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2000-09-23

義手


 10月末日の月曜日を語るのは「義手」だ。


 このページは丸山の特徴がよく出ている。対照的な叙述、意表を衝く喩(たと)え、幾何学的な形容、反復によるリズム、等々――。


 私は義手だ。

 茸採りにかけては比肩する者がいないといわれている男、彼の左の腕を補う、旧式の義手だ。


「茸(きのこ)採り」の文字を目にして誰もが自由に動く腕を連想するはずだ。しかし、この後に義手と続くことによって妙なアンバランス感を抱かせられる。その落差が「旧式」という形容によって一層深まる。


 穴場と察する場所へ向かう男は尾行を恐れ、「しょっちゅう振り返って」〜「山へと入って行った」。後ろ向きになりながら前へ進む行為が、男の首の如くねじれた感覚を誘う。


 男が、「色と形が人間の脳に似ているマイタケ」を発見してかがみこんだとき、その傍らの「毒蛇」に気づく。男はどういうわけか、草刈り鎌を使わずに「義手」で攻撃を加える。「その罪もない動物はすでに最初の致命的な一撃を三角形の頭にくらって悶絶していた(同頁)」。


 茸をどっさり抱えて山を下ってゆく。

「途中、谷川へ寄り、蛇の血を浴びた私(義手)を取り外して流れに浸した」。金属製の腕に「血」ほど似つかわしくないものもあるまい。


 ここで「義手」の嘆き節――。


 私はがっかりした。もう長いこと左手の代わりを立派に果たしてきたつもりなのに、彼は私よりも鎌のほうを大切に扱ったのだ。できることなら、このまま水に流されてどこか遠くへ行ってしまいたい、そんな気分だった。


 硬質な義手の哀愁。何とも言えぬおかしみがある。水に流されたところで沈むのがせいぜいだろう。機能を重視される無機質な「義手」のしみったれたボヤキは、落差による笑いを生む。


 と、そこへ世一が登場する。難病に冒されながらも自立した魂を持つ少年は、様々な形容を施される。このページではこうだ。


 全身の揺れが片時もとまらない奇妙な少年。


 世一は他人の眼に映るありとあらゆる外見で描写される。それがそのまま、皮相的なものの見方しかできない人間たちへの辛辣(しんらつ)な批判となっている。「全身の揺れが片時もとまらない」世一は微動だにしない精神を生きていた。


 だが、ちょうどそこへ通りかかった少年の私(義手)に対する扱いは申し分なかった。


 世一は川砂をこすりつけて義手を念入りに洗い、自分のシャツで水気を拭き取り、


 日当たりのいい岩の上にそっと置いて、そっと立ち去った。


 義手の誇りと尊厳をすくいとるような世一の仕草。あるべきものの、あるべき姿を直ちに悟り、そのまま行動に移す。恩着せがましい態度は全く見えない。世一にとってはそうした行為が当たり前のことであり、自然な振る舞いであるのだ。


 世一の生は、まほろ町という小宇宙のリズムと合致し、完全なる調和を象徴する。


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)

2000-09-20

入力地獄、それとも天国?


 夏の陽射しがまだ強く残っていた8月の下旬に引っ越しをした。


 数日間に亘って嫌がる友人・後輩を無理矢理手伝わせ、挙句の果てには、その中の一人に金を出させて皆にビールを振る舞った。心地好い汗を流していたのは私ひとり。他の連中はくたびれきった奴隷のような顔つきでウンザリしていた。私はそんなことなど全く意に介することなく「俺達の友情に乾杯!」とドラ声を上げた。


 バタバタと引っ越しが決まったせいもあって、何も考えずに本の箱詰めを行ってしまった。サイドビジネス並みの稼ぎしかないと、こうゆう羽目に陥る。ま、本当のことを言えば、サイドビジネスどころか、アルバイト以下の収入しかない。内職と言った方が適切か――。確かに稼ぎは内職程度だが、飽く迄も本業の心算(つもり)である。


 新居に落ち着き、本を睨(にら)みながら私は迷った。頭の片隅に引っ掛かっていたのは「目録の消し忘れ」であった。引っ越す直前にその一件が発覚したのだった。注文が入った瞬間、ありありと発送した記憶が蘇ってきた。お詫びメールを直ちに出したものの、詫びて済む程度の問題ではない。店主としてのプライドに傷がついた。それもかなり深いヤツだ。


「オウッシッ!」誰もいない段ボールだらけの部屋で叫ぶと、本を一冊ずつ取り出して入力を始めた。棚卸しを兼ねて最初からやり直すのだ。そのために大枚はたいて『FileMaker Pro』まで用意した。


 入力の鬼と化した私の面相は星一徹さながらであった。若しくは『柔道一直線』の車先生と言い換えてもよい。来る日も来る日も、雨が降ろうが槍が降ろうが入力は止まらない。マシンと化した私はオズマのようであった。願わくは花形満のような育ちでありたかった。更に、明子姉ちゃんのような嫁さんがいりゃあ、申し分ないんだがなあ。


 オンライン古書店の入力作業はやった人しかわからぬ苦痛と面倒臭さと悲哀がある。一々、本を開いては発行年や刷数を調べ、出来るだけ客観的に本の状態を盛り込んでゆくのだ。古本って言うぐらいだから古くて当たり前なのだが、そうは問屋が卸さない。リサイクル・ブックに馴染んでいれば、研磨されたピカピカの本が古本と思っている方も多いに違いない。開高健などは、手垢にまみれた古本をこよなく愛し「鼻くそなんかが付いていると、もっと嬉しい」なんて書いていた。鼻くそは歓迎しないが、ページの間を這うダニなぞを見ると妙な愛着が湧いて来る。名前を付けようとしたことも一度や二度ではない。


 余談が過ぎた――。


 まあそういうわけで、判定に迷うと結構、時間が掛かってしまうのだ。パラリと開いた箇所に読み入ったりすることもしばしばである。「ああ、イカン、イカン」などと頭を叩き再びキーを打つ。そして「値付け」。ここで古書店主の欲望と良心が渦を巻いて拮抗(きっこう)する。「エエーイ、拙者も食わねばならないのだ。許されよーーーっ!」と値段を吊り上げたり、「♪勉強しま〜っせ、引っ越しのサカイ〜♪」などと歌いながら安くしてみたり……。そうは言っても殆どが1000円以下なんだけどね。だが、100円、200円の違いと侮るなかれ。そこには景気の動向を洞察し、金融機関の低金利を踏まえ、更には、病気の親を養い、弟妹の学費を稼ぐ若者までをも睨(にら)み据える眼(まなこ)が要求されるのだ。そして、店主の善良な心や、悪逆極まりない性質までもが露呈する。


 ってなわけでとにかく面倒なのだ。面倒ではあるのだが、一冊の目録に古書店の一切が現れてしまうのでゆるがせにはできない。そんなこんなを経て入力を終えた途端、今度は「果たして売れるのだろうか?」「売れるに決まってらあ!」と店主の心は揺れに揺れる。


 そうは言うものの、注文があればあったで、我が子を身売りするような何とも言いようのない寂しさがあるのも確かだ。


 嗜好というのは、チョイトはまり出すと「狂」の字が後から追っ掛けてくるようになる。私は本来、読書が好きだっただけなのだ。それがいつしか本を買うことが趣味となり、売ることを生業(なりわい)とするようになり、今では入力し、値付けをすることに至福を感じるようにまでなってしまった。


 入力は地獄でもあり、天国でもある。


 雨に洗われたアスファルトの上を乾燥した風が舞う季節となった。だが、私に「読書の秋」は来ない。