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1999-03-26

『ことばの国』清水義範


笑いが止まらぬパスティーシュ言語学


 いやあ、笑った笑った。電車の中で笑いをこらえるのに一苦労した。俯(うつむ)いて本で顔を隠しても「くっくっくっくっ」と笑い声が漏れてしまうのだ。総武線快速で向かい合って座った若い女性が、呆れ返った表情でジロリと視線をくれた。家に持ち帰ってからは「は〜っはっはっは」「ひ〜っ」と腹を抱えて大笑い。独り身だからいいようなものの、これで家族がいたら大ひんしゅくだろうなあ、と思いながらも笑い続けるのだった。


 ご存じ、パスティーシュという言葉を定着させた著者の、言葉に関する短編集である。『朝まで生テレビ』をパロった『徹底討論』に始まり、現代から去ってしまった言葉を編んだ『廃語辞典』。更に『手垢のついた言いまわし』から『手紙の書き方』まで、至れり尽くせりの内容だ。ただ面白おかしく終わらせずに、キチッと急所を押さえているところが著者の特長と言ってよい。笑いは飽くまでも味付けなのだ。ギリギリのところで踏みとどまる上品さが好ましい。また、どの作品にも共通していることだが、この人は雰囲気を掴む感覚が抜きん出ている。桂文珍が『落語的学問のすすめ』(新潮文庫)で「だいたい人間ちゅうのは、悲しい映画を一緒に見に行くと、泣く場所って決まってるんですね。だから涙腺を刺激するようなつくり方というのは簡単なんです。ところが、笑いというものは、人によってずいぶんとらえ方が違いまして、非常に個人差があるわけですね」と言っているように、笑うという行為はそもそも知的なものである。主題を崩すことなく、ここまで笑わせる著者のペンは、実に研ぎ澄まされた切っ先を持つもの

と言わざるを得ない。


 例えば、『廃語辞典』に「しんし[紳士]」という項目がある。この言葉について「紳士服売場が、メンズ・ウェア・コーナーになってから世に紳士がいなくなった(47p)」と時代を巧みに捉えつつ、ジェントルマンの定義を紹介。その根底に潜む差別性に迫り、「だから、ジェントルマンの訳語である紳士があまり使われなくなったのはいいことだと私は思う(48p)」と所感をさりげなく盛り込む。更に「お嬢様」とう言葉の再浮上に懸念を示し「一億総中流の日本で、せいぜい父か祖父かが金もうけがうまかっただけの女性を、お嬢様と呼んであこがれたりするのはやめてもらいたい。それは要するに、金にあこがれているだけのことで、非常に情ないことだと思うのである(48p)」とバッサリ斬り捨てるのである。常識という座標がブレないが故に笑いが生きてくる。大体パスティーシュなるものが、元の作品を知らなければ成立しない、とは言わないまでも、笑いの質と量は間違いなく低くなる。すなわち、清水義範は偉大なる常識人だったのだ。『手垢のついた言いまわし』などその最たるものだろう。ニュース用語を次々と列挙し、手垢まみれ慣用語の大行進となる。ゲラゲラと笑いながらも、適切かつ豊富な例をここまで挙げられる此奴(こやつ)は一体何者ぞ! と誰もが感じるのではなかろうか。


『ファクシミリ大乱戦』の落差、『前号までのあらすじ』に見られるネーミングの妙と、内藤陳を思わせるルビの振り方(226p)、絶妙極まりない擬声語の数々。この人の言葉に対する誠実な態度が洗練されたものへと昇華した感を抱く。


 白眉は何と言っても短編小説『言葉の戦争』だろう。英米豪3国の連合軍と開戦した日本では、再び英語が敵性語となる。「なにがゴルフ・ギャルだよ。こんなキャバい女、ディスコでボディコンで踊ってるようなミーハーじゃねえか。トレンディが聞いてあきれるよ(230p)」という息子の発言を父親が訂正し、息子が言い直す。「なにが孔球少女だよ。こんな水っぽい女、踊り場で肉体挑発服で踊っているような軽薄娘じゃねえか。当世風が聞いてあきれるよ(237p)」。同様の話が20年くらい前の『こちら亀有公園前派出所』にあったが、これだけで清水義範は終わらせない。この後、更に日本は中国とも開戦。遂に、漢字・漢語までもが使用禁止となる。そして、最後にあっ、というオチがつく。これは読んでのお楽しみ。


 変幻自在な文体と豊富なボキャブラリーで爆笑の渦を巻き起こす清水義範は、正に『ことばの国』からやって来た王子様だ。

ことばの国

1999-03-21

近代を照らしてやまない巨星/『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編


 男の本能を掻き立てて止まないものが、ここにはある。


 18世紀から19世紀にかけて光芒を放った巨大な彗星、その名ナポレオン。


 彼の生涯の浮沈の曲線はかくして完全である。それは地平線の全体を包容している。彼は25歳にして有名であり、40歳にして一切を所有しており、50歳にしてはもはや名のほかに何一つ持たない。しかしこの名はその綴りの一つ一つが人々を感動させるものなのだ。そしてこの名の反響は人類とともにしか滅びないであろう。


 特大の花火を思わせる彼の生き様は、その残像を数百年にわたってとどめるであろう。


 この本はナポレオンの書簡・兵隊への布告・戦報・語録・歴史的研究・人物観などを年代順に抄録したものである。不世出の英雄の人間的な素顔が、生々しい迫力を持って迫ってくる。


 何年か前に『ナポレオン展』が開催された。恐ろしい数のダイヤモンドがちりばめられた王冠などの高価な品がたくさん陳列されていた。しかし、私が最も感銘を深めたのは彼の「言葉」に他ならない。そして、彼が戦闘また戦闘の果てに作り上げようとした『ナポレオン法典』だった。


 展示物の間に掲げられたパネルに記された言葉に私は衝撃を受けた――


 若くして死ぬなら死んでもいい。しかし栄光もなく、祖国に尽くすこともなく、生きた跡形を残すこともなく生きているのだったら、若くして死んではいけない。そんな生き方は酔生夢死も同然だからだ。


 私は眩暈(めまい)を覚えた。この言葉の前ではきらびやかな王冠もくすんで見えた。「栄光」の2文字をまとった男が佇立(ちょりつ)していた。


 世界を引っぱってゆく秘訣はただ一つしかない。それは強くあるということである。なぜなら力には誤謬もなく、錯覚もないからである。力は裸にされた真実である。


「なんじゃい、これは!」と私は致命傷を負ったジーパン刑事のように心で叫んだ。そして、トドメが『ナポレオン法典』。彼は普遍的な人間の規範を残そうとした。自由を基調にした永遠なるものを後世に印そうとした。それは剣と精神を併せ持った男の最後の仕事に相応しいものだった。


 如何なる環境からこうした人間が生まれるのか? ナポレオンをナポレオンたらしめたものは何だったのか? 疑問は雲のように立ちこめ、フラフラになって私は美術館を後にした。そして、直ちに買い求めたのがこの本である。一気に読み終えた時、私の中でナポレオンは更に巨大になっていた。


 一つのすぐれた力が私を私の知らない一つの目的へと駆り立てる。その目的が達せられない限り、私は不死身であり、堅忍不抜であろう。しかし私がその目的にとって必要でなくなるや否や、たった一匹の蝿でも私を倒すに充分であろう。


 彼は戦場にあって常に先頭に立った。全軍の指揮を鼓舞するためもあっただろうが、勝利への全責任を担う気持が、止むに止まれぬ行動となって、危険な位置に身を置かずにはいられなかったのではなかろうか。一兵卒となっての捨て身の姿に、全軍が奮い立ったに違いない。


 戦争においては、いたずらに多くの人間がいたからといって何にもならない。一人の人間こそすべてである。


 彼こそが正しくその一人だった。


 彼は戦闘の中で自己の限界に挑み、勝利する度に内面の新たな地平を開き、栄光の輝きに照らされる中で、更なる理想を追い求めた。


 偉大な理想に賭けた男の自負が、威風堂々たる言葉となって溢れ出てくる。


 自由と平等を追いかけた剛速球の人生が、凄まじい音を現代にまで轟かせる。近代の幕開けは、波瀾万丈を極めた一人の男が、大いなる波を起こして始まった。


 それにしても、私の生涯は、何という小説(ロマン)であろう!

ナポレオン言行録

1999-03-19

『誰も書かなかった灰かぶり姫の瞳』梁瀬光世


童話に託された英知をすくい取る


 サブタイトルが「25の童話の驚くべき真相」。最近この手の本が随分と流行っているようだが世紀末現象の一つであろうか。25の童話を通し、なぜ曲解さたのか、作者が伝えたかった本質は何なのかが、短いが丹念な文章で書かれている。この本で紹介されている物語の大半は、幼い頃に誰もが聞かされたり読んだりしたものだろう。時代や国境を越えて語り継がれるだけの智慧が童話には秘められている。それにしても、私が聞かされた話がこれほど情報操作されているものだったとは知らなかった。例えば『アリとキリギリス』。ギリシャ原典の古代寓話では『アリとセミ』が正しく、「夏の間歌ったなら、冬の間踊りなさい」というのが本当の結末とのこと。『白雪姫』の最後は、王子様に結婚を申し込まれてめでたしめでたし、ではなかった。白雪姫は名を伏せて、母親であるお妃を結婚式に招待し、真っ赤に焼けた鉄の靴を無理矢理はかせ処刑をする、という残酷な復讐劇になっているそうだ。著者は丁寧に童話の意図するところをすくいとり「白雪姫の物語は少女期特有の虚栄心と残酷性をテーマとし、それを被害妄想にまで膨らましてストーリーに仕上げたものだといえます」と解説する。


 わかりやすい文章と人間の心理を巧みに突いた解説は、軽い推理小説を読んでいるような気にさせられる。「ふーん」「へーっ」「ほーっ」「なるほど」というリズムが小気味良い。ちょっとした余技にこういう話ができると株が上がるかもしれない。


 こうした童話が生き生きと語られていた頃は、何の説明も必要としなかったに違いない。ある種の人間学として語り継がれていったことだろう。直接的などぎつい内容が、幼い心に世界観の原形を形成したに違いない。あとがきによれば「童話というものは、もともと魔術のようなものであった、ただしくは、宇宙や生命の隠されたいとなみについての、創造的な科学技術であった、という視点」を持ち「たいせつなのは、この宇宙的事実をしっかりとふまえ、その流れのなかの法則をしっかりつかみ、そして日々活用しいくことです」と著者は静かに語りかける。


 感受性の乏しい子供がありのままの物語を聞いても、何も感じないかも知れない。あるいは、表面的な残酷さを真に受け、空恐ろしい空想に発展するかも知れない。現代の子供達であれば、そうか、その手があったのかと血で血を洗う惨劇に発展しそうだ。童話がアニメーションにとって変わり、印象深い倫理性よりも短絡的なストーリーが求められる時代となってしまった。ものの豊かさは、人間から「語り」という行為を奪い取ったのかも知れない。家事・育児に束縛感を抱く母親がカルチャークラブに通い、エステティックサロンに足を運ぶ一方で、テレビと向かい合う寡黙な子供の姿が目に浮かぶ。疲れ切った表情で、うつむき加減のままテレビに見入る子供の心の底で、悪意と怒りがたぎり始める様相が迫ってくる。


 子供を大人と対立するものとする見方が、童話の変質を支えてきたのではないか。そうした思考による手加減が子供を脆弱にしてしまったと言えば言い過ぎだろうか。人間性なんてそんなに変わるものではないと思っていたが、どうやら年数を勘定できるようになってから2000年になろうとするところで、その質は激しく劣ったものに変質してきたのではないか。訓戒を込めた童話よりも現実の方がはるかにグロテスクで残忍なものになってしまった。童話を聞かずして育った子供達が、ちょとしたキッカケですぐにキレルようになり、カウンセリングを受けるのが当たり前の光景となった昨今である。童話が心理学にとって変わった。時代変遷を解くカギがここにある。価値観の多様化にかまけ、自由と放縦をはき違えた結果、共通の道徳・公共性が著しく欠如してきている。稀薄になった関係性が人間を軽い存在にしている。拠って立つものを喪失した自分が透明な存在になりつつある。閉塞的な社会が人生の選択肢を驚くほど狭いものにしてしまっている。病んだ心を精神病理学によって分析するはるか以前に、躍動する子供の心を育むために、生き生きと物語る親の存在が求められている。


 童話と心理学との落差を思う。理詰めの知識に欠如しているものは何か──それは物語性と詩心だ。


 人間を見据えた庶民の智慧が瑞々しく語り継がれるとき、キレる子供達の顔に微笑が取り戻せるに違いない。


誰も書かなかった灰かぶり姫(シンデレラ)の瞳―25の童話の驚くべき真相 (幻冬舎文庫)