古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2000-08-25


 私は扉だ。


 語り手はまほろ町に建てられたばかりの暴力団事務所の扉だ。頑丈極まりない扉が据え付けられて事務所は完成する。


 うわべは平凡そのものでも、しかし私の内側には分厚い鋼鉄の板が2枚も仕込まれていた。私を横眼で見ながら素早く通り過ぎる町の人々の眼には、ありありと好奇と恐怖の色が入り混じっていた。そこが私の付け目だった。


 抗争に備えた扉を見つめる「好奇」の眼差しとは、自分達の日常生活では絶対に得られぬスリルと、血で血を洗う暴力を傍観できるまたとないチャンスへの渇仰か。はたまた、人間に潜むどす黒い感情が解き放たれた瞬間への憧憬かも知れない。


「恐怖」とは、扉の向こう側にいる人間が自分に対して悪意の牙を剥(む)き出した場合を想定してのことだろう。災いが自分に降りかかって来ない限り、人は暴力という名のショーを期待する。


 見るからに粗野で、それとわからぬように小型の武器を帯びたかれらは、小指がないげんこつで私をどんどん叩き、矯(た)めつ眇(すが)めつ眺め、内側にふたつもついているかんぬきが、確実に、しかも素早く掛けられるかどうかを念入りに調べた。


 ただの「げんこつ」ではなく「小指がない」と書き足すことで、文章の幅がぐっと拡大する。昨日今日その道に入ったわけではなく、きっちりと落とし前を付けられる男達であることが一目瞭然である。また、語り手である「扉」の皮膚感覚までが伝わってくる。


 私は、底知れぬ潜勢力を有するかれらの世界と、法律しか頼るものがない人々の世界をきっちりと隔てた。


「扉」は作者の視点から、大人しく生きることを拒否する連中を肯定し、常識を肯定する市民を否定する。丸山得意の挑発だ。「断じて、そうではない」と言い返せる者がどれほどいるだろうか。


 世界を二分(にぶん)する扉の自負までが感じられる。


 傲然と構える「扉」の前に世一が現れる。「病気のために恐れを知らぬ少年が、拾ったチョークを使って私の上に落書きをした。稚拙な絵は、鳥のようでもあり、また、髑髏(どくろ)のようでもあった(同頁)」。


 世一は、まほろ町の人々の「好奇と恐怖」を知ってか知らないでか、まるでアスファルトの路面に向かうように振る舞う。書かれた絵は「自由」か「死」かの選択肢しか残されていない彼等の命運を象徴するものだ。


 虚仮威(こけおど)しの「扉」も、世一にかかっては画用紙程度の意味しか成さない。


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)

2000-08-20

落ち葉


 小説の好みは人によって様々であり、何に対して痺れるかは人それぞれの見解があろう。あるいはまた、小説などという作り事は読むに値せず、とする人もまま見受けられる。そこには、作家が勝手気ままに、都合良くストーリーをデッチ上げることへの侮蔑が感じられる。だが、ノンフィクションであっても、ある人間の視点から書かれている以上は「ひとつの見方」に過ぎない。別の人間が書けば、全く異質の物語が生まれようというものだ。であればこそ、小説という形式でなければ表現し得ない世界が確かにある。


 小説は大別すれば「現実志向」と「夢物語」の二つになろうか。私は夢物語を否定はしない。そこに描かれている世界は、現実から生み出された願望が込められているが故に共感を呼ぶのであろう。


 丸山は「現実志向」である。作家といえどもストーリーを勝手にこねくり回すことは断じて許されないとの自戒を述べている。


 私が丸山の作品に痺れる最大の要素は、象徴的なワン・センテンスに凝縮した「自立」への求心力だ。それは、多勢を恃(たの)み安んじることを拒否する精神である。また、本物の感動を自分の手で掴もうとする姿勢である。


 幾何学的な修飾を施され、善悪を断じ、生々しい科白がちりばめられ、色鮮やかな小道具が用意される。


 私は落ち葉だ。


 一枚の落ち葉が風に運ばれ、世一の部屋飛びこみ、オオルリを驚かせる。世一は病のために震えが止まらぬ指で、落ち葉に鋏(はさみ)を入れる。


 少年はきっと、私を鳥の姿にしたかったに違いない。しかし、全身に及ぶ絶え間ない痙攣(けいれん)のせいで、似ても似つかぬ形になってしまう。表側はカオス、裏側はコスモス、さもなければその反対、だが全体としては、やはりただの朽ちかけた葉っぱにすぎない。


 混沌(カオス)と調和(コスモス)が表裏を成すのは人の世も全く同じである。世一の無垢なる魂は人の世すら掴まえ、鋏を入れる。裏と表がどっちかわからず、風に左右され、浮いたり沈んだりを繰り返すのは、世一を見下す人間達である。世一はオオルリから、風によって飛ばされるのではなくして、自ら飛翔することを日々学ぶ。


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)

2000-08-15


 丸山は現状維持に安住する小市民の描き方が非常に巧い。向上心なき人間を辛辣な表現で串刺しにする。その激しさが戯画的な効果を生み、操り人形を見せられているような気になってしまう。


 私は靴だ。

 踵が摩滅し、とうとうつま先の部分がぱっくりと割れた、如何にも勤め人向きの靴だ。


 靴が語るのは世一の父である。


 小春日和の午後、私は私よりも数倍くたびれて風采のあがらない男と一緒にバスを下りた。


 世一の父親は、まほろ町役場に勤務している。「勤め人向きの靴」とは、機能本意で、歩く目的にのみ使用されるという含みがあるのだろう。そのなれの果ては、いつでも取り換えが可能ということになろうか。靴にまで見下される世一の父は現代社会のサラリーマンの象徴だ。


 寿命の尽きた靴を尻目に彼は「雨を弾くという新製品」を買う。クラリーノの一語で片付けないところが憎い。安物ではあるが店の看板商品を買うことによって、そこはかとなく享受された喜びが伝わってくる。


 古い靴を小脇に抱え、世一の父は上機嫌で店を出る。


 だが、そう長くはつづかなかった。男は私のほかには何ひとつ変えられない立場を悟った。悟った瞬間、鬘(かつら)をつけた彼の脳天に、婚期を逃しつつある長女と、不治の病に冒された長男と、3年後に迫った定年退職後のことがぐさりと突き刺さった。


 丸山の筆は、取るに足らない喜びを木っ端微塵に打ち砕き、何ひとつ変わらぬ現実に引きずり戻す。


 夜空の彼方に輝く星のような夢を見るのではなく、足元の家族・生活に根を下ろした考え方はいつもと変わらない。その現実を変える意欲がなければ“生きている”とは言えない。自分が今存在するその場所から変化の波を起こせなければ“いても、いなくても一緒”だろう。“かけがえのなさ”は確固たる目標に挑戦しゆく中から育まれるものだ(と書きながら、自分の青臭さに御満悦の古書店主であった)。


 苦役から解き放たれた私は袋ごと屑籠に投げこまれ、大量生産された靴としての、靴らしい一生を終えた。男の足音が遠のき、コオロギが鳴き出した。


「屑籠に投げこまれ」るような一生。死んですらも何一つ変わらぬ現実。コオロギの鳴き声は、嗤(わら)っているのだろうか。それとも、泣き悲しんでいるのだろうか。


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)

2000-08-10

ボールペン


 こんな商売をするようになり読書量がぐっと減った。それは、読み物から売り物への変遷に伴い「本」を見る目つきが変わってしまった証左なのかも知れない。時間がないのも確かだが、それ以上に「読む」という意欲が湧いて来ない昨今である。


 その点、本書は一日一ページの日記形式なので、如何に時間がなくとも区切りよく読むことが可能だ。寝しなに少しずつ読んでいる。初めて読んだ時ほどの昂奮には欠けるが「読む」に値する一書であることは論を俟(ま)たない。


 私はボールペンだ。

 書くために生きるのか、生きるために書きつづけるのか、その辺のことが未だにわかっていない小説家、そんな男に愛用されている水性のボールペンだ。


 丸山は率直に「書くスタンス」を表明している。


 彼は今、数々の物象と命ある者とが巧みに構成する山国の町、まほろ町をつぶさに観察し、また、風がそよとも吹かない日でも強風のなかの案山子(かかし)のように全身を震わせ、魂さえも震わせてしまう少年と、彼が飼うことになった野鳥を通して、自己のうちには見出せない精神の軌跡と普遍の答を捜そうともくろんでいる。


 丸山の心象風景から生み出された物語は、目に映る表面的な営為を全く別の視点から描き出し、根源に潜む善悪を暴き出す。


 まほろ町で最も巧みに構成されているのは、万人がその美しさを認めざるを得ない「オオルリ」と、誰もが目を背け、哀れんでしまう「世一」の組み合わせだろう。少年「世一」のキャラクターは秀逸である。想像力の飛翔が斯くの如き主人公を誕生させた。世一はあらゆる人の営みが持つ本質を感知し、調和の方向へ、真実の高みへと誘(いざな)う。一見、トリックスター的な要素を湛えつつ、骨太な物語の柱としてそびえ立っている。


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)

2000-08-05


 千日の物語は「風」から幕を明ける。まほろ町に吹く一陣の風が運んだドラマだったのかも知れない。


 私は風だ。


 風は自らの意志をもって一人の老人の命を奪い、一羽の鳥の命を救う。変化を象徴する「風」が生と死の一線を画し、新たな世界へと読者を誘(いざな)う。


 天に近い山々の紅葉が燃えに燃える十月の一日の土曜日、静か過ぎる黄昏(たそがれ)時のことだった。(5p)


 千の主語の冒頭を飾る「風」は、すんなり決まったに違いない。丸山はオートバイに初めて乗った瞬間に知った風の感動をエッセイに書いている。スロットルを開いてキラキラとした風の中を体験した時から、この作品に向かっていたのではないだろうか。


 風は変化の象徴である。季節の移り変わりを知らせ、塵(ちり)を払いのけ、根を張らぬものをなぎ倒し、吹き飛ばす。向かい風となって前進する者の意志を試し、追い風となって帆に力を与える。


 風──見えないが、確かに感じる。そこに生と死を絡めた手腕に敬服した。

千日の瑠璃(上) 千日の瑠璃(下)


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)


(※上が単行本、下が文庫本)


D

2000-08-01

20世紀の神話/『千日の瑠璃』丸山健二


 私はある野望を抱いていた。それは、読んだ作品よりも量の多い書評を物することだった。読者へ訴えようとして著された文字の数々が、必要不可欠なものであれば、これに応える読者の感動も同じ数の文字があってしかるべきではないか、そう考えたのだった。


 7歳で文字を読めるようになり、今日(こんにち)までに数千冊の本を読んできたが、繰り返し読むに値する本の何と少ないことよ──。過ぎ去った30年間を振り返り、そう思わざるを得ない。


 そんな読書歴の中で、一昨年、本書と出会った。十数冊の本を併読するのが常であるこの私が、他の本を手にすることが不可能となった。一ページごとに変わる主語。千の視点から紡ぎ出される物語。まほろ町という架空の土地は、さながら小宇宙と化し、主人公である世一少年を中心に魂の劇が展開する。


 本と巡り会ってから丁度30年──。長年の野望を果たす時が来たようだ。


 物語は10月1日から始まった。千日間の冒頭を飾る主語は「風」だった──。詩情豊かな光景の中で、人間が抱く価値観とは全く相反する世界が展開される。


 風が運んで来たドラマに私は圧倒された。感銘などという生易しいものではない。度肝を抜かれたと言った方が正確だ。多読を得意とするこの私が他の書物を手にすることができなくなってしまったことを鮮明に覚えている。しかし、誰にでも薦められる作品ではない。その独特の個性、アクの強い表現、暴力性を伴う緊張感等々。この本を失敗作と評価する向きもある。が、丸山の革新的な手法は、文学の新たな嶺に到達し、読者に媚びを売るそんじょそこいらの作品群を睥睨(へいげい)する。


 一ページごとに変わる主語が千日の物語を紡ぎ出す。ありとあらゆる事物・事象・性質・現象が主語となって「まほろ町」と主人公である少年「世一」を語る。語彙の持つ業(わざ)が森羅万象をつかまえ、凝視し、一ページ一ページが小宇宙の物語を構成する。


 言葉が、自由に飛び交い、舞い上がり、突き刺さり、根を張り巡らす。


 肯定と否定、善と悪、陰と陽、生と死、相反する価値がクモの巣の如く交錯し世一の宇宙を象(かたど)る。


 それぞれのページが瞬間を切り取り、永遠を俯瞰(ふかん)する。微少なドラマを描き、極大の佇まいを奏でる。


 善意は限りなき優しさを伴った美しさとなり、悪意は極まりない辛辣さを満々と湛えドス黒い光を放つ。


 人間の目以外のあらゆるものから見える世界が表出している。


 丸山は、言葉によって構築される世界の限界に挑んだ。そして、それはものの見事に1000ページの作品となって結実した。大自然との交感から編み出された物語は、飽食に驕(おご)る人間の背筋をシャンと伸ばす効果に満ち満ちている。


 圧倒的なスケール、想像を絶する展開、森羅万象が奏でる「まほろ町」という宇宙、そして、自立せる魂の持ち主・少年世一。『千日の瑠璃』は20世紀の神話だ!


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)