古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 古本屋の覚え書きを検索

2000-01-24

『さらば、山のカモメよ』丸山健二


 青春時代が放つ、あの熱はどこから湧いてきてどこへ去ってゆくのか──。


 丸山にしては極めて珍しい軽快な文章の小説である。エッセイで紹介されていた事柄が随分出て来るということは、かなりの割合で事実に基づいて書かれたのだろう。等身大の丸山が感じられる。


 30代後半の主人公を取り巻く日常が描かれている。信州の過疎地で知り合う人間は、いずれも世間に違和感を抱く者ばかりで、一筋縄ではいかない連中である。彼等は熱に浮かされたようにオートバイに跨(またが)り、他人の夫婦問題に口を挟み、それぞれが抱える仕事に悩み、一つの季節を通過した。


 プロローグとエピローグで信州の山奥に突如現れたカモメの話が出て来る。カモメに擬されたのは「ヨウさん」という男である。これがまた女々しい男で、主人公とのやりとりが頗(すこぶ)る面白い。ヨウさんの口癖は《愛》と《美しい》のふたつで機嫌がいいとポンポン飛び出す。そのたびに主人公はこう言う。


 男のくせに、よくもまあそんな甘ったるい言葉を平気で口走れるもんだ。


 ヨウさんは必要以上に形に拘った。何を始めるにもまず形が先にあり、その形に自分を無理矢理はめこもうとした。そして、その形からどうしてもはみ出し、生々しい現実に片足を突っこんでしまいそうになると、得意の《見えないふり》をするのだった。私に言わせると、実にくだらない代物だった。少女たちをうっとりさせる程度の安っぽい夢のかたまりであり、もしくは、クルマの広告写真などに使われる絵空事であって、彼が考えている幸福とは、そのイメージに自分を近づけることでしかなかった。


 そんなヨウさんに離婚の危機が訪れる。ヨウさんの妻が浮気をしていたのだ。主人公はヨウさんをまず励まし、次に叱咤し、そして罵倒し、最後に嘲笑する。妻の実家へ行き啖呵を切ってくるよう促す主人公は一計を案じて、テープレコーダーをヨウさんのポケットに忍ばせる。目的の一つは証拠を残すためであり、もう一つの意味はこうだった。


 私はヨウさんを疑っていたのだ。本当に話をつけてこられるかどうか怪しんでいた。テープレコーダーは私の代わりとしての見張り役だった。それを持たされたことによって彼は、河原かどこかをひとまわりして戻ってくることができなくなった。


 ヨウさんはかきむしられた顔を血だらけにして戻ってくる。主人公はそれを見て、トイレに駆け込むなり、口にトイレット・ペーパーを丸めて押し込み、笑いを堪(こら)える。


 全てがこんな調子で描かれる。綺麗事だけの友情物語ではない。主人公の小説家は、周囲の人間と自分に対して、辛辣な視線を注ぎ、辛辣な言葉を投げつけ、辛辣な態度をとる。だが、何ともいえないユーモアに満ちているのだ。


 ヨウさんはよそよそしい口調で、こんなことを言った。

「ぼくはあの人に失望しましたよ」

「よく失望する男だなあ」と私は言った。「たまには自分に失望したらどうなんだ」


 おかしな人間達のおかしな素行がたくさん出てくる。樹安亭というロッジで仕入れてきた話を


 妻に話してやると、彼女もゲラゲラと笑った。

「みんな面白い人たちね」

「まともなのはおれだけだ」と私は言った。

「一番変ってるわよ」


 この作品には、いつもの求道者的な張り詰めた文体は出てこない。あの、氷に覆われた懸崖をよじ登るような濃密な息苦しさも覚えない。日常をモチーフにしたことが、いつもの山中を走り込んでいるような軽快さを生んだのだろう。


 だが、エピローグで再び山を訪れたカモメを登場させ、きっちりと効果的に物語を締め括ってみせるところはさすがだ。

さらば、山のカモメよ

投稿したコメントは管理者が承認するまで公開されません。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証