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2000-01-08

『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年』佐野眞一

    • 『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年』佐野眞一

 人間と動物の違いは様々あるだろうが、人間は教育によって“変わる”ことが出来る。動物の場合は血統がモノをいう。昨今の教育現場では刃物が飛び出す始末で恐ろしいことこの上ないが、昭和20年代、まだ教師と子供たちが信じ合えた頃に誕生した綴り方文集の傑作『山びこ学校』(青銅社、1951年/角川文庫、1992年/岩波文庫、1995年)。教育の効果は時間が経つほどに発揮されるものであろう。これは、戦後教育に燦然と輝く「山びこ学校」の40年の足跡を辿った労作である。


 まず驚かされたのは無着が山元中学校に赴任したのが21歳の時であったことだ。師範学校を卒業し、僻村に赴く彼の胸には、希望と不安が去来したことだろう。だが、この若き熱血教師の情熱が子供たちの中に眠る可能性を引きずり出したのだ。


 現実は厳しかった。貧しい家の働き手となっている子供たちは、学校に通うことすらままならなかった。「空腹」を「そらはら」と読み、「空気の入った腹のこと」と意味を記す中学生。8+5の解答を11とする者が教室の半数近くを占めた。赴任1年後、無着は日記に記した。


 どうしても、どうしても必要なだけの、どこに行ってもなくてはならないだけの、

 よむちから、かくちから、つづるちから、はなすちから、きくちから、かぞえるちから、そんなちからを、

 みんな、全部の人が持ってくれ、と祈りながら、いや泣きながら、赤鉛筆をけずっているのだよ。

 ぽろぽろこぼれていく、けずりくずのひとひらに、希望をこめて。


 幾度となく挫折の壁が立ちはだかったに違いない。しかし、喘ぐような日々の中で彼は希望を捨てなかった。希望とは、子供の「育つ可能性」を信じることに他ならない。添削で短くなった赤鉛筆を削る音に身を苛(さいな)まれ、けずりくずに希望をこめる。心は揺れながらも、彼は子供を信じた。


 無着は生活綴り方、今でいう作文に力を注ぐ。赴任9ヶ月後であった。そして文集「きかんしゃ」第1号が半年を経て完成。以後、第14号まで刊行された。これらの中から抜粋されたもので編まれたのが『山びこ学校』だった。作文といっても、詩や散文のみならず、生活レポートなどがあり、算数や社会科を充分意識したものだった。


『山びこ学校』の白眉といって良い江口江一の「母の死とその後」が文部大臣賞を射止める。このことが伏流となって『山びこ学校』は爆発的な売れ行きを示した。後に映画化。無着はマスコミから一気に担ぎ上げられる。


 有名の二字は必ずしも幸福を招かなかった。否、災いをもたらしたといっても言い過ぎではなかった。左右両陣営が利用しようとする。貧しい生活をありのままに綴った子供たちの親からは「孫末代までの恥さらしだ」(241p)と罵られる。20代半ばの無着は遂に村を去り、東京山の手の明星学園に移る。それからはマスコミに登場する機会も増え、タレント教師のハシリとして活躍。『山びこ学校』の子供たちとの交流は殆どなかったという。


 40年という時間を経て、不遇な人生を送られた方も多かったようだ。貧困が彼等の人生のブレーキとなった感はどうしても否めない。だが、彼等の胸中には若き日の無着の言葉が残っていた。「(正しいことは正しいという、との言葉を贈られた一人)そういう生き方はいいなあ、どんなに貧乏してもそうして生きていきたいと思った。あの言葉だけはあとあとまで忘れなかった。あの言葉のおかげで、なんとか今日まで生きてこられたような気がする」(167p)。


 少年時代の美しい心を保つには、余りにも世の中は厳しい。しかし、貧しさに負けることなく、彼等が学んだ事実はいまだ多くの人の胸を震わせる。


 昭和初期には、娘の身売りが全国でも最も多く、東京の娼妓の6分の1を山形出身者が占めたという。『山びこ学校』の級長であった藤三郎は幼少時から「あの娘は、明日で保険が切れるという日にちゃんと死んでくれた。保険が切れれば入院費を払わなくちゃならない。親孝行な娘だった」と母親から姉の話を聞かされてきた。


 過酷な労働は子供の身体上に現れていた。文部大臣賞の授賞式に壇上に上がった江口江一は中学3年でありながら、小学生部門で受賞した小学4年の子供より5センチも身長が低かった。山元村の子供たちは二宮金次郎の像を見て笑い飛ばしたという。「あればっかりのタキギを背負ったんじゃ、いくらでも本が読めらあ」と。少年たちは「頭を遙かに越える高さから、足のふくらはぎくらいにまで達するたきぎ」を背負うのが日常だった。


 そうした生活苦が極まりない中で彼等は心を通わせた。江口江一が母親の死後、1ヶ月半学校に登校出来なくなる。一家の大黒柱となった彼は、タキギ運びと煙草のしに明け暮れる。無着は仕事の計画表を作って学校に持って来るように言う。それを見ると、その月もよくて2日間しか学校には来られない。級長の藤三郎にそれを見せ「なんとかならんのか」と無着は言う。


「できる。おらだの組はできる。江一が学校にこれるようになんかなんぼもできる」


 藤三郎の言葉を聞き、母の死後ずっと泣くのを我慢していた江一の瞳から大粒の涙がこぼれた。


 映画プロデューサーが江一の家を訪れた際、入口付近に咲いた白い葉ぼたんの花が咲いていた。彼がそれを褒めると、江一は黙ってその一株を掘ってよこしたそうだ。その江口江一は31歳で絶命する。『山びこ』の寵児ともいうべき彼は、最期まで変わらなかった一人であったのかも知れない。刻苦精励、奮闘努力を絵に描いたような人生を全うした。


 綺麗事では済まない生々しい現実が侘びしさを誘う。「山びこ」の子供たちの人生は決してバラ色には輝かなかった。しかし、現実がそうであったとしても『山びこ学校』は読み継がれるであろう。酷烈な環境で学び得た彼等の生き様は、無数の読者に限りない希望を与え続けることだろう。己(おの)が人生にそうした一瞬があるだけでも彼等は幸せだと思う。

遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年


遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年 (文春文庫) 遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年 (新潮文庫)

(※上段は単行本、下段は両方とも文庫本)

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