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2001-01-29

便所に咲いた美しい花/『詩の中にめざめる日本』真壁仁編


【※「公衆便所のウンコをプロファイリングする」を参照してから読まれよ】


 あの〜、誤解されぬよう願います。痔瘻(ぢろう)の方の肛門ネタではござんせん。


 便所という狭い空間に様々なドラマがある。「んなモンあるわけねえだろ!」と反論されれば、私は敢えて異を唱えるつもりはない。「じゃあ、最初っから馬鹿なことを言うんじゃねえーよ!」と重ねて言われれば、素直に謝罪する準備はできている。


 今日、偶然手にした本に一遍の詩が載っていた。国鉄(当時)職員が書いた作品だそうな。心を打たれたね。参った。降参です。こんな心栄(ば)えの好い職員がいながら、どうして国鉄は駄目になっちまったのかね〜?


 私は、江戸川区内の、とある公園の便所にウンコをぶちまけた犯人に対して、この詩をピストルのように突き付けたい。更に、通常の方の倍ほどもトイレの世話になっている頻尿野郎の私自身に対しても、匕首(あいくち)のように突き付けたい。


「便所掃除」浜口国雄


 扉をあけます。

 頭のしんまでくさくなります。

 まともに見ることが出来ません。

 神経までしびれる悲しいよごしかたです。

 澄んだ夜明けの空気もくさくします。

 掃除がいっぺんにいやになります。

 むかつくようなババ糞がかけてあります。


 どうして落着いてくれないのでしょう。

 けつの穴でも曲がっているのでしょう。

 それともよっぽどあわてたのでしょう。

 おこったところで美しくなりません。

 美しくするのが僕らの務めです。

 美しい世の中もこんな所から出発するのでしょう。


 くちびるを噛みしめ、戸のさんに足をかけます。

 静かに水を流します。

 ババ糞に、おそるおそる箒(ほうき)をあてます。

 ポトン、ポトン、便壷(べんつぼ)に落ちます。

 ガス弾が、鼻の頭で破裂したほど、苦しい空気が発散します。

 心臓、爪の先までくさくします。

 落とすたびに糞がはね上って弱ります。


 かわいた糞はなかなかとれません。

 たわしに砂をつけます。手を突き入れて磨きます。

 汚水が顔にかかります。

 くちびるにもつきます。

 そんなことにかまっていられません。

 ゴリゴリ美しくするのが目的です。

 その手でエロ文、ぬりつけた糞も落します。

 大きな性器も落します。


 朝風が壷から顔をなぜ上げます。

 心も糞になれて来ます。

 水を流します。

 心に、しみた臭みを流すほど、流します。

 雑巾(ぞうきん)でふきます。

 キンカクシのウラまで丁寧にふきます。

 社会悪をふきとる思いで、力いっぱいふきます。


 もう一度水をかけます。

 雑巾で仕上げをいたします。

 クレゾール液をまきます。

 白い乳液から新鮮な一瞬が流れます。

 静かな、うれしい気持ですわってみます。

 朝の光が便器に反射します。

 クレゾール液が、糞壷の中から、七色の光で照らします。


 便所を美しくする娘は、

 美しい子供を生む、といった母を思い出します。

 僕は男です。

 美しい妻に会えるかもしれません。


【『詩の中にめざめる日本』真壁仁編(岩波新書)/※私が参照したのは『君の可能性 なぜ学校に行くのか斎藤喜博(ちくま少年図書)】


 ウンコぶちまけ犯人と、この方が同じ人間であるということが、なかなか信じられない。人間の下劣と崇高のはざまに無限が横たわっている。便所という極小の空間にも天国と地獄が存在する。 作者が磨いた便器以上に、この詩を読んだ人の心が洗われることは、まず間違いだろう。

2001-01-27

「わしら奴隷は、天国じゃ自由になれるんでやすか?」/『奴隷とは』ジュリアス・レスター

 外国ではユーモアが重んじられる。「あなたはユーモアに欠ける」と言われるのは、我々日本人の想像をはるかに上回る侮辱になるらしい。また、ナチスから迫害されたユダヤ人の多くは亡くなったが、生き延びた人々はユーモアを欠かさなかったという。自分が置かれた状況を突き放して客観的に捉え、笑い飛ばす精神力が尊重されるのだろうか。


 宗教はまた、死んでから後に報いを受けとるという考えを、奴隷たちに与えた。これは、奴隷たちの精神に訴えかけるものがあったが、しかし必ずしもかれらは、約束の天国への道が、主人への従順をとおしてであると信じはしなかった。そして、ときに奴隷たちは、死後のその生活の性質とか、その約束する天国とかを、疑問に思うのだった。


 サイラスじいさんは、ほとんど100歳にちかい年だった、と思いますよ。──もうどんな仕事もできないほど弱ってましたが、それでも、奴隷たちの礼拝が行われるときには、びっこを引きながらでも教会へやってくるだけの気力は、いつもありましたよ。説教師は、ジョンソン師でした、──かれの名前のあとの方は忘れてしまいましたがね。かれは説教をやってました、そして、奴隷たちは坐って、眠ってたり、樫の木の枝を扇子にして使ってましたよ。で、サイラスじいさんは、奴隷たちの座席の前列のところで立ち上がると、ジョンソン師の説教をさえぎったんですよ。「わしら奴隷は、天国じゃ自由になれるんでやすか?」と、サイラスじいさんは尋ねたんですよ。説教師は話を止めて、サイラスじいさんを見ました。まるで、じいさんを殺してしまいたいみたいでしたよ。何しろ、じぶんが説教をているときに『アーメン』というなら別だが、口をはさむものがいようなんてことは考えられないことだったんですからね。その説教師は、ちょっと待って、その場に立ってるサイラスじいさんをじっと見つめてましたが、何にも答えなかった。「神さまは、天国に行ったとき、わしら奴隷を自由になされるんでやすかね?」大きな声でサイラスじいさんは尋ねました。白人のその説教師は、ハンカチを取り出すと、顔の汗をふきました。「イエスさまは言っておられる、汝ら、罪なきものたち、われに来れよ、さらば、汝らに救いを与えん、とね」。「救いと一緒に、わしらは自由を与えられるんでやすか?」と、サイラスじいさんは尋(き)きました。「主は、与え給い、主は奪い給うのだ。罪のないものは、永遠の生命(いのち)を得ることになろう」。そう言うと、説教師は、サイラスじいさんにはまるでもう注意をはらわないで、どんどんと説教を進めていったんですよ。だが、サイラスじいさんは坐ろうとはしなかった。その礼拝式の終わるまで、ずうっとその場に立ったままでいたんです。で、それっきり、教会へは来なくなりましたよ。つぎの、説教のある礼拝の機会がやってこないうちに、サイラスじいさんは死にましたよ。じいさん、じぶんが当てにしていたよりも早く、自由になれるのかどうかってことが、わかったとおもいますよ。

(ベヴァリ・ジョーンズ『ヴァージニアの黒人』109ページ)


【『奴隷とは』ジュリアス・レスター/木島始、黄寅秀〈ファンインスウ〉訳(岩波新書、1970年)】


 人間を鋳型(いがた)にはめ込んで、その精神にまで変形を強いる制度は必ず破綻をきたす。特徴は専ら自由な発言を絶対に許さないところにある。果たして、西洋の神様はどちらの味方をしたのだろう。汝自身の試練なり、などとお茶を濁してるようでは余りにも冷たい。


 この語り手には落語みたいな躍動したリズム感がある。「サイラスじいさんは死にましたよ」と吐き捨てるように言い放ったのは、奴隷制度への怒りからであろう。地獄はあの世ではなく現実の目前にあった。


 この(奴隷解放の)知らせを苦にして、奥さんと旦那は、とうとう1週間ものあいだ、食べものが咽喉(のど)を通らんてことになっちまいましたよ。父の話だと、奥さんと旦那は、まるで胃袋とはらわらが訴訟をおこし、へそが証人として呼びだされたみたいだったそうです。それほど、わたしたちが自由になったことを、かれらは口惜しがってたのです。


 何遍、読んでも笑わせられる箇所だ。笑い飛ばすことによって彼等は、暗雲のはるか彼方まで上昇した。まるでアフリカの大地を照らす太陽のように――。

奴隷とは

2001-01-25

『幻の特装本』ジョン・ダニング


 圧倒的な人気を博した『死の蔵書』(早川文庫)の続編である。


 読み終えて私は唸った。「ウ〜ン……」。それから「マンダム」と付け加えるべきか否か迷った。前作と比較するとスピード感に欠けるのだ。だが、作者を責めるわけにもゆくまい。出来は悪くないのだが、見劣りするというのが本音だ。著者自身がシリーズ化の落とし穴を一番よく知っていると見える。後書きによれば、年1冊のシリーズ化を要望してきた出版社に対し、ダニングは「主人公や背景が同じ小説を1年に1冊書いていれば、マンネリになるに決まっている」と断ったそうだ。


 稀覯(きこう)本を奪って逃走した女を捜索している内に次々と殺人が行われる。莫大な資産価値を持つ特装本は、限定版専門の出版社が作ったものだった。存在するはずのない、エドガー・アラン・ポー作『大鴉』は存在するのか? ジェーンウェイが動き出すや否や、過去の忌まわしい事件が明るみに出る。これが大筋。


 出だしは快調である。ジェーンウェイとスレイターのやりとりは小気味好いテンポで奏でられる。逃走したエリノアも魅力的だ。他人に理解してもらえない鬱屈を抱えている様が上手く描かれている。ラストの大立ち回りもサーヴィス満点といってよかろう。


 物語のスピードを減じたのは、稀覯本の説明がやや冗長となっているせいだろう。しかしながら、殺人事件のための動機に説得力を持たせるためには止むを得ないところか。「ふ〜む、こういう世界もあるのだな」とは思うものの、やや本末転倒の気配あり。


“書痴”とでも名づける他ない人々が、数冊しか存在しない本を入手するために手練手管を尽くして獲得を興じる。人間の純粋な欲望が狂気によって支えられている様がよくわかる。欲しい物しか眼中になくなり、身を焼き尽くすような衝動が殺人にまで発展する。“欲しい”と“殺す”は背中合わせだ。


 独立したストーリーなので、前作を未読の方はこちらから読まれることをお薦めする。


幻の特装本

2001-01-24

公衆便所のウンコをプロファイリングする


 それは衝撃的な現場だった。目撃者はこの私だ。昨年の暮れに遭遇した何とも不可解な光景だった。


 私は幼少の頃からオシッコが近い。医学的には頻尿と言うらしい。頻(しき)りにオシッコ、頻繁にオシッコ、ってな意味でしょうな。頻尿の上に貧尿という噂まである。それはともかくとして――。


「ウウ、さぶ〜」と震えながら私はやっとトイレを探し当てた。江戸川区のとある公園内に設置されたトイレである。「ひゃあ〜」とか「オシッ」とか独り言を言いながらドアを開けた。「オウ、ゴッド!」。トイレ内の足元にはウンコが垂れ流されていた。恐る恐る足を踏み入れ、なるべく見ないよう務めながら、そぉーっとファスナーを下ろし、用を足す。「勘弁してくれよな〜。俺様が一体何をしたってえんだよ〜?」とぼやきつつも、オシッコが出る量に正比例する安堵感を隠すことができなかった。当然ではあるが、かくの如き状況下においては鼻で息をすることは許されない。


 一歩外へ出るなり、私は冷静な眼で現場を検証した。和式の便器なので、ドアを開けた直ぐ前は一段低くなっている。便器はドアと直角に位置しており左側にあった。証拠物件は前方の壁にも付着していた。つまり容疑者はドアから入り(←当たり前だろが!)、左向きに旋回し、便器の位置を、時計の針の12時部分とすれば、4時か5時あたりにケツを向けたと想定される。角には排水溝の穴があった。私はパイプをくゆらせる恰好をし、伸ばせばそこに存在したであろうヒゲを撫でてみせた。足りないのは安楽椅子とパイプのみ。アッ、と気がついた時には既に鼻で息をしてしまっていた。「オエ〜ッ!」。


 その時、頭の中の電球にパッと明かりが灯(とも)った。瞬時に人差し指を立ててみせる。「ホシ(犯人)は女だ!」。『太陽に吠えろ』のテーマ・ミュージックが鳴り響く。振り返って見たが“山さん”も“殿下”もいるはずがなかった。私は現場を離れた。見るべき物は見たし、嗅がなくてもいいものまで嗅いでしまったのだ。後は、灰色の脳細胞が事件を解決に導いてくれることだろう。


 壁に付着した証拠物件が、犯人は女性であることを示していた。犯行は立ったままの姿勢で行われたはずだ。つまり、スカートをたくし上げて、ぶちまけたのである。スラックスであれば、返り血ならぬ、返りウンコを浴びることになりかねない。容疑者が男性だったと仮定しよう。便意を催した彼の脳裏には幼い日の忌まわしい思い出が蘇ったはずだ。遠足の道すがら、ウンコを踏んづけてしまっただけで周りから口を利いてもらえなくなった◯◯ちゃんの悲し過ぎる思い出が。そう、ウンコには限りない負のパワーが秘められているのだ。ましてや彼に年頃の娘がいたとしよう。翌日からは「糞オヤジ」から「文字通りの糞オヤジ」になってしまうのだ。そんなことが出来ようはずがない。つまり、だ。第一容疑者はスカートを着用した女性なのだ。


 灰色の脳細胞は目まぐるしく回転する。そして犯人は美人であったに相違ない。世間で美人と言われる女性の多くは、美人を演じる羽目に陥る。本当は、目鼻立ちが少々整った馬鹿な女もいるはずなのだ。しかし、そういう女に限って、人々の視線を猛烈に意識し、女性ファッション誌のモデル張りのポーズを気取ってみせたりするものだ。そこにストレスが生じる。常に仮面をかぶっていなければならない自分にウンザリし、やや疲れが見え始めた30歳前後の女性の犯行と見た。彼女は、好きでもない流行に右往左往し、そのための出費も嵩(かさ)んだことだろう。真面目に働く親を常々、小馬鹿にし、友達との会話はもっぱら彼氏が持つクルマや地位、輝かしい将来性などといったことに終始したであろう。そんなこんなに嫌気が差し、アルコールがそれを増幅し、生来の便秘気味の体質が追い風となった。その瞬間、彼女は公園のトイレのドアの前に立っていたのだ。


「私は美人でも何でもないのよ! こんなことだって出来るんだから!」。下腹部にほんの少しの力を入れただけで、彼女の心にも似た汚物が溢れ出る。カタルシスに包まれた彼女は「ケッ、ざまあみやがれ」と罵り声を漏らす。自らが下らない生き方を選んだにもかかわらず、彼女はあたかも犠牲者であるかのように錯覚し、恥の上塗りならぬ、糞の上塗りをしてしまった。


 そして、家路へと急ぐ影はマリリン・モンローそっくりの歩き方をしていたはずだ。


 というわけで、ホシ(犯人)は江戸川区内在住の30歳前後の美人女性である。お心当たりがある方は、当局、または雪山堂まで一報されたし。


 掃除する身にもなれっつーんだよ、コラ!


【※「便所に咲いた美しい花」に続く】

2001-01-23

紋章


 権威は人を服従させる力を持つ。名誉、地位からブランド・マークに至るまでが何らかの力を持っている。人を欺くにはこうした力を利用するのが手っ取り早い。詐欺師なんぞは名刺を麗々しい肩書きで飾り、りゅうとした身なりで登場するに違いない。ブランド・マークを悪用した粗悪品が出回っていることも、しばしばニュースで耳にする。“お上”に盲従し、氏素性を重んじるような思考回路をした人間は恰好の餌食となるだろう。


 私は紋章だ。


 ヤクザがまほろ町に進出し、建てられたばかりの3階建ての黒いビル。それを飾る紋章である。


「死んでもともとだという覚悟のほどをまほろ町の全員に知らしめるために」掲げられた紋章。


 そして“紋章”の自己紹介。


 私は正面切って世間に逆らい、真っ向から法律に盾つく証しであり、無難な日常を拒否し、常識や良識から掛け離れた姿勢を殊更見せつける者である。そして、私のもとへ集まる男たちに、何よりもまずあこぎな策動家であることを促し、人間の所為とは到底思えないようなことの実行を命じ、仕損じることを絶対に許さず、敵対する一派の狡獪(こうかい)な相手の顔を常に熟視していなくてはならないと警告する。


 更にこの後の段にまで続く。ここで語られているのは現実ではなく、暴力団に抱いている世間のイメージである。ヤクザだって人間だから色々な手合いがいるに決まっている。根性の無いのもいれば、誠実なのだっているはずだ。だが、一般人からすれば、ここで綴られている印象を強くするだろう。


 如何にもといった常套句の使用によって、何の取り柄もない田舎町だった“まほろ町”に変化が訪れようとしている。


 紋章は声高らかに宣言する。


 私は荒っぽいもめ事の解決に明断をくだし、迷っている極道者には、必要悪の上に成り立つ、堂々たる現実であることを強調する。つまり、光に対する影、上水に対する下水であるという確然とした見解を示す。


 頼るべきは暴力のみという世界でありながら、しきたりや上下関係にうるさいところは、ダブルスタンダードの典型だ。彼等は社会に対してはぞんざいな態度を死守しつつ、組織に対しては忠誠を誓うサラリーマンそのものだ。


 ギラギラと光る紋章を目にした時、まほろ町の人々は理由もなく不安に駆られ、暗澹(あんたん)たる気持ちを抱いたことだろう。


 私が跳ね返す陽光を更に跳ね返すことができるのは、今のところ、難病に取り憑かれた者の真骨頂を発揮する少年ただひとりだ。


 世一は何者にも跪(ひざまず)かない。頭(こうべ)を下げない。自分自身に生きる者のみが持つ、自立という軸は揺るぎもしない。


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)

2001-01-22

交差点で見た礼節


 昨年の暮れのことだ。蔵前橋通りの信号が赤に変わり停止線の前でバイクを停めた。私の横に大型トラックが勢いよく突進してきた。低く、くぐもったブレーキ音を撒き散らし、前へつんのめるようにして停車した。その時である。横断歩道を渡りかけていた老婦人が立ち止まってトラックの運転席を見上げた。そして、右手を「どうぞ、お先に」と言わんばかりに差し出したのだ。周囲に居合わせた人々は意に介する素振りも見せず、そそくさと老婦人を追い越していった。しばしキョトンとしたご婦人は静かに歩みを進めた。「あなたが行かないのなら、私が先に失礼しますよ」とでも言うように――。


 普通であれば「信号が変わったの見てんのかよー、ボケ! 無駄な二酸化炭素を撒き散らしやがって! 慎太郎に言いつけて都内に入れなくしてやろうか? それとも、トラックから引き摺り下ろして、ハンドルを握れない身体にしてやろうか、コラぁ!」となるはずだ。


 婦人は只単に惚けていただけなのかも知れない。だが、痴呆症状が現れても尚、人を思いやる所作が出てくるためには、それ相応の歳月を必要としたはずだ。


 美しさとは、繕(つくろ)うものではなく、虚飾を剥ぎ取った後に残されるわずかな量の“生き方”なのかも知れない。


 慌ててブレーキ・ペダルを踏んだ運転手は、赤面する程度の良心を持ち合わせていたかどうか――。

2001-01-18

奴隷根性を支える“無気力”〜ドストエフスキー『死の家の記録』より


 実際、わが国にはいたるところに、その境遇や条件のいかんを問わず、常にある不思議な人々、温順で、間々ひどく勤勉だが、永久に貧しい下積みから浮かび上がれないように運命によって定められている人々がいるものだ。これからもおそらくあとを絶たないだろう。彼らはいつも素寒貧で、いつもきたない格好をして、いつも何かにうちのめされたようないじけた様子をして、年じゅうだれかにこきつかわれて、洗濯や使い走りなどをやらされている。およそ自分で何かを考えて、自分で何かをはじめるなどということは、彼らにとっては苦労であり、重荷なのである。彼らはどうやら、自分からは何もはじめないで、ただ他人につかえ、他人の意思で暮らし、他人の笛でおどることを条件として、この世に生まれてきたらしい。彼らの使命は、他人から言われたことをすることである。それに、どんな事情も、どんな改革も、彼らを富ませることはできない。彼らはいつの世も貧しい下積みである。わたしの観察では、こういう人間は民衆の中だけではなく、あらゆる社会、階層、党派、新聞雑誌社、会社などにもいるものである。


【『死の家の記録』ドストエフスキー(新潮文庫)】


 ドストエフスキーは囚人達の姿をこのように表した。無気力な奴隷根性を見事なまでに喝破している。唯々諾々(いいだくだく)と人の指示に従っている内に、自分が求めていること、望んでいること、やりたいことを見失った姿に他ならない。その心を覆っているのは不平不満の毒ガスだ。そして足音も立てずに無気力がやって来る。


 V・E・フランクルは『夜と霧』(みすず書房)の中で、アウシュヴィッツを初めとする強制収容所において、無気力は文字通りの“死”を意味したと記している。


 私が中学ぐらいの頃であったろうか“三無主義”という言葉が巷間を賑わした。今時の子供(1980年前後)は、無気力、無関心、無責任だ、という内容。言われた側としては、自分達よりも前の世代と比較してそのように言われているのだから、甘んじて受け入れるしかなかったなあ。昨今の“17歳”のハシリと考えてもらえば宜しいだろう。


 無気力は“生きながらの死”だ。生の象徴である赤ん坊を見よ。一時(いっとき)もじっとしていることがない。人間ってえのは生まれた時が一番、元気なのかも知れんなあ。


 私が出す得意なクイズに「奴隷にないモノ、なあ〜んだ?」ってのがある。一番、多い答えは“お金・財産”。ま、確かに。次は“自発・能動性”“自由”と続く。大体、普通の人はここらで行き詰まる。数少ない人達が言い当てたのは“誇り”。そして、いまだかつて誰も答えたことがないのは“責任”。


 ここに挙げたモノが欠如していれば、それは奴隷根性と言われても止む無し。現実の牢獄は何年間かすれば出ることができるが、心の牢獄はそう簡単にはいかない。


 サラリーマン諸氏よ、仕事の奴隷となってはいないか? 願わくは、仕事の鬼であられるよう望みたい。

2001-01-16

『チャンス』ロバート・B・パーカー

 シリーズ物は“サザエさん化”を免れない。これが一読後の結論だ。


『サザエさん』というのは不思議なもので、あれほど多くの番組を見たにもかかわらず、何一つ正確なストーリーを覚えていない。忘れていないのは、テーマ・ソングと提供スポンサーの社名ぐらいなものだ。キャラクターの成功はストーリーを無視させるだけの力があるという見本だろう。


 スペンサー・シリーズ第23作。秀逸なキャラクターを生んだ作家には必ずと言っていいほど悲劇がつきまとう。数作品も書けば必ずと言っていいほどファンから罵声を浴びせられるからだ。これはシリーズ物が持つ宿命に他ならない。それにもめげずに20作以上著しているのだから、スペンサーの魅力は侮れない。


 あるギャングの娘婿が突然、姿を消し、スペンサーのもとに捜索依頼が来る。娘婿が賭博癖の持ち主であったことから、スペンサーはラス・ヴェガスへ、スーザンとホークを伴って飛んだ。蓋を開けてみるとギャング同士の抗争でした、という何の面白みもないストーリー。


 では、面白くなのかと言えば、まあ満更でもないんだな〜、これが。古くからの友人に会いにゆくような感覚、とでもいう代物だ。


 タフな肉体、ウィットを効かせた会話、それらを支える男性誇示主義。ま、男性に都合のよい言い方をすれば、右手(めて)に勇気、左手(ゆんで)に知性と言ったところか。


 また、いつもながら、ちょっとした一行に「ニヤリ」とさせられる。例えば、ラス・ヴェガスに向かう機中でのこと。相棒のホークにシャンパンを注いたスチュワーデスが、愛想を振りまいて去ってゆく場合などはこうだ。


 彼女が歩み去る時、ヒップの動きになにかが加わったように思えた。


 似たような経験は私もある。だが、あれは尻がかゆかっただけなのかも知れない。


 調査の途中で、ある売春婦と同行する。以下はその際のやりとり――


「食事をするか」

 彼女が顔を上げ、私は泣いているのに気付いた。

「あるいは、したくない」

「私に礼をする必要はないわ」彼女が言った、「たんにアンソニイの住んでいるところを教えたからといって」

「判ってる。しかし、きみと一緒にいると楽しい」

「その後、なにか期待するつもり?」

「いや」

 ディクシイは前方を見つめていた。泣きながらちょっと鼻をすすった。

「ずいぶんたつわ」彼女が言った、「誰かに食事を連れて行ってもらってから」

「とにかく、試してみよう。気に入ったら、またすればいい」


 ホロリとさせられるじゃありませんか。山本周五郎藤沢周平にも決して劣っていまぜんぞ。


 齢(よわい)を重ねても変わらない何かに惹かれるのだろうか。社会という黒い海の中で、多くの人々は妥協を余儀なくされ「こんなものさ」とうそぶいてみせる大人の何と多いことか。既成のルールに則って、ある時は己の精神を無理矢理はめ込み、またある時は、相手に濁った水を飲ませるような真似をする。安定した生活を求める余り、いびつな形をした自分に気づくこともなく、他人に振り回されながら生きてるような男が掃いて捨てるほどいる。


 人生何が偉大か――若き日の理想に基づいた信念を生涯にわたり堅持し続けることだ。そんな風に襟を正す要素がこのシリーズにはまだ、ある。

チャンス

2001-01-05

店主の呟き


 本を読まなくなった。本当に読まなくなったなあ。洒落を言ってるんじゃありませんぜ。20世紀最終年は何と3冊しか読んでいない。これで不具合があるかってえと、そう大した問題はない。ま、古書店主として当然蓄えておかねばならない知識は限られてくる。ただでさえ偏った読書傾向があるのだから、これはこれで致命的な問題かも知れぬ。ちなみに一昨年は100冊、その前の年は150冊読んでいる。幾ら何でも3冊はないよなー。小学校1年生以来にして最低記録である。


 二足の鞋(わらじ)を履いているせいもあるだろうが、心に余裕がない。忙しさにかまけて大切なことを忘れている証左だろう。「忙しい」も「忘れる」も“心を亡ぼす”と書く。書物と向かい合うことは、無知なる自己と向かい合う姿勢に他ならない。齢(よわい)37にして、緩やかな堕落の坂を下りつつあるような気がしてきた。


 誰しもが何らかの原点を持っているだろう。座標軸と言い換えてもよい。それによって今ある自分の位置を知り、ある時は軌道を修正し、またある時は成長の度合いを測る。私にとってはそれが読書なのだ。とはいうもののこの体(てい)たらく。


 希望としてはたくさんの本をよみたいのだが、本物の感動を与えてくれる一書と出会えれば本望である。どれほど多くの知人・友人がいたところで、つまらぬ人間ばかりであっては疲れるばかりであろう。本に関しても全く同様だ。本物というのは、さほど数は多くない。


 さて、内の棚には本物が何冊あることやら――。

2001-01-03

『ポストマン・ブルース』サブ監督


 B級映画の傑作である。邦画を見て快哉を叫んだのは和田誠監督のデビュー作『麻雀放浪記』以来だ。新世紀の初日に再びビデオで見た。


 郵便物を仕分けする業務が映し出される。全くやる気のない表情。シュコーン、シュコーンと振り分けられる郵便物。カットが替わり、台車を引きずる音。ウンザリした記憶が蘇る。これらの映像がが徐々に短いペースで交錯する。滑り出しで奏でられるのは、日常の隣合わせに存在する狂気――。


 平凡な郵便配達人である沢木(堤真一)が、高校時代の友人である野口(堀部圭亮)にハガキを届ける。部屋へ招き入れられた沢木が目にしたのは、詰められたばかりの小指だった。ここからの、やりとりが面白い。ここで笑えぬ人は、これ以上見ない方が賢明だろう。野口はまるで充実した肉体労働に従事しているかのように、ヤクザという仕事を自慢する。


 このシーンが全体の基調だ。異質な場面で常套句を使うことによって笑いを生んでいるのだ。


 野口を張っている刑事達がここで勘違いをする。沢木が郵便配達人を装った覚醒剤の運び屋であると。この辺りも大笑い。キャストが素晴らしいのだ。如何にもチンピラ、如何にも刑事といった印象の俳優達なのだ。


 刑事達はまるで迷宮入りの事件の謎を解いたかのような勘違いに取りつかれ、沢木に対してまで張り込みをするようになる。


 自宅へ帰り、呑んでいた沢木はビールが切れたことに気づく。その時、日常に潜んでいた狂気がムクムクと頭をもたげる。沢木は郵便物を引っくり返し、現金書留の封を切る。ビールを山ほど買ってくるなり、次々と郵便物を開封し出す。その中に、末期癌を患った少女(遠山景織子)が書いた手紙に目が止まった。少女を探し出し、淡い恋に陥る二人。そして、病院で知り合った、殺し屋ジョー。ジョーはまるでサラリーマンの悩みを打ち明けるようにして、沢木に心を打ち明ける。「殺し屋もさ、仕事がなくて大変なんだよ」などと。ここに挿入される「全国殺し屋選手権」エピソードがまた面白い。『レオン』や『恋する惑星』でお馴染みの殺し屋が登場する。


「私、いつ死ぬかわからないから今が一番大切なの。だから、約束はしないの」と語る少女に、沢木は敢えて約束をする。明日、3時に病院へ迎えにゆくから、と。そうこうしている内に、沢木は“連続バラバラ殺人事件”の犯人に仕立て上げられていた。恋物語から一転、ドタバタ・ブラックコメディに再び戻る。ここからの見せ所は自転車の力走。デビュー作『弾丸ランナー』で走りっ放しの映像を撮っていたサブ監督の腕が随分と鳴ったことだろう。


 沢木は少女との約束を守るため、ひた走る。そして、刑事を射殺したジョーも、幼馴染みの魚屋の自転車にまたがって走り出す。更に、沢木の全国指名手配を知った野口も、クリーニング屋の自転車を拝借して走り出す。


 ラストに向かって3人が肩を並べて走る姿は痛快だ。そして圧巻のラストシーン。余韻に浸(ひた)る間もなくエンドロールが躍る。その劇的な不条理はクエンティン・タランティーノを凌駕したと言っていいほどだ。


 結末がファンタジーっぽくて好みが分かれるところだろう。しかし、私は「約束を守った」という一点で密かな感動を抑えられなかった。

ポストマン・ブルース


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