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1999-04-11

『暗殺者』ロバート・ラドラム


記憶喪失の凄腕の正体やいかに? 国際謀略小説の巨編


 国際謀略小説の雄、ロバート・ラドラムの屈指の傑作である。


 二十歳(はたち)の私が、ミステリを堪能する至福の時を知った思い出深い作品でもある。それ以来、読むこと3度目だが、いささかもその面白さは損なわれることはない。何度読んでも感動を味わえるということは、それだけ人間が描かれている証左であろう。今年に入りやっと増刷され、課題図書入りとなった。電車を乗り過ごしてしまうほどの面白さだ。


 嵐の海から救助された瀕死の男は記憶を失っていた。自分は一体誰なのか? 医師は変装の痕跡を認め、更に、暴力への志向があることを指摘する。男はそれを裏づけるように、医師から渡されたオートマチックの銃をアッいう間に分解する。


「きみが火器の扱いに熟練していることは疑問の余地がない」(上巻33p)


 そして数日後、気の荒い漁師たちに絡まれたその男は、想像をはるかに越えた反撃をしてしまう。町にいられなくなった彼は、自分の身体に埋め込まれていたマイクロフィルムに写されていた銀行があるチューリヒに向かう。


 ここから主人公ジェイソン・ボーンの自分探しの旅が始まる。見も知らぬ男たちから命を狙われ、超人的な機略を巡らせて戦うボーン。波瀾万丈の冒険活劇が巻末に至るまで詰まっている。


 真相に迫るごとに過去の残虐な事実が浮かび上がってくる。自分は暗殺者だったのか? 愛するマリーがそれを否定する。マリーが信じたのはボーンの知性と優しさだった。老将軍ビリエールもそうだ。ボーンを「目で真実を語る若者」(下巻304p)と確信する。百戦錬磨の男の眼力が、殺人鬼に愛息を殺害された怒りが、ボーンの真実を見抜く。 失われた記憶が戻らないまま、ボーンは全知全能を傾けて敵と対峙する。難局を切る抜けるたびに、過去に培った訓練が呼び醒まされる。


 記憶を失っても失われない何かがある。真相がわからなくても真実は表れる。その人間が積み重ねてきた行為が、その人をその人たらしめている。記憶という情報がないゆえに、尚更、純粋にそれが表れる。人間の核ともいうべきものは、結局、知性と人間性に象徴的に現れるのではないだろうか。


「換言すれば、彼はわれわれの縮小版(マイクロコズム)だってことですよ。つまりわれわれはだれしもが、自分は何者なのかという設問に対する答えを一生かけて追い求めているわけですからね」(下巻396p)


 記憶を喪失していない私が如何なる真実を抱いているだろうか。自分は何者なのか? どこから来たのか? アイデンティティは記憶よりも遙かな深層に存在する。その意味では、冒険小説版『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』(ヨースタイン・ゴルデル著:NHK出版)と言ってもよいだろう。


 一つの目的に人生を賭けた男の壮絶な闘争が、真実への軌跡を描く。これしかないという使命感が記憶喪失という障害をも乗り超える。


 ラストは感動的だ。自分が自分であったという歓び。本当の自分の誕生。本当の自分になるという経験が、こんなにも幸福なことなのかと実感を持って胸に迫る。


 外なる冒険がそのまま内なる冒険となり、何ひとつ信じられない世界の中で、最後に勝ったのは、互いを信じ合える人間だった。


 ラドラムの見事な人間讃歌だ。

暗殺者(上) 暗殺者(下)

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