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2000-07-31

『丸山健二エッセイ集成/第4巻 小説家の覚悟』丸山健二


 山国を急速に占めてゆく紅葉と黄葉の得もいわれぬ芳香がいよいよ秋を深め、色とりどりの候鳥の羽音が透徹した大気を震わせるとき、ふとわれに返る一瞬がある。言葉を唯一の頼みとして、形而下から形而上へと分け入り、太極まで肉薄しようとする、そうした生活がいかに異常であるかについて今更ながら気づき、胴震いを覚えるのだ。まともではない生き方を四半世紀ものあいだつづけてしまったという後悔が胸のうちをすっとよぎったかと思うと、その黒々とした稲妻は、仕事だから仕方がないという大義名分を一撃のもとに粉砕する。そして私は、人っこひとりいない、清らかな水がさらさらと流れているばかりの、孤なる魂にはいささか広過ぎる河原の真ん中にぽつねんと佇んでいる。すると、1500枚にのぼる長い小説の主人公と共に過してきた、緊迫の連続のこの2年間が、寒風に吹き飛ばされてあっという間に北アルプスの山々を越え、活字の世界へと呑みこまれ、ひとかけの感慨も残さずに消えてしまう。


 半ば放心状態に陥った私は、抜け殻同然となった己をしばし眺め、ついで、波のようにうねるススキの原や、雲足の速い空や、まだしぶとく生きているトンボの光る羽を、うっとりと眺める。そんな私の心を、鳴き交わす野猿の哀調を帯びた声がかき乱す。これが、限界まで集中し、没頭した仕事の最後に味わう、いつもの気分だ。救いの手を差しのべてくれるのは女や犬や佳景ではなく、よく乾いた空気。(365p)

丸山健二エッセイ集成/第4巻 小説家の覚悟

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