古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2001-03-24


 小説のリアリティを支えているものは何か。まず、視点が浮ついてないことだ。人の目の高さなどはそう簡単に変わるものではない。地にしっかりと足を踏み下ろしているかどうか。物語の構成上、都合のよいことを書いてしまっては、読者の興醒めに手を貸しているようなものだ。如何にもありそうなことを記すには、現実生活から確かな眼で事実の底辺を見つめる姿勢が必要だろう。


 喜怒哀楽を巧みに捉える機微は、人間への興味なくして描き出せるものではあるまい。丸山は辛辣な表現が多いが、それは決して人間を否定する姿勢ではなく、ある種の理想を描くための方便と取れないこともない。悪を描かずして、善を書き表わすことはできないからだ。


 私は橋だ。


 まほろ町に架かる橋は正式な名称があるにもかかわらず、住民からは「かえらず橋」と呼ばれている。


 渡り初(ぞ)めの日、病中を押して出席した町長は、私を通って押し寄せる計り知れない利益についてぶちあげ、軍隊時代のことしか思い出せない名物老人は、「これならどんなにでっかい戦車でも通れるぞ」と百回も言った。


 12年前に橋が造られた日の出来事である。この老人の科白は笑える。ある人は舅になぞらえ、またある人は年老いた上司とダブらせることだろう。老人の回顧主義をわずかな科白で端的に象徴している。


 橋が渡されても、まほろ町に変化は訪れなかった。


 私の上を運ばれてくる利益や文化は、私の下をくぐり抜けるあやまち川の水と同様、ただ通り過ぎて行くばかりだ。


 町長が取り巻きを率いて橋を訪れる。町の活性化のためには橋を立派にしなくては、とのたまわる。


 すると収入役は「どこにそんな金があるんだよ」と呟き、助役は「前の町長とそっくり同じ発想だ」と小声で言った。


 これは全く予想通りの展開といえる。だが、丸山はこの後ガラリと変化を与える。


 いつまでもうだつの上がらない職員がくすくすと忍び笑いをし、吹き上げてくる強い風に鬘(かつら)を飛ばされないよう注意しながら、岩だらけの川底をおずおずと覗きこんだ。「死ぬにはこれで充分だな」という彼の独り言が私を震えあがらせた。


全くもって橋ひとつ取ってみても様々な使い方があるものだ。安易な希望的観測の直後で、絶望の後始末をさせようという対比が鮮やか。


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)

2001-03-22

目撃された人々 1


 とあるデパートで昼食をとっている時だった。


 一つ置いたテーブルの向こうに男二人が腰を下ろした。友人同士ではなさそうだ。年上の方が下手に出ているところを見ると、多分、仕事関係だろう。敬語を使われている方は40歳前後だろうか。少し長めの髪、白い肌におっとりした目鼻立ちの、どこかお坊っちゃん然とした男だった。ウェイトレスがメニューと水、そしてオシボリを手渡す。二人は談笑しながら、オシボリを手にした。坊っちゃん顔が入念に手を拭く。掌(てのひら)をこすった後で、一本一本の指を丹念に拭う。会話は途切れることなく続けられた。彼は相手の顔を真っ直ぐに見つめながらも、オシボリを使用する手の動きを止めない。実にちぐはぐな態度だった。低くはないが落ち着いた声、自然な微笑、そして、手の動きは器用で滑らかだった。緊張の現れではあるまい。ただの綺麗好きなのか。それとも心の内の二面性が表出したのか。あるいは幼児が指をしゃぶる行為に似たものなのか。私は困惑した。


 汚れた強化ガラスの窓の向こうで、ビルに切り取られた青い空がひっそりと見えた。彼は薄汚い自分の心を拭っていたのかも知れない。再び目をやると同じ光景が続いていた。ナチス式の敬礼は、潔癖症の高官が握手を嫌う余り考案されたという。


 彼等の食事が届くまで私は目が離せなかった。よくもまあ巧みに動く手だ。私が席を立ち、彼等の傍らを通り過ぎた。きちんと折り畳まれた白いオシボリが不潔この上ないものに見えて仕方がなかった。


2001-03-20

朝日新聞の欺瞞


 3月19日付の朝日新聞朝刊に「日韓W盃に向けて 第3部」と題した連載記事。紙面の半分以上を使って書かれているのは松田優作


 今は亡き人気俳優を取り上げ、問題意識を高めるのが狙いのようだが、その内容は、彼に朝鮮人の血が半分流れていたということのみ。個人的な心の傷を確認しているだけの記事に過ぎない。彼のファンであれば感情に任せて涙ながらに読むかも知れない。だが、そうでない常識豊か(且つハンサム)な私のような人間が読むと、他人の傷を見世物のように暴き立てているようにしか読めない。


 傷の原因に迫るわけでもなく、傷を癒そうというわけでもない。ただひたすら傷口をこれみよがしにさらしているだけ。ほら、ほら、こんなにひどいんだから! ってな感じ。


 扇動的な記事に嫌悪感を覚える。朝日が得意なこうした手法は極めて旧ソ連的に見えて仕様がない。


 私は朝日新聞が嫌いだ。しかし、あと5ヶ月もとらねばならない。嗚呼!


 ご意見のある方は小野宛てにメールを下され。

2001-03-19

『テロリストのパラソル』藤原伊織


 再読。ご存じ、直木賞と乱歩賞をダブルで受賞した作品。社会からドロップ・アウトしたアル中の主人公・菊池と少女の出会いから物語が始まる。少女が年齢の割りには、やけにませているきらいはあるものの、一気に引き込まれる。別れた直後に起こる爆発テロ。秋晴れの公園は一瞬にして惨状と化す。その夜、菊池がカウンター・バーの店じまいをしようと外へ出るや否や、暴漢に襲われる。袋叩きにされた挙げ句、意味不明な警告を受ける。翌日、爆弾テロの犠牲者の中に、学生時代、一緒に暮らしていた女性がいた事実を知る。20年前。学生運動の記憶。点と点がつながり、線と線が連なる。引き摺り出される過去。世間から隠れるように生きてきた男が再び戦闘を開始する。


 とまあ藤原伊織の基本的なパターンがデビュー作で既に確立されている。ラストに至っては登場人物全員がつながって、過去の亡霊オール・キャストといった感あり。サービス満点、あっと驚くドンデン返しも付いて、この値段! てんこ盛りの内容は天丼と焼肉定食、更に併せてハンバーグともんじゃ焼きを食べたような脂っこさがある。ちょっとやり過ぎ。


 などとケチをつけてはみるものの、この作品が面白いことに変わりはない。私の場合、この手のミステリを評価する基準は、主人公のこだわりを物語の中で巧みに描き出すことができているかどうかにある。この点が藤原は抜きん出ている。


 爆弾テロがあったその日の夜、菊池がバーテンダーを務める店にやくざ者二人が訪れる。若いチンピラ風のがメニューを求める。菊池はホットドッグしかない旨を告げる。怒声を上げ渋々、やくざがホットドッグを注文する。


 青いスーツがホットドッグをひと口かじり、無邪気な声をあげた。「へえ。うまいですね、これ」「ああ」白いスーツがうなずいた。その目からふっと氷が溶け去ったようにみえた。私の思いちがいかもしれない。「おれの口にゃあわねえが。そうだな、たしかにこりゃよくできている」白いスーツはそういった。

「それはどうも」

「かんたんなものほど、むずかしいんだ。このホットドッグは、たしかによくできている」白いスーツがくりかえした。


 何気ないやりとりだが妙に巧い。売り出し中のやくざ者は確かに見る目があった。この後で、こういう会話もある。


「最初見たとき、あんたはケチなアル中かと思った。けど、そうでもないかもしれんってことさ。おれたちの商売わかるか」

「デパートにお勤めですか」

 彼はかすかに笑った。はじめてみせた笑いだった。


 こうした機知が、物怖じしていない菊池を雄弁に物語っている。後々この二人は共闘するようになる。人間の出会いを劇的に捉える手並みが見事。


 公園で出会った少女の安否を気遣う様も泣かせる。


 友情のために全てを犠牲にした男が、その友情によって裏切られる。人と人との関係は崇高でもあり、愚かでもあった。人生の歯車が軋(きし)みをあげて狂い出し、一人の男に襲いかかる。全てが終わった後で、信義を貫いた男に悔恨はなかった。


テロリストのパラソル

2001-03-13

クルクル回るパラソルに思う


 3月8日付朝日新聞一面にカラフルな傘の写真が掲載されていた。「緊張の一投 目くらまし」との見出し。副題は「パスケ応援、米国風」。


 つまりだ。これはバスケットの試合で、フリースローをする選手の集中力を妨げる目的で、応援席にいる大勢の連中が渦巻き模様の入った傘をグルグルと回している光景だったのだ。


 記事によれば、NBAでも同様の妨害があるそうだ。主催者側の見解は「選手に危害を与えていないので規制はしていない」とのこと。


 気分が悪くなった。愚劣な行為に怒りすら覚えた。私がバスケットの試合を見にゆくことは一生ないだろうが、それにしても許し難い。こういうことを平気で行う連中の親の顔が見たいものだ。


 彼等が選手のプレーを妨げる汚い手を正当化している論理は何か。本家本元で行われているという事実が罪悪感をなし崩しにしたのは疑問の余地が無い。また、応援するチームが勝利を収めた際に、自分達の存在を高めるとでも考えたのだろうか?


 こういう手合いは、ルールというものを根本的に履き違えている。本末を転倒してはばからない彼等の思考は、人生にまで波及しているだろう。否、彼等の生き方が“傘”に象徴されたのだろう。


 フリースローが失敗すれば、彼等は欣喜雀躍し、あたかもゲームに参加しているような錯覚を覚え、相手選手を口汚く罵るのだろう。


 そうした行為が、自分達の応援するチームの実力を否定していることに気づかないのだろうか。それとも双方が同じ行為を繰り返しているのだろうか。


 お祭り騒ぎは他の場所でやるべきだ。所詮、彼等は生活で溜まりに溜まった鬱積をこうした形で発散しているだけに過ぎないのだ。自分の頭で判断する能力を失った応援席にファシズムの温床を見た。帝国主義者の子孫達が無邪気に傘を回している。

2001-03-10

『静寂の叫び』ジェフリー・ディーヴァー


 一日半で読み終えた。久方振りの読書は喜ばしいことに快感を伴うものとなった。ロバート・ラドラム亡き後、ジェフリー・ディーヴァーに掛ける期待は大きい。作風は異なるが、極限状況を克服するドラマが与える興奮は同じものだ。ディーヴァーの場合、人質や主人公に身体的な障害を添えることによって、金網デスマッチ的、あるいは引田天功的なスリルが増幅される。


 前にパラリと開いた『監禁』(早川書房)がつまらなかっただけに、本作品は溜飲を下げるほど堪能できた。


 凶悪な3人の脱獄犯が、聾(ろう)学校の教師と生徒達を人質に、閉鎖された食肉工場に立てこもる。FBI危機管理チームの交渉担当者アーサー・ポターが犯人の説得に当たる。


 緻密なプロット巧者のディーヴァーは、人間の知・情・意をものの見事に描き切っている。


 ポターはプロフェッショナルだった。ブリーフィングを終え、一人の警部が人質の無事救出を最優先することを言っておくべきだった、と伝える。


 実はそれは最優先課題ではないんだ、チャーリー。行動原則ははっきりしている。わたしの任務は犯人を投降させること、投降しない場合には、人質救出班が突入し、武力行使によって相手をねじ伏せるのを支援することだ。人質救出に関しては、最大限努力するつもりだ。だからこそ、現場を仕切るのは、HRT(人質救出班)ではなくわたしでなければならないんだ。だが、犯人たちは、手錠を掛けられるか、もしくは死体袋に入らないかぎり、あそこから出ることはできん。そのために、人質を犠牲にしなければならないとなれば、犠牲になってもらうしかないんだ。


 虚実を盛り込んだ駆け引きは、時に濃厚なやり取りとなり、異様な親密感を与える。ストックホルム症候群と呼ばれる感情移入に陥りながらもポターは知性の限りを尽くして犯人の心を読み解く。


 指揮系統の混乱、マスコミの功名心、事件への政治的思惑が交錯し、交渉は難航を極める。犯人という悪意の存在が、それぞれの心の闇を引き摺り出す。人質となった教育実習生のメラニー・キャロルは、コンプレックスに苛まれ、窓越しに一目見たポターを救世主に見立て、心の中で会話をする。一方、ポターはポターで、作戦ミスの恐怖と戦いつつ、心がメラニーに惹きつけられてゆくことを抑えることができない。


 こうした人物を配した上で、ディーヴァーのペンは、聾者の世界をリアリティーというスパイスで料理してみせる。


 音は体で感じることができる。

 音とは、たんに空気が変動し、それによって生じる振動にすぎない。波のように押しよせてきては、恋人の手のように優しく額に触れる。その刺激的な感触に、人は涙することすらある。


 現実から目を背け、心の中に閉じこもり、メラニーはポターと語る。


「わたしたちは、耳が聞こえる人たちを“外の世界の人”と呼ぶの。でも、“外の世界の人”のなかには、わたしたちみたいな人もいるのよ」

「どういう人間たちのことをいうのかね?」

「自分の心に従って生きてる人たちのことよ」


 物差しで測れぬ人間性が善悪いずれの領域にもはみ出す。真実と嘘、障害と暴力、愛と欲望――相反する価値を乗せて、物語という列車は最後までフルスピードで疾走する。

静寂の叫び〈上〉 (ハヤカワ・ミステリ文庫) 静寂の叫び〈下〉 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

2001-03-07

パソコン周辺機器の快感


 パソコンを買ってから、早2年余りとなる。今では、朝から深夜に至るまで、私の生活に欠かすことのできない道具となった。自己主張の強い私はかねてから「ファックス? 必要ないね。電話で充分だ」「携帯? 行き先をちゃんと伝えておけば、そんなものなど要らない」「パソコン? 文字は手で書くから頭に入るのだ。印刷された文字は書き手の顔が見えず、文化的堕落の原因になる」などと声高に叫び、持っている人間にまでやめるよう促してもきた。その私が今では全てを持ち合わせているのだから、周囲も黙ってはいない。「小野さんは、あれもこれも全部、否定してましたよね? 全く人間ってヤツは信用なりませんね」などと言われる始末。その度に「いいか、“君子豹変す”と言ってだな……」と力強く弁明している。


 この2年間、パソコンが鎮座ましましたのは小さなテーブルの上だった。足が折り畳めて、座ったままで使用する物だ。引っ越してからはディスプレイの下に「タウンページ」を二冊重ねて眼の高さに合わせるようにした。何不自由ない、頗(すこぶ)るつきの快適さであった。まあ、難といえば時間が経つに連れ猫背になってしまうことぐらいだった。


 私はどちらかといえば古いタイプの人間だ。顔が老けていることは別にしてもだ。やや古め。「古いタイプ」のリベラル派、若しくは中道左派ぐらい。故に、便利だからといって周辺機器を無闇やたらと買い足すことはない。8人家族の生活で培われた貧乏性がどうしても抜けないのだ。


 そんな私が少し贅沢を試みた。パソコンラックの購入である。多少の金があったのと、引っ越しを期に思いついたのだ。いつでも買えたのだが、部屋がどうにもこうにも片付かなく、計画は延ばし延ばしになっていた。


 生来の物臭と、昼の仕事の多忙さがガッチリと手を結び、部屋は引っ越した時の状態がそっくりそのまま保存されていた。物臭ではあるが几帳面な一面を併せ持つ私は、段ボール箱から衣類を取り出し、段ボール箱にきちんとしまっていた。一進一退。戦況は膠着状態。優先順位は常に“本の入力”――。


 チャンスがやってきた。季節は冬、暦(こよみ)は師走、となれば大掃除に決まっている。しかも世紀末。20世紀最後の大掃除だ。私は綿密な計画を立てた。そして――チャンスは静かに去って行った。好機を逸した。チャンスに前髪はないと聞いてはいたが、確かにその通りだった。ヒットエンドランのサインが出ている場面で、見逃しの三振を喫した打者さながらであった。


 パソコン・ラック購入計画は懸案事項のまま棚上げにされていた。そんな折り、太郎先輩(仮名―半分実名)から電話があった。


「小野ちゃん、パソコン・ラックをゴミ捨て場で発見したが、持って行こうか?」


 私は尻尾をちぎれるほど振る犬のような状態で「ハイ」と15回ほど返事をした。


「よし、これから持っていってやろう」


 太郎先輩に一生ついてゆこうと心に固く決めた瞬間だった。


 キャスターが1ヶ所壊れているだけの立派な物だった。その場でテキパキと配線を外し(私は見ていただけ)、パソコンを据えつける。出来た。ほっほーーー、見惚れましたね〜。以前は隣に置いてあったプリンターとファクシミリが最上部に置かれ、すっきり爽やかコカ・コーラってなもんだ。


 椅子は近所のお宅から無理矢理、頂戴してきた。ここは息子さんが大手文具メーカーに勤務していて、椅子がたくさんあるのだ。速攻Aクイックで電話をしたところ、渋々ながらも商談は成立。


 それから本の発送のため外へ出る。ふとディスカウントショップが目に入り、ぶらりと寄ってみる。何から何までよく揃っている。「ヘエーーー、こんな物まであるんだー」溜め息混じりに私が買ったのは“マウス・テーブル”と“エアダスター”。前者はラックに取りつけ、マウス操作をしやすくする代物。後者はエア噴射で埃(ほこり)やゴミを吹き飛ばすエアゾール式の掃除具。


 いやあ、もう便利、便利、快適、快適!


 まずエアダスターだ。キーボードに吹きつける。まあ、出るわ出るわ。よくもこんなに溜まっていたもんだってえぐらい出たね。あんまり溜まっていたもんだから隙間から出られないゴミは爪楊枝で掬(すく)い取らねばならなかったほど。毛糸玉が作れるんじゃねえかってえぐらい取れたね。


 そして、マウス・テーブルだ。私は昔からスポーツをしていたせいか姿勢や構えを重んじる。そんなもんだから、キーボードのFとJ、すなわちホーム・ポジションがディスプレイの正面にきっちっと定まっていないと落ち着かないのだ。これがマウス・テーブルのお陰で上手くいった。


 たったこれだけの贅沢ではあったが効果は予想を遥かに上回るものだった。


 喜び余った私は太郎先輩に電話をした。


「いやあ、凄い便利な物を買っちまいましたよー。こりゃホントに凄いッスよー」

「何だよ。何を買ったんだよ」

「そう簡単には教えられませんぜ」

「もったいぶらないで教えろよ」

「ぷっちんプリンを2個買ってきてくれたら教えてあげますよ」

「必ず買っていくよ」

「ヒント――奥さん、これさえあれば旦那さん無しでオッケーですぜ」

「わかった。電動コケシ」

「ピンポーン!」

「嘘を言え。好い加減に教えろよ」

「エアダスターとマウステーブルです」

「なあーーーんだ。そんなモンかー。誰でも持っているよ。くっだらねえーの」

(これが37歳と43歳の男の会話なんだから嘆かわしい。日本の景気も低迷するワケだ→因果関係は各自で考えること)


 ショックだった。こんな便利な物があると知っていながら、どうして誰一人、私に教えてくれないのだ!


 などと書きながらもルンルン気分だもんねー。これは全部、今日の出来事。


 私は今、椅子の上であぐらをかいてキーを叩いている。あれ? 何か膝にぶつかったな。何だろう? ゲゲッ、キーボードを載せる引き出しの下に、マウス用の引き出しが付いてるじゃねえか! ああ、失敗!


 マウス・テーブルの価値が森首相の支持率並みに下落した瞬間だった。まあ、でも好いや。左側に出しておいて本でも載せれば、それはそれで便利だろう。森首相の場合はどっちに出しても駄目だろうけどね。


追記


 これは、後になってわかったことだが、キーボードのキーってえのあ、取り外しができるんですな。ドライバーなんかを使えば、わけはない。引っ剥がしたキーをバケツに放り込み、洗剤をかき混ぜる。こうして半日も立てば、キーはピカピカになるって寸法だ。こっちの方が、スッキリ度は高い。ただ、パソコンの取り扱い説明書などがないと、後でキーの位置がわからなくなるので要注意。


2004-06-09

2001-03-05

空気


 丸山は映像に対抗し得る世界を常に書き表そうとしている。この作品を映像化するとどうなるだろう? 私なら、朗読中心のスライドにする。まずは1000人の読み手を選別し、それから数千枚の写真撮影をさせる。音楽は少な目にし、大自然の音をふんだんに取り入れ、所々に効果音を挿入する。誰もが知っているクラシックや、昔、流行したヒット曲を挿入しても好い。世一は飽く迄も遠景でのみ捉え、顔は写さない。体のアップや影の全体を出すのも好い。


 そんな夢想に耽りながら今日も読み進める――。


 私は空気だ。


 万物が誇らかに独立し、全体と調和し、あるべき姿を現している。この現実世界に馴染まないのは人間だけだろう。余りにも甘ったれた、狂った存在。甘え過ぎ、狂い過ぎた結果が破壊へ直結する。同類同士であってすら上手くゆかない困った存在。もし神がいたとすれば、ほとほと手を焼いていることだろう。あるいは「失敗だった――」などと弱音を吐いているかも知れない。


 うつせみ山で浄化され、うたかた湖によって適度な湿り気を与えられた空気は「理想に近い配合(同頁)」との自負をひけらかし「一気にこの世へ躍り出た太陽が、純然たる光の矢を次々に射て、私に多彩な輝きを与える(同頁)」。


 都会の空気は工場から吐き出された異臭を伴うガスのせいで澱(よど)み、更には、そこに棲む人々の邪悪な呼吸によって汚染されている。真っ黒な空気は「光の矢」を撥(は)ね返し、発癌性を誘引する紫外線だけが届いている。都会で寿命を削るほどのストレスに耐え、一日に何度も煮え湯を呑まされるような立場に追い遣られる彼等は、煙幕を仕掛けられた舞台で踊らされる人形達だ。


 人々はけものの眠りから醒め、私をせいいっぱいに吸いこみ、胸のうちに蟠(わだかま)っている、残忍で、よそ事とはとても思えぬ悪夢の残骸を吐き出し、いっぺんに現(うつつ)へと立ち戻る。


 外からは窺(うかが)い知れない夢の世界は安穏だ。日常の仮面を外し、全く自由に振る舞うことができるのだから。意識下の深層では、どす黒い焔(ほのお)が燃え盛り、勢い余って自分すらも焼き尽くしかねない。傷付け、殺し、盗み、犯し、ほしいままに発散する欲望は、彼等の寝顔を苦悶に染める。眉間に刻まれた皺は、深淵の如き深さを湛(たた)えている。空気が無ければ、我々はその暗黒に永久に置き去りにされてしまうだろう。小さな死ともいえる眠りの世界と現実をつないでいるのは、まさに空気だ。ひょっとすると肺が空気を吸い込んでいるのではなくして、空気が肺を押し広げているのかも知れない。


「私は、植物と動物を、動物と鉱物を、鉱物と植物をしっかり結びつけるために、液体と固体を融和させるために、生と死を仲違いさせないために、仲介の労をとる」。そして「いつ死んでも詮方ないと家族に思われている少年」と「籠のなかにいながらにして大宇宙を掌握するオオルリ」のために「オゾンをたっぷりと降り注ぐ」。


 世一という少年は、断じて私を汚す者ではない。


 世一はまほろ町の空気と共にある。同じほどの存在感をもって。


千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)