古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 古本屋の覚え書きを検索

1999-10-26

『ドストエフスキー伝』アンリ・トロワイヤ/村上香住子訳


 ダラダラと無為な時間を過ごしている時に思い起こす話がある。


 それはかのドストエフスキーが銃殺刑に処せられようとした“あの瞬間”のエピソードだ。革命分子と目され逮捕。予想だにしなかった判決が下される。この時、ドストエフスキー27歳。処刑は3人ずつ行われ、彼は2回目に当たっていた。5分後には目の前の柱に自分の屍体が括(くく)りつけられているに違いない──。


 なにか不思議な感動がこみあげてくる。この貴重な5分間を無駄にしたくはない。最後に残された宝物のように、大切に使いたい。そのなかに含まれた芳香を味わい、永遠に闇の底に葬られる前に、底知れぬ生の歓喜を堪能したい! 彼はその残された時間を三つに振り分けた。2分間は瞑想に、2分間は友との別れに、そして残りの1分は、まだ彼が踏みとどまっているその世界に目を向けることにする。(212p)


 死がそこまで来ている。あと5分、わずか300秒。心臓の鼓動が終焉(しゅうえん)の時を刻む。この5分間に彼の人生の縮図があったと言えまいか。瞑想とは自己の裡(うち)に深く沈んで、宇宙をまさぐる行為。エゴから離れた清廉な心は友への感謝に満ち、最後の時間は、如何なる悲劇が襲いかかろうとも、それを真っ向から見据え、受け入れる準備があることを示している。


 突然体がしびれるような恐怖感がこみあげてくる。「もし死ななかったらどうするだろう? もしまた生きることができたら! それはなんという無限だろう! それは全部、自分のものなんだ! もしそうなったら、一瞬一瞬をまるで100年のごとく大切にして、なにひとつ失わず、どの瞬間だって、けっして浪費しないように使うようにしよう!」(『白痴』)


 土壇場で恩赦が下る。


 流刑、追放。体がしびれるようなよろこびが、胸の底からこみあげてくる。助かったんだ! あとのことはもうどうなってもいい! 20年後、彼は妻にこう語っている。

「あんな幸福だった日はこれまでになかったよ」(214p)


 絶体絶命の5分間が、歴史に名を残した偉大な作家を育てたのかも知れない。


 そんなことを考えながら更にボーッとしていたら、コーヒーを引っくり返してしまった。


ドストエフスキー伝

投稿したコメントは管理者が承認するまで公開されません。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証