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1999-11-03

『現代作家100人の字』石川九楊


 文字を読む──言葉の意味を探るのではなく、筆跡を読む。線の一本一本に込められた“何か”を読み取ろうと丹念に注がれる視線は、点の打ち所をも見逃さない。京都芸術短大講師を務める書家が、現代作家100人の文字を眼光鋭く洞察する。写真を含めてわずか一ページ余りで論及する見事な手並みは、“「書」のレントゲン”とも言い得るものだ。


 墨痕鮮やかな書から、万年筆のサイン、クレヨンで書かれた見出しに至るまでが取り上げられている。無造作と思える解釈を確固たる根拠が支えている。だが「深読み」と感じた事実を私は否定しない。「かくも鋭く見抜くことが可能な眼はどこに位置しているのか?」これが最大の疑問だった。石川には、書き手の意図を虎視眈々と見抜こうとするあざとさは感じられない。半(なか)ばまで読み進んで、私はハッとした。彼は、眼前にある「文字」に寄り添い、「文字」の側に立って、書き手を見つめているのだ。ここに至っては、書き手の地位・名誉・人気などは一切、眼中にないであろう。書いた人物さえも淡い墨のように遠くへ霞(かす)んで見える。


「運筆の快感──書の歴史は一面でこの変遷(へんせん)に裏打ちされているとも言える」。その上で、歴史の推移が情け容赦なく文字を変貌させるのも当然。「時代が大正、昭和と近づくにつれて俗に言う『個性的』『我流』の書が多くなるのは、文字が伝統的な規範の呪縛(じゅばく)から脱して、自由に思い思いの変容を開始したからだ。おそらくそれは近代日本語の成立と自我の確立に連動している」とした上で、その最大の要因を「〈文〉と〈書〉の乖離(かいり)という病理」によるもであると説く。硬筆の運筆法が今時のコギャルどもの丸文字にまで進化? するのである。


 で、丸文字代表選手として、宮部みゆき吉本ばななが、更に進んだ? イラスト文字組からは、村上春樹篠原ともえらが俎上(そじょう)に載せられている。


 歴史的基準を前提とせず、単純な『サクサク』としたリズムに生れるイラスト文字には成熟はない。もしも、現在のような行き過ぎた商品市場経済に寄り添うところに表現があるとするなら、成熟しないことをひとつの役として演じてみせる篠原ともえが、おそらく、村上春樹よりもはるかに過激な表現者であり、もっとも尖端を走っているということになる。


 文字という極小の世界から時代の呼吸まで辿(たど)る慧眼(けいがん)は圧巻の一言に尽きる。


 ワープロを教育分野からは遠ざけるべきだとの提言も「(1)造語力が弱まる(2)『文字禍』にさいなまれる(3)創造的語彙が激減する」という3点の理由から具体的な論証が試みられ、警鐘の余韻を含んでいる。


 とにかく文章の切れがいい。数千年の歴史から現代に至るまでを自在に語り、時に辛辣、時に優雅な表現力は心憎いあまりだ。例えば、作曲家・武満徹の色紙を石川はこう評する。


 署名部〈満〉のサンズイは圧巻。短いベースの音が二つ、ボン・ボン。続いて深く吸い込まれた息が、ピューという強い笛の音となっていっきに吐き出される。〈徹〉のギョウニンベンはヴァイオリンの響きの趣。

 なだらかに、なめらかに左下方へ傾斜していく行はメロディーに同伴し、署名部の文字がしだいに拡大するのは、曲の昂揚(こうよう)。〈り〉と〈徹〉のサイズ落差は20倍、あるいはそれ以上もあろうか。いわばピアニシモとフォルテシモの表現が混在している。


 こんな文章を読ませられると、所感を記す気力も萎(な)えてただ溜息(ためいき)を吐(つ)くしかない。他にも、詩人・大岡信の書を評する件(くだり)などは、さしずめ推理小説の趣がある。こちらは読んでのお楽しみ。


 世間をひっくり返るほど騒がせた神戸少年殺害事件(1997年)の「酒鬼薔薇聖斗」と署名された犯行声明文が最後に紹介されている。当時、一部の心理学者が「愉快犯ではないのか」と推定したが、石川は断固これに反証を加える。通常、犯罪者は肉筆で声明文を記すことはなく、それは警察に突きとめられるのを困難にしようとするためだけではないと前置きした上で、


 たとえば、「コロスゾ」とか「KOROSUZO」とキイを押すことは容易だが、「殺すぞ」と対象(紙)に力をこめて書く(筆蝕する)際には、書いている間中、「殺す」と書いてよいか否かの内省を迫られることになり、無限回とも考えられる内省をくぐりぬけることは、犯人といえどもなかなか耐えがたいからである。肉筆で犯行声明文を書いていることは、犯行に対して確信が存在するのであり、愉快犯とは考えにくい。


 との結論を導き出す。こりゃあ、もうただ者じゃありませんね。「書」におけるトライアスロン(鉄人レース)を見ている気分になる。


 一読後、勢い余った私はコンビニに駆け込み「筆ペン」を買ってしまった。私に石川を読むよう促した先輩にそれを告げると「フデー野郎だ!」と見事な洒落で叱責を受けた。読み了えたのは大雨にたたられ日のことで、鞄の中に収めてあった本書にまで、雨はしっかりと痕跡を残して行った。そんなこんなも妙に忘れ難い。


 優れた書物には「眼(まなこ)を開かしめる」不思議な作用がある。石川の知性は筆のように、しなやかで、自由な佇(たたず)まいに富み、陰影自在に遊ぶ。

現代作家100人の字

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