なんぞに住んで、犬なんぞを飼って、小説なんぞを書いて、日だまりなんぞにうずくまって、みじめったらしくしか生きられないのかと思うたびに、腹が立つ。(67p)


 小説を書くなんてことは、いい若い者のする仕事ではなかった。(214p)


 小説家でもいいやと思う。(121p)


 ある時などは「こんなオカマみてえな仕事がやっていられるか!」(314p)と怒鳴るありさまだ。


 丸山は言う――


 本当は現実ほど面白いものはないのだ。どんな小説よりも面白い。ときには叩きのめされるようなこともあるけれど、滅茶苦茶だと思うこともあるかもしれないが、それでも、それだからこそ現実は面白いのだ。

 もちろん失望する回数は多いし、汚いといえば汚い。だが、ときどきそのなかにキラッと光る何かを発見することがあり、その感動こそ本物だとおれは思う。(261p)


 これほど真っ当な意見を言う作家が果たしていたであろうか。


 現実を踏まえた言葉は、男であれば断じて無視し得ない直截な響きをはらんでいる。


 しかしながら、職業作家として自立を極める彼はこうも言う――


 小説を書き上げたときの気分も確かにいいが、こうして次なる小説の入口に立って武者震いするときの気分もまた格別だった。それは毎回新鮮で、回を重ねれば重ねるほど刺激が強まるのだった。(340p)


 作家として常に挑戦し続ける矜持。より高い世界を志向する貪欲さ。


 更にこうも言う――


「一年におよそ一作仕上げるたびに充実感は増し、山登りにも似た、あるいはそれ以上の醍醐味と手応えをつかめるようになり」(349p)やがて未踏の文学の山並みが見えてきた、と。


 そうした感慨は『千日の瑠璃(上下)』(文春文庫)を読めば実感できる。独走が独創へと昇華し結実した、ものの見事な作品である。


 激しい振幅を繰り返しながら、新しい自己との邂逅(かいこう)を求めて、丸山は強靱な足腰で走り続ける。


 徹底して孤であろうとする精神が、尊厳なる個を際立たせ、鍛え抜かれた鋼(はがね)のように強い光を放つ。

小説家の覚悟