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2000-02-08

『てのひらの闇』藤原伊織


 あなたの周囲には、信じるに足る人間が何人いるだろうか?


 常に一緒にいても、ただ饒舌なだけで、深く交わろうともしない互いを「友達」と呼称する時代。表現する自己すら失った社会では、言葉は虚しい響きしか持たず、鳥のさえずりにも劣り、殺伐たる様相を呈している。空虚な音声はコンクリートの反射によって増幅され、至る所に真空状態をつくり出している。その真空は主に、弱者としての青少年の心に核を為し、これに触れると突然、狂ったような条件反射を呼び起こす結果となる。「キレる」とは現代のカマイタチに遭遇した謂(い)いであろう。


 20年前、生放送中のCM放映でアクシデントが起こった。取り返しのつかない失敗に騒然とする最中(さなか)で、メーカー名を読み間違えた女優と、それを庇(かば)おうとする主人公・堀江、そしてメーカーの代表が、赤い糸によって結ばれる。この件はメーカー代表の意向によって責任は不問に付され、美談で幕を閉じる。だが誰知ることなく、ここから悲劇の幕が開けられたのだった。


 大手飲料メーカーで希望退職を2週間後に控えた堀江。彼は会長の死に疑問を抱く。46歳にして会社勤めにウンザリした堀江は20年前の恩に報いるために走り出す。企業に見られるありきたりの職場の光景が現実感を支え、秘められた過去が明るみに引きずり出されるごとに、墨を刷(は)いたようにクッキリと人間が浮かび上がってくる。堀江は己の内側につないでおいた野獣を解き放った──。


 それにしても人物造型が巧みだ。なかんずく印象深かったのが堀江の上司・真田である。社内で希望退職者を募ったものの、会長の死によって株価が下落し、少し先に予定していた大幅なリストラ案が実行される。白羽の矢が立った管理職の男が、出社したての真田を殴るシーンがある。わずか2〜3ページの描写ではあるが短編小説のような味わい深さがある。嫌われ者上司の典型として描かれて来た真田の「眼鏡をはずしたその顔に、はじめて見る表情があった」と記される。


 命を賭した二人の男によって展開される物語は、過去の謎へと向かい、人が歩んで来た真実を一つひとつ明らかにしてゆく。信ずればこそ沈黙する関係がある。堀江を突き動かしたのは、会長が死の直前に言った「感謝する」との一言であり、20年前の「赤い糸クズ」だった。


 藤原伊織は確かな筆致で人間を捉え、その秀逸な筋運びは山本周五郎著『樅の木は残った』(新潮文庫)すら思わせるものだった。


 都会の喧噪に包まれる中で本書を一日で読み了えた。本をパタンと閉じ、私は言葉を失った。如何なる言葉で飾ろうと、本書の魅力を解き明かすことにはならないだろう。呑んでいた息が読了した瞬間、停止した。小さな死を思わせるほどの完結であった。


てのひらの闇 てのひらの闇

(※左が単行本、右が文庫本)

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