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1999-12-29

『暗黒の河』ジェイムズ・グレイディ/池央耿訳


 国際謀略モノである。ロバート・ラドラム、デイヴィッド・マレルの系譜に連なるかと思ったが少し勝手が違う。登場人物はそれぞれ訓練を受けてきた兵士たちなのだが“ランボー”や“ジェイソン・ボーン”みたいなスーパー・ヒーローは出て来ない。ベース音に流れるのは、トマス・H・クックやマイクル・Z・リューインと通底する哀愁の調べである。


 アル中の錠前屋、ジャド・スチュアート。いつものように飲んだくれていた彼は刺客に気づく。「とうとう来たな」。窮地を脱すべくジャドは酔いつぶれた振りをする。外へ投げ出された彼はアルコールのせいで脂肪だらけになった身体を、バーのドア上部に隠した。姿を現した刺客に身を躍らせる。階段を転げ落ちた時、刺客の首はあらぬ方向によじれ既に事切れていた。こうして元CIA工作員にしてグリーン・ベレーの猛者であった彼は逃亡劇を余儀なくされる。


 カット・バックの多用と、人物造型の平板さが気になるものの、それらを補って余りある骨太なミステリに仕上がっている。ヴェトナム戦争を皮切りに、ウォーターゲート事件、チリのアジェンデ政権転覆工作、イラン−コントラ事件に関わってきた一級スパイがなぜ今になって狙われるのか? 逃亡を前にジャドは親友で作家をしているニール・ケリーとCIAに電話を入れる。CIAでは急遽、海兵隊少佐ウェズリー・チャンドラーを抜擢し、ジャドを極秘裏に追跡させる。こうして3人の男たちの人生が鼎(かなえ)となって物語は好調に走り出す。


 警句の余韻をはらんだ文章がちりばめられていて一気に読める。それぞれが抱える苦悩も現実感があって良い。「兵士に靴下は欠かせない」。こんな細かな描写もミステリファンとしては嬉しい限りだ。


 国家の安全保障を支えて来た男が、捨て石同然の仕打ちに合う。知り過ぎた人間は消される運命にあるのか──。ジャドを追うウェズリーも所詮、捨て駒のひとつに過ぎなかった。それに気付いた彼はジャドを何とか助けようとする。一方、ジャドから電話を受けたニールは、得体の知れぬ男に近づかないよう促す妻をなだめつつ、ジャドへの加勢を決意する。


 今日の選択が明日の機会を生む。朝毎(あさごと)に、人は新たに無限とも言える選択の自由を与えられる。何を選ぶにせよ、その都度、失うものが増すことだけは間違いない。とはいえ、何であれそれに対する代償を規定する引力に似た、曰(いわ)く言い難い力の働きをニックは信じていた。


 追跡に失敗し大怪我をしたウェズリーは心配する恋人にこう語る。


 私は正しいチームの一員であると同時に、独立した一人の選手でもあるのだよ。目指すところは大リーグだ。試合に出る以上は、最後まで戦う。私にとってこの任務は……つまりそういうことなんだ。戦いの規模や性質は私が決めたわけじゃあない。だといって、そっぽを向いて知らぬ顔はできないし、他人に押しつけるわけにもいかない。


 果たして好漢たちの助けは間に合うのか?


「もう我慢がならなかったんだ。(中略)自分が何物で、何のために何をしているのか、知らずにいることに耐えられなかった」


 とジャドは心情を吐露する。逃亡は自分を取り戻す旅でもあった。しかし、失うものが余りにも多過ぎた。


 圧巻のラスト・シーンで男たちの魂は深く共鳴し合う。そして、止むに止まれぬ選択をし、物語は激情が奏でる音律と共に幕を下ろす。


 国家をよぎる水脈は正に「暗黒の河」といえよう。権謀術数が渦を成し、汚穢(おわい)に満ちた河をジャドは見事に渡り切った。


暗黒の河

1999-12-24

『穴と海』丸山健二


 初期の短編集である。利沢行夫の解説によれば丸山にとっては3冊目の作品とのこと。昭和44年文藝春秋から発刊されたというから、著者25歳前後の作品である。表題作以下6編が収められている。


 丸山はエッセイ集『イヌワシ讃歌』(文藝春秋)で映画『灰とダイヤモンド』を絶賛しているが、そんな彼の嗜好を強く感じさせる短編の数々であった。


 静謐(せいひつ)感が伴う背景、会話の妙、暴力の匂い──。リアリティを追求するペン先は浮ついた描写を拒否し、人間が持つ心の闇をしかと睨(にら)み据える。効果的な落差が読み手を落ち着かなくさせる。どうにも尻が落ち着かない物語ばかりだ。


 利沢が表題作『穴と海』を取り上げ「丸山健二の“根”がどこに存するかを理解するうえで、これは重要な作品である」と指摘している。


 少年が山中のある場所に穴を掘る。自分がそっくり入れるほどの穴を独力で掘り下げ、ススキの束でもって開口部を覆い完成する。穴の中で少年は眠り込んでしまう。目を醒ますと既に夜だった。慌てて家路へ急ぐのだが、昼間とは全く違う姿の森林が少年の行く手を阻む。のし掛かって来るような巨大な闇を前にして、少年は家へ帰るのを諦め、自分がつくった穴へ戻り、再び寝入る──。


 これだけの物語である。少年が目的を抱いて穴を掘る作業、彼を取り巻く風と陽の光、蟻とススキに象徴される自然の息遣い。それらの描写が渾然一体となって、目的を成し遂げた安堵感に結びつく。


 利沢は、丸山作品に顕著なものとして「自然との交感」を挙げ、それは体験の虚構化ではなくアイデンティティの確認であるとし、自然の中でやすらぎを覚えるもののそこを永住の場所とはしていないと洞察している。


 確かに丸山が近隣との人間関係を拒否しているところや、大自然の懐をオートバイですっ飛ばすことなどは、そう言えなくもない。だが、それだけではしっくり来ない何かを私は感じるのだ。


 穴といえば、忘れてならないのは丸山が少年時に「心にボカッと風穴が空いた」体験だろう。更に丸山は「自分が小説家になったのは、普通の人よりも何かが欠けているからだ」と何度も述べている。


 少年が真っ暗な森林に遮(さえぎ)られて穴に戻る。この後、空腹に堪えかねて自分以外の家族で夕餉(ゆうげ)を囲む空想に悩まされる。だが、それから少年は、足の甲にこびりついた赤土を爪ではがし、その行為を面白がる。そして、ラストで「少年は長い老人のような溜息をもらしたあとで、寝入ってしまったのだ」(44p)。


 普通の少年ならば眠れないだろう。夜が孤独感を煽り立て、帰宅して怒られるであろうことを考え、まんじりともせずに朝を迎えるのではないだろうか。予想を覆す結末が如何にも丸山らしい。


 私はこんなことを思った。何が出て来るかわからぬ森林の巨大な闇は、丸山の心に空いた風穴ではなかったか。そして、少年が掘った穴とは、丸山が今日までペン先で掘り続けて来た穴ではないのか、と。


 丸山は最近、出演したテレビ番組で「自分が死んだ時に棺桶に入れる一冊を書き残したい」と、のたまわった。彼にとって居心地の好い穴はまだ完成していないようだ。

穴と海