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1999-02-09

『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

    • 『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

 いまだ闘い続ける女性から再びのメッセージである。


 平成9年暮れに『彩花へ 「生きる力」をありがとう』を出版。年が明け、読者から続々と手紙が寄せられ、あっという間にその数1000通に及んだという。


 あなたがいてくれるから──。亡くなった娘が、見ず知らずの多くの人々の心の中で生き続けていることほど、今の私にとってうれしいことはありません。


 この本は読者への感謝を込めて綴られた母からの返事である。


 第1章が前作の出版の経緯とその後、次に『私たちこそ「生きる力」をありがとう』と題して読者からの手紙を紹介。そして、最後に構成を手掛けてきたジャーナリスト・東晋平による解説、の3章で構成されている。


 感動がまざまざと蘇る。山下彩花という少女が私の中で息づく。私は既に彼女を知っている。10年という歳月を流れる星の如く駆け抜けるように生き、死して尚、幾十万の人々に希望の光を降り注ぐ、鮮烈なる魂の持ち主。犯人とされる少年が振るったハンマーも、彼女の魂にかすり傷ひとつ負わせることはできなかったに違いない。


 山下さんは言う、「私は決して強くなんかない」と。「悲しみを乗り越えたわけでもない」と。反響の大きさに驚きながらも、自分への過大な評価を斥(しりぞ)ける。「たしかに、立ち直る努力はしています。でも、そんなに簡単なものではないのです。1年半を過ぎた今でも、泣かない日は1日たりともありません。大事な大事な子供を他人の手で奪われて、立ち直れるような母親はいないでしょう」。


 彼女を特別視して得られるのは「自分には無理だ」との諦観に他ならない。それでは、いくら感動しても、たちどころに冷めてしまうだろう。そうした行為自体が底の浅い己自身となって跳ね返ってくるのだ。挙げ句の果てには、泣いたり笑ったりということがテレビの前でしかできないようになるだろう。


 だが、私は敢えて言おう「彼女は強い」と。強がるような素振りを見せないのがその証拠だ。ありのままの自分をさらけ出し、自分の弱さをも否定しようとはしない。そこに強靱なしなやかさが秘められている。「疾風に勁草を知る」(疾風が吹いて強い草がわかる)との俚諺(りげん)があるが、そうした「心の勁(つよ)さ」を感じてならない。バネのような弾力をはらんだ瑞々しい人間性。それは「汝自身を知る」者の強さなのだ。


 一周忌を終え、5月に納骨。その際、錯乱に近い悲しみに襲われた事実が書かれている。悲しみにのたうちまわる中で、山下さんは一つの哲学を見出す。


 人間として生きていくうえには、深く悲しむこともまた必要なのだ。


 そして、「悲しむということは、自分とその人との関係を深く考えること」であり「深く悲しむことができる人のみが、深い喜びと深い怒りを知ることができるのだ」と。


 実際に地獄を経験した者のみが知り得る言葉は、悟性の輝きに包まれている。


 第3章で東晋平が、


 あの戦時中、中国大陸で生体実験や虐殺に手を染めた医師や兵士の大半が、わずかな罪の意識をを抱きつつも、あれは戦争の狂気だったのだと割り切って、罪の意識に苛まれることもなく戦後を生きているのです。

 殺された者が自分と同じ人間であるということすら想像できず、その悲しみに共感する能力が欠落していたがゆえに、自分の行為への悲しみも感じない。自分が背負うべき重圧と悲しみを、軍隊という集団に預けて、自分が傷つかないように生きてきたのでしょう。


 と敷衍(ふえん)している。


 悲しみを心に深く抱き続けながら、それを価値へと変えていく生き方を知ることができました。(中略)そういう生き方を見いだしていくことができれば、私たちは人生のどんな苦悩や失敗も、未来のための財産に変えていかれるような気がします。


 涙の海の涯(はて)から金色の太陽が昇る。


 第2章の圧巻は東京都世田谷区の大野孔靖くん(小学校4年生)。


 すごい本ですね。この文は、人間に本当のことをおしえてくれるすごい文です。はじめは、この事けんで悲しかったのに本当にこんなすごい文ですごいと思いました。ぼくは「自分で自分とたたかい、自分をすこしでもよくしていくのです」というところがよかったです。ぼくは、自分で自分とたたかってよくしていきたいです。


 偉いっ! と私は膝を打った。さすが諸葛孔明井上靖を併せたような名前を持つだけのことはある。子供の直観が見事に本質を捉えている。たどたどしい文章がかえって感動を鮮やかに表現している。


 言葉を紡ごうとするよりも静かに内省するがいい、そんな気分に浸される。軽佻浮薄で小賢しい評論、世俗の垢(あか)にまみれた貪欲な宗教、問題の全てを子供に押しつける教育、そうした暗雲を遙か下方に見下ろし、山下さんの言葉は無窮を遍(あまね)く照らす。


 我が娘を喪い、生命の尊厳さを思い知った母は、多くの青少年の自殺に心を痛め、次のように語る。


 けれども私は今、思うのです。死にたくなるほど苦しい思いをしたときが、人間が本当に幸福になっていくチャンスなのだと。自分の人生を、大きく変えていくときなのだと。

 苦しいとき、辛いとき、虚しいときには、目をつぶらないで、その悲しみと徹底的につきあうことです。ハラを決めて、水底まで沈んでみることです。深く深く悲しめば、必ず新しい力が湧いてきます。

 自分が変われば、必ず何かが動き始めます。死ぬ勇気を、自分の変革に向けていくのです。他人に苦しめられているように思えることでも、全部、自分の人生なのです。そうであれば、自分で新しい道を切り開くしかありません。

 その、人間の生命の深い方程式が見えてくると、身に起こるあらゆる不幸も、悲しみも、苦しみも、自分の人生を飾る意味のあるものに見えてくるはずです。

 この世に必要のない人間なんて1人もいませんし、価値のない人間も1人もいないはずです。自分には価値がないように思えるときがあっても、決めつけないで、自分で価値ある自分をつくっていけばいいのだと思います。(中略)

 人間には、価値を創り出していくすごい力があります。

 生きている人間に、何ができないといえるでしょうか。


 この言葉を聞けば自殺せずにすんだ子供も山ほどいただろう。なんと優しく、力強い言葉だろう。悲母観音さながらではないか。


 市井にこうした人物がいるという事実に、まだまだ日本も捨てたものではない、と心を強くした。河野義行さん(『「疑惑」は晴れようとも文藝春秋、『妻よ!潮出版社)にしてもそうだが、平凡にして偉大な人物はいるものだ。


 生死(しょうじ)を超えた母子の絆に、永遠を感じた。

彩花へ―「生きる力」をありがとう 彩花へ、ふたたび―あなたがいてくれるから (河出文庫)

1999-02-03

『19分25秒』引間徹


夜の闇を切り裂く義足の競歩ランナー


 惜しむらくは文体が甘い。それさえ気にならなければ、充分、堪能できるだろう。私は気になるゆえ、点数が辛くならざるを得ない。


 新しい集合住宅がそびえ立つ埋め立て地に、突然現れた謎の競歩ランナー。深夜の公園で、彼はオリンピック記録を上回る速さでトレーニングをしていた。しかも驚くべきことに片足は義足だった。偶然、彼を見かけた主人公。幻のランナーを何としても檜舞台に立たせようとする競歩連盟の男。三者三様の思いを託したレースが始まる。


 義足のランナーに触発された主人公の成長物語である。


 若い人に読んで欲しい本だ。29歳の著者が書いたこの作品は「すばる文学賞」に輝いた。無機質な街に繰り広げられる熱いドラマを瑞々しい感性で描き上げる。


 時折、ハッとさせられる表現がちりばめられている。都会の断面をスケッチ風に切り取るのが非常に巧い。構成もよく、レースの結末もひとひねり効いている。人物描写もまずまずで、特に義足の競歩ランナーの陰翳のつけ方などは抜きん出ている。何にも増して、躍動する肉体を描いたところが良い。


 義足のランナーの超然とした生き様は、映画『ショーシャンクの空に』のティム・ロビンスを思わせる。更に彼の走る姿をロバート・ハインデルに描かせてみたいものだと、想像を膨らませてしまう。鮮やかなイメージが印象深い佳作である。


19分25秒

1999-02-01

『総門谷』高橋克彦


世界の不思議が勢揃いする壮大なスケールの伝奇小説


 伝奇小説の金字塔ともいうべき傑作である。


 UFOに始まり、ナスカの地上絵、ピラミッド、ストーン・サークル、ピリ・レイスの古地図、極移動説等々。これに、フリーメーソンと自衛隊が絡み、歴史上の人物が勢揃いし、遠野物語が基調を奏でる。豪華絢爛、謎と不思議のオール・スター戦といった感を呈する。これだけ並べ立てれば、かえって不味くなってしまいそうなもの。ところがドッコイ、料理人の腕が違う。一級のエンタテイメントに仕上げているのは見事としかいいようがない。


 東北で発見されたUFO。これに飛びついたテレビ局。テレビ出演した男が、他局の番組であれは嘘だったと証言する。殺(け)される証人。謎を追う彼等の後を尾行者がつける。巧みな導入部によって、知らず知らずの内に物語に引き込まれる。中盤で主人公・霧神顕(きりかみあきら)の出生の秘密が明かされ、未知の能力が徐々に発揮される。志を同じくする仲間が次々と殺され、顕の怒りが眠れる能力を呼び覚ます。魑魅魍魎との壮絶な死闘。地図上に存在しない総門谷とはどこにあるのか、果たして顕の運命は如何に。時代劇の予告編みたいな口上になってしまったが、ドキドキワクワクさせる筆者の手並みは実に鮮やかだ。相当な時間をかけねばこれほどのダシは出ない。


 筋運びは『スカラムーシュ』(ラファエル・サバチニ創元推理文庫)の仇討ちを思わせ、結末は『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク/ハヤカワ文庫)の余韻を感じさせる。本の分厚さもなんのその、一気読みすること請け合いだ。


 この本はSFではなく伝奇小説だ。SFと伝奇小説の違いは何か。それは──よく分からない。が、肌で感じるものがある。いうなれば西洋と東洋の違いといったところか。すなわち、パンと御飯の感覚の相違だ。「御」の字に現れているのは感謝の念だ。米という文字は八十八を組んだもので、88の行程を経て食卓に上がる、という話をテレビアニメ『一休さん』で聞いたような記憶がある。いや『日本昔ばなし』だったかも知れない。要は主食に対して、恩の思想があるということを言いたいのだ。日本人があからさまな自己主張を嫌うことは、余りにも有名である。謙譲を美徳とする文化は独力で成し遂げたとしても「○○さんのおかげです」と言わざるを得ない。御飯という言い回しにも根っこにあるのは「お百姓さんのおかげでオマンマにありつける」という発想であろう。幼少の頃、「一粒も残すな」と言われて育った人が殆どではなかろうか。農耕民族特有なこうした感覚を負の側面から捉えたのが「寄らば大樹の陰」「長い物には巻かれろ」といった俚諺(りげん)であろう。もたれ合いが談合社会を支え、腐敗に手を染め易いのは確かだ。しかし、正の側面から捉え直すと、関わり合う人間同士は不思議な縁を宿しているという、運命的な連帯感を共有させる。「袖振り合うも他生の縁」「情けは人のためならず」となるのである。いずれにしても、底を支えているのは“情”である。マイナスに引っ張られると「情に流され」、プラスに持ち上げられると「情けが深い」となる。“情”というものは理屈と正反対に位置しているもので、極めて振幅が激しい。感謝が怨みに、恩が仇へと一転することもまま見受けられる。「情けが仇となる」ことさえあるのだ。


 ちょっと上手く表現できないが、西洋的な自立よりも、東洋的な関わり合いに感動を覚えるのだ。手っ取り早く言うと『レオン』と『變臉(へんめん)〜この櫂に手をそえて』の少女の役所の違いなのだ。今直ぐ、直ちにレンタルビデオ店へ走って行ってもらいたい。『レオン』の子役は殺し屋をタジタジさせるほどの自立心を持っている。自らの意志で薬を手に入れるために売春をし、殺し屋に対しては、殺しの手ほどきをさせ挙げ句の果ては物真似までさせる。ところが『變臉』の子役は少年として売られ、買い主に女の子だとバレた途端、卑屈なまでに隷属させられる。それまで「おじいちゃん」と呼んでいた老人を「御主人様」と呼ぶよう強いられる。邪険に扱われても付き従おうとする少女。健気(けなげ)に尽くそうとするものの、やることなすことがことごとく裏目に出てしまい、老人の人生は破局へと向かう。ところが、この少女が命懸けで老人を救うのだ。どちらの映画もそれぞれ魅力があるのだが『變臉』の方が感動が深い。それは、パンにはなく御飯にはある湿り気のようなものだ。“情”という湿気が物語を深いものにしているような気がしてならない。哀れを誘う少女につい感情移入してしまうのだ。多湿な環境に生まれ育ったことが、感覚を決定づけているのかも知れない。シガラミに逆らえないという点では、『さらば、わが愛〜覇王別姫』を見てもよく分かる。まあ、そうは言っても結局、嗜好の問題だから「深い」と感じるか「不快」と思うかは人によって分かれるところだろう。


 長々と綴ってしまったが、「怨(おん)と恩」が描かれているところに、SFを超えた“アジア的な感動”を覚えた。


総門谷 (講談社文庫)