2001-04-30
丸山健二と『マタイ受難曲』/『虹よ、冒涜の虹よ』丸山健二
丸山健二の『虹よ、冒涜の虹よ』(新潮社)に出てくる『マタイ受難曲』を遂に聴くことができた。私が借りてきたCDは、カラヤン指揮、ベルリン・フィル・ハーモニーによる演奏である。検索して調べたところ、カール・リヒター指揮の方が遥かに好い出来のようだ。
丸山は執筆中に大音響で音楽を鳴らすのを常としている。朝日新聞のインタビュー記事によれば、案の定『マタイ受難曲』を聴きながら執筆したとのこと。
『虹よ、冒涜の虹よ』は、天下を二分するやくざの大親分を手に掛けた主人公・真昼の銀次が、鄙(ひな)びた田舎に遁走するところから始まる。昔の子分だったマコトに導かれ、銀次は海岸沿いのとてつもなく大きな塔に匿(かくま)われる。追っ手を逃れた銀次だったが、夜な夜な木彫りの仮面と対話し、自身が行ってきた悪行をひたと見つめる。それからというもの、夜毎、死神が現れ、銀次を死へといざなう。ある日、マコトにそそのかされた銀次は、名人といわれた彫り竜に刺青(いれずみ)を入れてもらう。鮮やかな色が彫り込まれるごとに銀次の魂は激変する。そして、死神と対等に渡り合える力が満身に漲(みなぎ)る。
ある日、銀次は彫り竜が住む洞窟へと招かれる。
「若い頃はあれこれのめり込みましたが、この歳になるともうこれ一曲さえあればほかに何も要らないですよ。まあ、そんな心境ですかね」
そう言って彫り竜は、予備を何十枚も用意してあるというレコード盤の一枚をターンテーブルにそっと乗せる。針を一番最後の曲の溝に合わせる。音量を上げる直前に、銀次に念を押す。
好みでなかったら遠慮なく言ってもらいたい。そのときはすぐにとめるから。
しかし、そうはならない。
大合唱が洞窟内に響き渡ると同時に、銀次の耳はたちまち魅了されてしまう。金縛りにでもあったように身動きできなくなる。息苦しさすら覚えるほどだ。
洞窟からあふれた荘厳な響きは、人の声と楽器とが複雑に絡み合って、多重の放物線運動を繰り返す。
その音波の軌跡は間違いなく真っ当な魂そのものが辿る道である。反復される主旋律は悪徳と正義の間隙を縫って突き進み、聴く者の卑しい性根を叩き直し、開眼の方向へと押しやる。
これに比するものなし。
聴くほどに心の痛みが薄らいでゆく。白と黒の際(きわ)やかな模様が胸のうちに広がって、魂の陰影がはっきりしてくる。そんな考えは通用しないという何者かの声が骨に徹するたびに、激しい動悸を覚える。
断じて幻惑などではない。
迷夢から覚める思いが五体に広がって、細胞のひとつひとつに染み渡る。銀次は打ちのめされ、それ以上聴くことが堪えられなくなり、居たたまれなくなって、思わず叫んでしまう。
これが『マタイ受難曲』だった。第78曲の合唱である。
銀次はCDラジカセとCDを一緒に手渡される。塔に戻り幾度となく『マタイ受難曲』を聴く場面が出てくるが、常に、肝を冷やし、魂を消し、忘我となる様が描かれている。かくも大袈裟な描写となると、これはもう本人の感動をそのまま言葉にしたといって間違いなかろう。
耳に心地好い音楽ではなかった。こけおどしのような音響がゆったりと、うねるように流れ、突然、合唱が入り込む。尻のあたりがムズムズしてくる。全く耳にしたことがないタイプの音楽だった。あたかも黒板に爪を立てた時の音のように神経を逆撫でる。尋常な音楽でない。アジアとは全く質を異にするヨーロッパの顔がそこにあった。圧倒的な悲壮感と荘厳とがせめぎ合っている。パックリと開いた精神の裂け目から血が噴き出しているような曲だ。実に丸山らしいではないか!
私は、第78曲『私たちは涙を流し ひざまずき』を何度となく聴いた。ライナー・ノーツによると、『マタイ受難曲』は新約聖書の「マタイ福音書」第26〜27章を台本の骨格にしているらしい。各パートは、バスがイエスの言葉、他の登場人物を各独唱者、群集や弟子達を合唱が表わしているという。
仏教徒である私が聖書の詳細を知る由もないが、多分、イエス受難の物語なのだろう。歌詞の訳を見ると、イエスの墓前にひざまずき「安らかに眠りたまえ!」と呼び掛ける内容となっている。
ああ、そうだったのか――。何十回目かで私は確かに理解した。
丸山は小学生の時分「心にぼかっと風穴が空いた」という喪失体験をしている。音がしたというのだから、よほど衝撃的な体験だったに違いない。トラウマをその場で自覚したと言い換えてもよいだろう。
この丸山の心の穴と、師を失った弟子達の心の空洞が共鳴したのだ。更に深読みを畏れなければ、銀次が起居していた巨大な塔は、横にすっぱりと切ってしまえば、穴そのものである。
銀次が塔の中で『マタイ受難曲』をかけた瞬間を思う。古(いにしえ)のキリストの弟子達、彼等の悲嘆を理解し音楽で表したバッハ、そしてペンを執る丸山。三者が抱える心の穴が鼎(かなえ)となってシンクロした時、穴は人類が抱える闇そのものを象徴したのではなかろうか。
ラストで光彩陸離たる虹が天空に刷(は)かれる。穴の暗黒をはね返そうとする丸山の無意識が生んだ夢を見ているようだ。
- 丸山健二
- バッハをキリスト教に閉じ込めてはならない/『J・S・バッハ』礒山雅
- 「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」バッハ
『マタイ受難曲』関連リンク
amazonに注文したものが今日、届いた。3枚組で5811円也。もちろん、カール・リヒター指揮の作品。1958年録音。リヒターはこの時、32歳。
2001-04-27
「安楽死」を問う! 4
小野不一
なら、小野さんはあの実話に基づいた映画 『暁の七人』の若者二人の死、自殺をどう見たの? やはり、生きて拷問にも耐えるべきだったんだろうか。
嫌だなー、好きな映画を出されると困っちまう。あのクライマックスは、高校生の時に見て以来、忘れようにも忘れられないシーンだ。彼等は拷問によって仲間を売ることが許せなかったのかも知れない。あるいは、敵の手によって殺されることを潔しとしなかったのかも知れない。実話を元とした映画であるが、彼等の行動が逃避とは到底思えない。
小野不一
私の読みは、小野さんは「生きようとする意志」の一点を強調をされているのではないか、というものです。
気をつかって頂きまして、ありがとござんす。
私が主張するのは、生命を最高最大に尊厳とする価値観のみが、20世紀の闇を払うことができるのでは、という確信に基づいたものなのです。
等価物を持たないことを尊厳とするならば、いかなる苦痛よりも、命を尊厳とする価値観でなければ、人を犠牲にして平気な社会が変化することは望めないと思うのです。
小野不一
自殺のハナシをしているのですか? 自殺と安楽死は全く別。
全く別じゃありません。安楽死が抱える微妙な問題は、自殺と他殺が絡んでいることであり、それを正当化できるような視点が成立するところにあるのではないでしょうか。
小野不一
「仏家一大事の因縁」ですから仏教者となるにいたった根本の、もっとも大切な因と縁、つまり目的ということになります。生死の真理を自身から明らかにする(=サトリ)ということが根本であると……。
最後の「であると……」が気になりますなあ。するってえと「悟り」ってえのあ何なんでしょうかね?
yamabiko
自殺には、他殺はからまんでしょうが。他殺、と、幇助、のところが問題だ、といっとるんですよ。
ま−
反省しました。また元気に頑張ります。
僕はyamabikoさんの感覚に近いと思います。あくまで自殺は個人の自由。安楽死も自殺の中の一種であり、他殺の一種でもある。だから、問題がある。
「真実」として、安楽死が行われる事には抵抗を感じませんが、公然と行われる事に問題を感じるのです。死を法律として、積極的に公認するのはどうかと……。
そういう意味では、どちらかというと、自殺と比べた議論より、死刑と比べたご意見が聞きたいです。
yamabiko
死を積極的に、でなく、やむなく公認、だとおもいますよ。こんなに厳しい条件でも、死を望むような情況が存在する、ということでしょう。コレは、考えても無駄なことで(哲学の問題ではなく、経験、の問題)実際どのような情況であるか、を知る必要がある、とおもいます。(NHK ETVでやっていたのは オレゴン州、の例)安楽死法、など、頭でこね上げるのは不可能です。
本人が望む、というのだから 死刑とも全く異なると思うが。
山野健一郎
小野さんの趣旨ようやくわかってきました。しかし、人間以外の生命をどのように考えればよいのか。牛、豚、鶏など大量生産ベルトコンベアー式に物として扱っているように思える。現代社会においては、それら動物の死に対する尊厳など無いように思える。だから、平気で生ゴミとしても廃棄もする。オノレが殺生しなくても、口に出来るため、それら動物の尊厳など意識しなくてもよいからだ。人間の尊厳を究極まで求める一方、牛などはまるで物扱い。人間だけが特別待遇でよいのか。牛などの生死をコントロールするならば、オノレ自身の生死も多少はコントロールする余地があっても良いのではないか。
セイ・オールド男
小生いつも感ずること。動物に対してフェアじゃない。狩りは認める。食うために狩る。必死に追い、仕留める。反撃されて、傷つけられるリスクも負う。これは自然が許す。しかし、飼育場は肉生産工場で、動物に対してはなにをしてもよい、それは経済動物なのであって、経済の論理で扱ってよいという考え方は、動物に対しての非道というに留まらないで、人間のこころ、魂をどこか深いところで損なう形で返ってくる。肉を食べるときにただ美味い、と思えないところがある。小生動物と関わり、「情」に関しては人間と殆ど変わらないのをみる。飼育場の牛、豚の「情」を考えると、辛いものがある。
yamabiko
こーてー疫で牛豚は人間どもに焼かれるけど、人間がコレラやチフスになっても、馬に、股クラ毛たぐられることはない。。な〜〜〜〜ぜか?!
小野不一
動物に関しては、手を合わせながら押し戴くしかない。個人的には、動物の「栽培」のような気もする。キリスト教の連中などは、菜食主義でござい〜、なんてぬかしやがるが、そう言われると、わたしなんぞは「じゃあ、植物は生き物じゃねえってえのかよ」と反論したくなる。生の影に他者の死、必然なり。故にタダメシ食らいは罰当たりな存在だ。
yamabiko
はは、オモロイ事言うね。じゃ、生き物である、ということはなんなんだ? くさいフイツサンのカラダを、グシャっと潰したとする。生きている、死んでいる、状態で、分子原子量はまったく同じだ。生きている、つのは、死んでいる、のとどうちがうんかいの?不一原子は永遠に不滅じゃよ。心肺すんな。フイツサン。心配すんな。森羅万象さまたち。安心して、諸行無常、してつかあさい。
ま−
すいません。死刑の話に戻りますが・・・
確かに本人が望んでいないという点で大きく異なりますね。死刑には犯罪抑止効果は無いという意見もあります。実際どうなのかは分かりませんが被害者の遺族が望む事はあるでしょう。それが経験上、という事なのでしょうか……。
動物と人間に関しては良く分かりません。人間より動物が弱いから食べられてしまうのでしょう。価値の話はわかりません。価値観はそれぞれですので……。でも弱いからと言って食べて良いのかどうかもわかりません。弱い人間は食べてはいけないんですよね?「フェアじゃない」というのは弱い物イジメをするなという事でしょうか。最近、何故人を殺してはいけないのですか?が流行ってるようですが、何故動物を殺して良いのですか?は流行ってませんね。
yamabiko
フェア、でないというようなのは全く文化の主観、であり考慮するのに足りないとおもう。生物を、宇宙に発生させたのがフェアなことなのか?と問うだろうか? 生きることはフェアなことか?欲望を持つことがよいことか?死刑、についてはいろいろな考察が為されているのでそれを先に読んだほうが効率がよい。しかし、死刑を支持する学者もいるわけだから結論は出るわけはない。いまだに戦争、という名目で殺すのは認められているし。殺すこと、自体はすくなくとも犯罪ではないということになっている。
セイ・オールド男
宇宙人は強いから人間を食べる。人間的なもの(人間の側から感じる)一切をを奪い取られ、ただ宇宙人に食べられるために存在する、という場合を想像してみればよく分かる。
人間:宇宙人様、もう少しどうにかなりませんか?
というはず。言語的な伝達は不可能として、悲しい目で宇宙人を見る。
宇宙人→人間、人間→牛・豚、としてみれば分かる。
想像力の働かないところ、残酷は残酷ではなくなる。
セイ・オールド男
9対1の野球。審判は9の側。それで、負けたら裸踊り1万回。拳銃を頭に突き付けられ、「1」はこの試合条件を呑まされる。契約書には署名、捺印。すなわち双方合意の上。契約は成立。法律はこのような契約も契約として認める。野球場。観客は試合をみつめる。ただ強者と弱者の関係がそこにある。フェアとはなにか?
フェアとはある基準を認めることから生ずる価値である。
コロセウムで剣闘士がローマ兵に刃向かうことは、その歴史のローマでは、フェアではなかったのだろう。現在の「デモクラシー」ではフェアだ。抵抗権というようなものが存在するとする。自然法的な権利としての抵抗権を認めて無理がない。或いは、正当防衛。
山野健一郎
意味のない宇宙。目的のない宇宙。意味のない人間。目的のない人間。
意味のない、目的のない人間の命に、意味と目的を持たせることは、無理なのか?
意味も目的もなければ、オノレの意志が全てのように思われるが。
yamabiko
意味、も、目的、も、意思、も、すべて作り物(わたしは幻想といっている)であるとおもう。犬猫に意思があるだろうか?
人間は無目的に、無意味に、無意思でうまれ、たがゆえに、ではなく、にもかかわらず、でもなく、ただ 偶然に 意思をもつようになった。
で、どうかな?
アルキメデス
最後の「であると……」が気になりますなあ。するってえと「悟り」ってえのあ何なんでしょうかね?
釈迦仏教の基本は一切皆苦(生、老、病、死)からの解脱だったわけです。道元という人は、禅者というよりは、全一的仏教体系を超真面目に考えた人なので、こういう言葉がでてくるのだと、私は思っています。土台、宗教はドグマですから解釈は何とでもできると思いますが。サトリ(悟り、覚り、菩提)は宗派によってかなり違います。
山野健一郎
yamabikoさん、素晴らしい。
しかし、各人の生活、人間関係においては、意味も目的も造ることは可能だと思う。そういう意味と目的を見つけたなら、それでいいではないか。
yamabiko
もちろん、宇宙戦艦地球号、の艦内の舞台では 意味も目的もルールも造って生きているわけです。大部分の人が。
しかし、あるひ、これがいやになって、地球号いやになった、舞台おりたいのお、アノ世に行きたい、別のうちうに行きたい、ゆうひとがいるのを、防ぐことは論理的にはできません。強圧的には出来ます。今日、暑い?。。さぶ。い。
yamabiko
釈迦仏教の基本は一切皆苦(生、老、病、死)からの解脱だったわけです。
解脱してはイケマセン。苦にまみれていきましょう。でないと、アサハラ焼香になります。道元という人は、禅者というよりは、全一的仏教体系を超真面目に考えた人なので、こういう言葉がでてくるのだと、私は思っています。
詩人ではないでしょうか。体系より、個別に拘った人。空海は……体系派。親鸞は……知るらん。
土台、宗教はドグマですから解釈は何とでもできると思いますが。
マグマだとおもいます。宗教は、爆発だ!
マグマ大使、読んだ?
小野不一
失礼、見逃していた。
じゃ、生き物である、ということはなんなんだ? くさいフイツサンのカラダを、グシャっと潰したとする。
臭かないッスよー。ムンムン男の香り。あふれるフェロモン、漲る逞しさ。
生きている、死んでいる、状態で、分子原子量はまったく同じだ。生きている、つのは、死んでいる、のとどうちがうんかいの?
さすがですねー、好いことを言ってくれますなー。30年前の私と現在の私とでは、肉体的には全く別のものですよね。しかし、私は私として一貫している。心だって別のものといって差し支えないと思う。この肉体や精神を根本で支えるところに、我が生命を司る私がいる。
不一原子は永遠に不滅じゃよ。
エネルギー不滅の法則からいっても、死んだら、それでおしまいとは思えないなー。
yamabiko
30年前の私と現在の私とでは、肉体的には全く別のものですよね。
しかし、私は私として一貫している。心だって別のものといって差し支えないと思う。??心は、同じではないの?(というか、同じデアル、と思うのを心、という)肉体を構成する分子は3年位で入れ替わる、という(脳は同一らしい)。でも、30年前の俺、と、今の俺は、同じyamabikoである、と思うサムシングがあるから、俺、なんだろ?オーレイ!
この肉体や精神を根本で支えるところに、我が生命を司る私がいる。
ほれ、フイツ節。オカルト節。ひとつ出たホイのよさほのホイホイ!
不一原子は永遠に不滅じゃよ。
エネルギー不滅の法則からいっても、死んだら、それでおしまいとは思えないなー。
だからあ……心とは、カタチ=構造、なんですよ。。重さ、は死んでも、生きていても同じ。車をグシャ、とやったのは車(原子分子量は同じでも)。チャンと、デザイン通りに配置すると……ブルるンぶるん……と動き出す。人間も 同じじゃ……。ブルルッ、ブルっ。何?タタン? 南無阿弥陀仏。
小野不一
死刑には犯罪抑止効果は無いという意見もあります。実際どうなのかは分かりませんが被害者の遺族が望む事はあるでしょう。それが経験上、という事なのでしょうか……。
統計によると被害者の遺族が望むという事実はない。犯行直後はあるんでしょうがね。
動物と人間に関しては良く分かりません。人間より動物が弱いから食べられてしまうのでしょう。
これは邪推になるが、動物の種を見ると、食べる側の方が、より大きな価値を還元できる気がする。
価値の話はわかりません。価値観はそれぞれですので……。
私は価値観には高低があると思う。具体的にいうならば、何で悩んでいるかに、その人の価値観が現れていると思う。仕事もしないでパチンコに負けて悩んでいる人と、マザー・テレサの悩みは、やっぱり違うでしょう。
でも弱いからと言って食べて良いのかどうかもわかりません。
食べなければ死ぬ、というのが自然の摂理。これは厳しいよね。
弱い人間は食べてはいけないんですよね?
そこまで言っていない。食べる資格がないってえこと。
「フェアじゃない」というのは弱い物イジメをするなという事でしょうか。
フェアとは、裸になって相撲をとる精神である。
最近、何故人を殺してはいけないのですか? が流行ってるようですが、何故動物を殺して良いのですか? は流行ってませんね。
動物は苦情を申し立てられないからね。
小野不一
だからあ……心とは、カタチ=構造、なんですよ……
そりゃ違いますぜ。例えば目の前に水があったとする。この水は氷点下になると氷になる。また、沸騰すれば水蒸気となる。物を塗らしたり、人間を浮かせたり、空から降ってきたりする。こうした可能性を統合しているのが、水の性質。目に見えるものと見えないものの相違。なんだか当たり前過ぎることを書いちまったな。
yamabiko
グシャ、と潰したフイツサン。グシャ、と潰した、車。
↑これを、フィルムにとって、逆回転させて映写してみよう。するってえと、同じ分子原子、であっても、ある、一定の組み合わせ構造になった次点で、アラマフシギ、永久運動(動いたり、考えたり)するようになる……
コレ即ち、生命、これすなわち、心がある! とひと、の、いへり。
山野健一郎
無→ビッグバン・物質誕生→生命誕生→精神誕生→精神消滅→生命消滅→リトルバン・物質消滅→無
という永久運動の繰り返しなのか。人間は、無、物質、生命、精神の複合体である。そして、また、人間は、拡大・進化過程の宇宙の一部であり、縮小・消滅過程の宇宙の一部ではない。だから、人間の脳にも、拡大・進化という現在の宇宙の方向性が具備されているように思う。と、考えるなら、精神を持つ唯一の生命体である人間が、人間そのものが縮小・消滅の方向性を持つことは不可能なように思える。
yamabiko
事実、としてそうである、というのは経験でしかわからない。つまり、歴史的、一時的なモノ、と理解するほか無い。それ以上のことを推測してグランドセオリー、をつくるからおかしくなるのだ。
宇宙の方向性、を逆に辿る、思考もユルされる。
不可逆、は、可逆の一部、と考えるベシ。 ド・ニーチェ
アルキメデス
無→ビッグバン・物質誕生→生命誕生→精神誕生→精神消滅→生命消滅→リトルバン・物質消滅→無
これも一説にすぎません。宇宙のごく一部に過ぎない人間の脳に、宇宙を思惟することが可能なんでしょうか。夢のようなものでしょう。せめてよい夢を見ましょう。快楽の夢。不道徳の夢。地上のあらゆる不道徳を体験する夢。叫びましょう。「初めに行いありき」
あの〜、犬にも精神はあるでしょうか?
yamabiko
あの〜、人間たちも、ものを、考えてる、ってこと、あるのかな? そんなことニャ〜、の、かな。 振り〜ドリッヒ、ニャーチャ。
山野健一郎
喰って出して、SEXして、子を育て、眠る。この基本を、どのようなスタイルでやるか。正解はない。基本を大切にしたいと思う。なんだか疲れた。眠い。
山野健一郎
昨日、NHK教育で太宰治に関してやっていたけど、何度も繰り返した自殺は、狂言的なものであったらしいとのこと。玉川上水でのものもその可能性ありのような雰囲気だった。ということは、それだけが失敗したということ。その程度の男だったのかと思うとなんだかなー。という感じ。
ナジ
山野健一郎さん、お疲れになったらおやすみになる事よ太宰は最後は本当に死にたかったんだと思います。そのほかについては狂言で、相手が死んでしまって悲しんでいる自分にうっとりしているところが見られます、複雑な性格の人だったと思います。猪瀬さんはよく調べあげたと思いました。でも、本当の事はだれもしりませんよね本人だってなんだかわからないから亡くなったんじゃないですか?あの程度の男で充分愛せます。大好きだもの。
yamabiko
それより、おとといと、その前の、吉本隆明、の番組がえかったね。吉本の声もフィルムも初めてみた。三好十郎、という劇作家を非常に高く評価している。たしかに番組の通りだとすると、吉本の言う、チシキジンとか、転向とか、関係の絶対性、などは全部、三好から、出てくる。
小野不一
死刑、についてはいろいろな考察が為されているのでそれを先に読んだほうが効率がよい。しかし、死刑を支持する学者もいるわけだから結論は出るわけはない。いまだに戦争、という名目で殺すのは認められているし。殺すこと、自体はすくなくとも犯罪ではないということになっている。
人が人を殺すこと、それ自体をどう考えるかってことでしょうな。それを、理由によっては認めるのか、如何なる理由があっても認めないのか。
小野不一
意味、も、目的、も、意思、も、すべて作り物(わたしは幻想といっている)であるとおもう。犬猫に意思があるだろうか?
人間は無目的に、無意味に、無意思でうまれ、たがゆえに、ではなく、にもかかわらず、でもなく、ただ 偶然に 意思をもつようになった。
で、どうかな?
山健さんはもろ手を挙げて賛同されているようですが、私は全く反対です。
犬猫にも当然、意思はあるでしょう。それは本能に基づいた意思であり、向上心や成長とは無関係なことでしょう。動物は生まれ落ちた時から、敷かれたレールの上を歩む他ない。
私は大将とは、全く正反対の意見ですな。
万物が意味を持ち、あるべき場所に収まっている。
人間とは意味を生きる動物である。
小野不一
無→ビッグバン・物質誕生→生命誕生→精神誕生→精神消滅→生命消滅→リトルバン・物質消滅→無
という永久運動の繰り返しなのか。
そうでしょうね。生老病死(しょうろうびょうし)、成住壊空(じょうじゅうえくう)というのが、大宇宙が奏でるリズムでしょうね。
小野不一
宇宙のごく一部に過ぎない人間の脳に、宇宙を思惟することが可能なんでしょうか。
海よりも大きなものがある。
それは大空である。
空よりも広大なものがある。
それは人間の精神である。
小野不一
喰って出して、SEXして、子を育て、眠る。この基本を、どのようなスタイルでやるか。
これは動物としての基本ですね。人間の基本は歴史をつくることだと私は考える。
小野不一
その程度の男だったのかと思うとなんだかなー。
亡くなった方には、それだけの理由があると思う。実存的な疑問を追及すれば、自殺したくなるのが当然だとも思う。本源的な不安に目をつぶって我々は生きることができるのではないか。
ま−
いろいろ皆さんの意見とかみて考えてるうちになんだか安楽死法はあっても良い様な気がしてきました。少なくとも何か権利を奪う法律ではなくて権利を与える法律ですもんね。ルールってのは最小限の方が良いと思いますし……。人を殺しちゃいけないよ。っていうルールは絶対ではなく既にその中にいくつか例外が認められているわけで、そこに新しく1項目増えるだけだなと。自分で言っといて何ですが、病床に臥してる方が生きにくくなるというのは法律の問題じゃなくて世の中の問題ですよね。それはやはり終末医療の設備や意識の遅れの問題かなーと思いました。私の父も最期はホスピスで息絶えましたがもう少し早く入れたら良かったなと思いました。設備が少ないんですよね。
山野健一郎
喰って出して、SEXして、子を育て、眠る。この基本を、どのようなスタイルでやるか。
これは動物としての基本ですね。人間の基本は歴史をつくることだと私は考える。
各人がこの基本を真正面から取り組まないでおろそかにしたとしたなら、オノレを知ることが出来るのでしょうか。オノレを知らずに他者や社会を知ることができるのでしょうか。オノレも他者も社会も知らずにつくりあげる歴史とは、いったいどんな歴史なんでしょう。
yamabiko
オノレを知らずに他者や社会を知ることができるのでしょうか。
知らざるを知る、これ、知るナリ、つうわね。何時自身を知れ、というけど、これができれば、カミさんじゃわ。おのれをしらず(ましてや他人もしらず)とも、生きられる、のが人間。犬猫でも、おのれとはなにか?など考えても人間よりまともな生き方してる、わな。自殺に追い込んだり、恋い煩い、で死ぬ犬猫あまりおらん、らしいぞ。
オノレも他者も社会も知らずにつくりあげる歴史とは、いったいどんな歴史なんでしょう。
これまでの人類の歴史、じゃろ?
yamabiko
自分で言っといて何ですが、病床に臥してる方が生きにくくなるというのは法律の問題じゃなくて世の中の問題ですよね。
じゃなくて、ということはないでしょう。鶏と卵だとおもいますが。政治屋はたくみに世の動向を察知し、法律に仕立てている。いい、かどうかは別。
それはやはり終末医療の設備や意識の遅れの問題かなーと思いました。
死、を病院に預けているし、預けざるを得ない家庭事情、それを当然のこととしてきている世間、にどれほど、対抗できるか。オノレのポリシ=宗教、が必要であろうと思います。
2001-04-24
ニュース拾い読み・書き捨て 2
▼自民党新総裁に小泉氏がほぼ確定。国民よりも驚いているマスコミが面白い。4月23日付朝日新聞の社説では「1ヶ月前にはだれもが思いもしなかったことだ」と記しておきながら、わずかこの2行後で橋本氏を指して「時代の変化を読み誤ったとしかいいようがない結果である」と貶(けな)してみせる▼全くもって朝日らしい論調に大笑い。「時代を読み誤る」のはマスコミの十八番ではないか。一体全体、何様のつもりで書いてるんだろうねえ▼安楽死を巡る議論を掲載しているので、死にまつわる記事を▼ドイツで、ベルディの歌劇『アイーダ』の演奏途中で指揮者が倒れ、死去(4月21日付朝日新聞夕刊)。『アイーダ』の3番で指揮棒が止まったとのこと。亡くなったのはドレスデン歌劇場管弦楽団の首席指揮者であるジュゼッペ・シノーポリ氏。聴衆は一旦、ロビーに出され、その後、演奏中止が伝えられた。彼の来世は『アイーダ』の3番の続きから始まるに違いない。見事な死に様と考えるが、如何(いかん)?▼歌手の三波春夫さんが4月14日、逝去。高度経済成長の幕開けソングとでもいうべき「♪こんに〜〜ちは〜〜」の万博ソングが忘れられない。芸人の魂を持つ歌手がどんどんいなくなってゆく。最近詠んだという句が胸を打つ。【逝く空に 桜の花が あれば佳(よ)し】▼舞い散る桜花の彼方へ、彼は旅立った。死後も尚、彼の歌は人々の耳を慰め続けるだろう。ご冥福を祈る。
2001-04-22
「安楽死」を問う! 3
山野健一郎
堕胎は、どう考えるのか。堕胎される胎児は、生まれて、生きることが出来ない。堕胎は人為的なものだ。
人為的な死を認めないなら、堕胎も認めるべきではないだろう。また、人為的な死を認めないなら、人為的な生も認めるべきではないだろう。人為的な生を認めるなら、人為的な死も認めるべきであろう。人為的な生と死の境はどこにあるのだろう。将来、医療技術の進歩により、誰もが人為的に150歳位まで生きることが可能になった場合、死の選択が出来ないとしたら、辛いものを感じる。
yamabiko
↑で私が言ったようにおなじ問題です。堕胎の場合は、生を望んでいる可能性が、もの言わぬ本人にあるのに殺しています。安楽死尊厳死、などは、生は終わりにする、と本人が意思表示をするのだからこっちをむしろ尊重すべきでしょう。誰も望まない生を生きるのです。こっちは、可能性ではなく事実です。
山野健一郎
避妊や堕胎。不妊治療。生の入り口は、既に人為的なものとなっている。死の入り口も、医療技術により、既に人為的なものになっている。
既に人為的になっている死にもかかわらず、オノレの主体的意志による安楽死という人為的選択が認められないなら、いったい誰の意志により死を迎えるのか。誰の意思も存在しないのか。医師の能力や、さじ加減に任せるという受身的な死だけで良いのか。医療行為を受けるか否かの選択。病院の選択(医師の選択)。治療方法の選択……。選択の仕方によって、死を迎える時期も異なって来る。死が人為的なものであるなら、人為的な死の一つである安楽死が認められても問題ないように思う。
小野不一
ま−さん、ここは好き勝手書き放題ですから、引き続き、異論・反論、ご自由にお書き込み下さい。
安楽死・死刑・堕胎、私は全て反対です。
私は「意思」とは、いのちの一部分ではあっても全体であるとは考えておりません。深層心理学や唯識論などでみられるように、意識の奥底には、更なる広大な領域があると信じます。故に、死は生命それ自体が決定すべきことであると思う。
医師の能力や、さじ加減に任せるという受身的な死だけで良いのか。
これは逆ではないでしょうか? 苦痛と戦い、苦痛を乗り越える自由を放棄した「受動的な生」と言うべきではないでしょうか?
yamabiko
自由の放棄がなんで受動的なんだ。逆、だろ、ふつう。積極的、つまり、人間的なんだろ? 犬や猫は、必然しかない。なるようにしかならん、のだ。
小野不一
死を自由に選択するといえば聞こえはいいが、結局は不自由な生からの逃避に過ぎないのではないでしょうか? 犬や猫であってすら、生を全うしていると私は見る。
greeny
おはよ。
私は安楽死賛成、死刑反対、中絶反対。自分たちにとって、生きやすい世の中がよい。
安楽死法がなくても、密かにそういうことは、これまで同様行われるでしょう。なら、きちんと法のもとでの規制があった方がよいと思う。 これ、アメリカやカソリック国での中絶問題と通じる面ないかしらん。
ただ、それによって、確かに安易に死の選択をしてしまうことになりはしないか、やはり不安覚えるわ。そして、新薬開発の意欲がそがれるのではないか……??
犬や猫は不必要にお金かけて、クスリ漬けされて、副作用によるつらい思いなんてしないですよねえ。同レベルで論じれるのかなあ。
死刑に関して――公開は知ってたけど、それが放映されるとは !! テキサス、アメリカ南部は死刑が多いんだよね。死刑で凶悪犯罪が減るということはないというの、読んだことありますけど、どうなんだろ……。
李登輝氏にビザを認めるかどうか……。ちょっと待ってよ〜犯罪者じゃないでしょ。すくなくても、日本では。だから、なめられる?? このニュースは気になってま〜す。
greeny
違う、間違った。中絶反対でなく……中絶は認めるべきだった!!
セイ・オールド男
迂闊だった。いま『高瀬舟』を思い出した。弟の喉笛の剃刀を抜くか抜かないか。抜けば弟は死ぬ。抜かねば苦しみは続く。兄は意を決して、自分を殺して、弟のために剃刀を抜いてやる。
『高瀬舟』は寓意です。抜くのか抜かないのか、このような極限状況で抜いて罪に問われるのか、問われないのか。
単純な白黒の問題じゃない。愛情が抜くということがあるし、憎しみが抜かないということもある。命が終わるまで行きなさい、というのは、十字架刑がそうです。あれは、ものすごく残酷な刑だったようです。哀れみから、まだ死ねない者の脛を折ることがあったそうです。
yamabiko
逃避だからエケンのか? クダラン世間から逃避するのは権利、だよ。そもそも、死、を逃避、とみなす発想がふるうて黴ははえとる。よう、それで、小説読んでる、といえるねえ。あきれるわ。
このよに、カミさんなんかいないんだよ。死にたい、いうたらしなせばいいではないか。余計な口出すんじゃない。
罪、トカ、法、以前の問題だ。
yamabiko
死刑に関して――公開は知ってたけど、それが放映されるとは!!
放映ったって、一般のてれびじゃないでしょうが? 被害者の家族から選ばれたひとが画面でみることができる、だけじゃ? 南洋では、いまでも、公開処刑がおこなわれてるし、某野蛮大国でもそうじゃないの? 米国の映画でもあったよね。女性死刑囚が土壇場になって、死刑が一旦停止、になり、再度逆転して死刑。あの映画では薬物注入だったけど、それを関係者は窓越しに見ていたよ。
テキサス、アメリカ南部は死刑が多いんだよね。死刑で凶悪犯罪が減るということはないというの、読んだことありますけど、どうなんだろ……。
○減るかもしれない。米国刑務所では死刑以前に、強姦(男同士)が日常的とかいうてたよ。新入りがやられる。あとはずっとやられ放題。
李登輝氏にビザを認めるかどうか……。ちょっと待ってよ〜。 犯罪者じゃないでしょ。すくなくても、日本では。だから、なめられる?? このニュースは気になってま〜す。
○舐められてるのは昔から。モリが、橋本ニクしで、わざとビザ認めて、はっしーに苦労させようとしている、と週刊誌に。ま、モリに人権意識なんかあるわけないからな。ハッシーは、中国スパイ女性と、またデートするのが楽しみなんだろ? その程度のもんだ。
セイ・オールド男
犬や猫であってすら、生を全うしていると私は見る。
この点については反論せねんばならん。
「あってすら」は余計じゃ。お犬様、お猫様に悪い。人間、犬猫に「あってすら」と云えるほど上等な存在ではないのは、人生の経験じゃ。人間であってすら正しく生きようとしているのに、犬猫ともあろうものが、そんなことでどうする、というのが正しい言い方じゃ。冗談で云うのではない。
yamabiko
ビザ、もそうだが、教科書の口出し。それに、どぎまぎしているアホ政治屋、官僚。野蛮国、がアジアにはまだ多い。検閲を平気で行う、国、官庁、新聞社。浣腸したろう。
ウチンチの、市役所にも、オウムは住民票受け付けません、なんてタテカン出てた。すくえんわ。
yamabiko
牛や豚も全うしているんかな? トサツ場で。ストン、と首落とされる。
yamabiko
人間に飼われている動物で、自然死、するのがなん%ある、おもうん? 保健所や犬猫病院や、大学病院にきいてみる、よろし。種馬、いがいは、注射でコロリ、じゃろ?
種馬、やる?
山野健一郎
救急車を呼ぶか呼ばないか。呼びたい人は呼べばよいし、呼びたくない人は呼ばなくてもよい。
差し迫った緊急時には、それによって生死が決する場合もある。救急車到着までの時間の長短。病院到着までの時間の長短。病院の医療機器の新旧。医師の能力、体力、気力。
救急車を呼ぶことを選択しても、誰もが同条件、同程度の医療を受ける訳ではない。
医療を受けるということは、天寿というものに、人為的要素が入り込むこと。自然界にない異物を体内に入れたり、体を切ったり、、、、。これは、天寿に影響ある。また、人間の文化、生活スタイルそのものも、不自然なものであるから、天寿に影響ある。
知恵という禁断の果実を食べたときから、人間には、天寿(天から与えられた寿命)というものが無くなったと私は思う。
天寿というものが存在しなければ、天寿をマットウするということも有り得ない。死をどのように迎えるかは、本人や回りの人の選択と偶然の問題であると思う。本人が、具体的な死期(何年何月何日何時)を、わからないことを天寿をマットウしたと、しているだけのように思える。天寿など存在しない。だから、せめて安楽死くらいは、認めたい。
yamabiko
フランスやイタリヤでは、死んだら自動的に四の五の言わずに臓器提供。くりぬかれる。 ドナーカード?、そんなん、メンドッチイ。
若くて元気がいいの……みると……ピチピチ、脈動しているのが透けてみえ、涎がでるんじゃそうな。。
うう。
アルキメデス
試みに検索サイトに「安楽死」をインプットすると、脳死臓器移植法改正案で反対派の顰蹙をかっている町野朔氏の名がたくさんヒットします。臓器を求めることと安楽死。ふっふっふっ……。
小野不一
安楽死とは「楽な方法で人工的に死なせること」と辞書にある。だが死んだ後の世界は間違いなく「楽」だろうか。安楽死が社会的に認知されたら、歯痛で死を願う子供が出てくるかも知れない。苦痛を忌み嫌う生き方が社会を覆い尽くしかねない。母親の産みの苦しみを経てこの世に躍り出た私の命は、どんな苦痛よりも尊厳あるものだと確信している。
以上は5年前に毎日新聞で採用された私の投書。基本的な考え方は変わってない。
yamabiko
5年前からオカルトやっていたのか。フイツサンは。もう、ええかげんに目覚めるときだろ? 新聞も目覚めるとるぞ。安楽死が社会的に認知されたら歯痛で死を願う子が……。
てのはオモロイ。死刑が無くなると犯罪が増える……。つのは オモロイか?
セイ・オールド男
自己の信念と安楽死一般、それと安楽死法を分けて考える必要があります。
例えば、食事は白米に限る、という信念を自己は持つとします。それを貫くのは自分の勝手です。しかし、それを他者(家族であっても)に強要するのは問題となる。白米を食べるべし、パン食は禁ずる。自己の信念を貫くことは他者の自由の侵害となります。
更に、白米食に限るという信念と「白米食法」の問題は別です。信念を即法にはできません。それは恐ろしい状況を生みます。自己と他者の間である手続きを踏んだ、合意のもとで「白米食法」は「白米食法」となるのならなります。
小野さんは、小野さんの信念と、一般の問題、法の問題を分離していますか?
セイ・オールド男
K・ヤスパースに『運命と意志』としてまとめられたものがあります。いまは手元にはありません。その中で、ご存じの通りヤスパース(ドイツの代表的な実存哲学者兼精神病理学者)の妻はユダヤ人です。ヤスパースはナチスかでドイツに留まりました。さすがナチスもヤスパース夫人を拉致することはできない。(高名なヤスパースは、ナチスお気に入りのニーチェ、それに、生粋のドイツ的な英雄学者M・ウェーバーの崇拝者)。それで離婚しなさいと盛んに勧める。しかしヤスパース、こう考える。私はナチスの暴力に抵抗し、妻を守ることはできない。押し入ってきたとき。その状況を限界状況とする。ヤスパースは決意する。その時は妻と共に死のう。「共安楽死=心中ともいう」を考え抜いた末に選ぶ。
小野さんの立場では、否、そんなことはいけません。連れていくのならそうさせて、奥さんに生きるだけ生きて、死ぬときに死ぬ、その「ママ」にさせるべきです、ということになりませんか? 「安楽死絶対反対」の信念を貫くと、そうなります。他者にもそれを強いるとすると、ナチスが押し入るその傍らで、想像の場ですが、小野さん、ナチスのなすに任せる。「共安楽死」をしようとするヤスパース夫妻の拳銃も取り上げるということになる。その後の奥さんの運命はどのようなものか、死ぬより辛い運命が待ちかまえている。
yamabiko
フイツサンの立場で言えば、信条としては、好き好きにやらせたいが、法律になると、 ワシ死にたい! とポロリと洩らした人がドンドンコロされる、とおもっているのだろう。
そんなことはあり得ない、ことは オランダの法律の出来る過程や事例をみればわかることだ。
セイ・オールド男
上記、ヤスパース夫妻は無事生き延びました。様々な手管を尽くした。ナチス下での「自分たちの運命と意志」を日記に記し、それがこの本に収められています。状況の中で「信念」は、決断の一つの要素になります。状況の中で決断します。村上春樹の『クロニクル』に描かれている、生きたままの皮剥拷問。彼は自殺し損なって、捕まり、拷問される。しまったと、私なら思う。死んでおけばよかった、失敗した、痛いな、と後悔する。息が尽きるそれまで。小野さんは「生きたまま皮剥の刑」をするよ、これから、しかし、選択で、ピストルで自殺もできる。すぐ楽になる。どうしますか? と選択肢が置かれたら、信念を貫いて、「安楽死はしません」と、苦痛の極致を羊たちのように受け容れますか? 私なら、ピストルです。
yamabiko
↑の、ヤスパースの例が安楽死の問題にどのように関連するのか? わたしにはわからないが。狙撃隊を組織してナチを殲滅しろ!というだろう。拷問されているひとを救出せよ、ということになる。また、被拷問者も、そういう期待があるからこそ生きたい、のであり、人類全体がオノレの死を望んでいる、家族もイナイ、と言う情況で、なにゆえに 生きたい、という希望がもてるだろうか?
安楽死は全く異なる。八方手を尽くしても治療法がない、のである。あるのに死亡させる医者は犯罪を犯したことになる。(ただし、数千万円あるいは数億円治療に掛かる、というのも治療法がない、になろう)治療法がない、生きているのに苦痛が伴う、高齢である、このようなとき、従容として死につく、家族にも死なせた、という負い目を追わせない、ケア、や哲学こそが必要なのである。何がなんでも生きるのが正しい、考えは、こういうヒトビトや家族にとって、敵である。数年間延命したところでなんになるのか? 苦しませた、という負い目が残るだけ。周囲の冷たい目を避け得た、というだけ。これで満足か?
小野不一
小野さんは、小野さんの信念と、一般の問題、法の問題を分離していますか?
当然ではあるが、私は個人的な信念を社会に押しつけるつもり毛頭ない。
オールドさんが書いている事柄は自殺に関する権利の問題だと思うが、これに対しても、やはり私は反対である。極限状況であっても尚、自分自身の運命と真っ向から戦うべきであろうと考える。ナチスへの服従が自殺かという選択肢は、物事を狭く考え過ぎているようにも思います。現実に生き抜いたユダヤの人々が、どれほど多くの人間に生きる勇気を与えたか計り知れません。
私が危惧するのは、安楽死が認められようとする社会通念や価値観に対してである。まず、根本的な問題として「本当に、死ねば楽になるのか?」。次に、結果的に、命よりも苦痛を尊厳視することによって、生命軽視の風潮に拍車がかかるのではないかという点。そして、ま−さんが書かれたように、安楽死が当然の権利となった時に、病床に臥していることが多い方々が生きにくい社会となることなのです。そうなってしまえば、慈悲の心から安楽死を認めたことが、かえって無慈悲を生む結果になってしまう。
アルキメデス
『大般涅槃経』の雪山偈は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」でしたね。第三句は死とか、自殺を意味しているわけではないんですよね。生滅(生死)観から解脱すれば、ということです。そうなれば、肉体的な苦痛がなくなる。一方『碧巖録』第四三則に「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」というのもあり、脳内モルヒネですかね。
小野不一
アルキメデスさんがチョイト前に引用された中の、「一大事因縁」ってえのは何を指しているんでやんしょ?
小野不一
雪山偈はその通りなんでやんすが、ありゃあ像法時代の話しでして、末法の衆生は機根が違いますからなー。雪山童子みたいなわけにゃ参りませんぜ。
セイ・オールド男
現実に生き抜いたユダヤの人々が、どれほど多くの人間に生きる勇気を与えたか計り知れません。
「生き抜いた→多くの人間に生きる勇気を与えた」というところがよく分からないのですが。
「あのような状況の中(強制収容所)でもよく生きた例」は、例えば『夜と霧』、小生にも生きる勇気を与えますが。しかし、その殆ど多くはただひたすらの悲惨を偶然の力もあって、死から逃れた、というのではないですか?
私の考えは、強制収容所に捕らわれた以上、それは運命として与えられたのだから、その運命と向かい合うべきと云うものです。そこで、生を選ぶか死を選ぶかは決断です。その場合、生きることの決断が必ずしもよいとは云えない。彼(ら)にこのようにしろ、そうすれば、お前は生き延びられる、というささやきで、そのものは生きるために云うとおりにする。その生き延びたあり方は、果たして多くの人々に生きる勇気を与えるものか?
セイ・オールド男
↑の、ヤスパースの例が安楽死の問題にどのように関連するのか? わたしにはわからないが。
安楽死を、現在及び、未来の確実な苦しみ、苦痛からの究極的な手段と考えれば、問題として同じです。心中など、親は子供の将来の苦痛からの解放を願っての親の行為と考えることができます。肯定否定は別問題です。人間については分かりにくいかもしれませんが、動物家族の場合、まさにこの問題は切実な問題として目の前に置かれます。死よりも大きな悲惨は、あります。それを思えないのは、想像力が足りないのです。
セイ・オールド男
苦痛からの→苦痛からの解放の。
偶然の力もあって→偶然の力もあってすごし。
「過ぎ越の祭り」はユダヤの伝統です。ユダヤ人には堪え忍び、すぎるのを待つ、という、伝統的な力があるのではないか。「コルチャック先生」だったか、なんだったか、ユダヤ人の考えとしてこのような言葉があった。
小野さん、なにが何でもただ生きるべし、という考えはどれほど残酷な考えになる場合があるか、想像することはできませんか? 遠藤周作の「転びなさい」という、イエスの思想の解釈。小生なら、自分の子供がただひたすらの、想像を絶した悲惨に引かれていくのが分かって、その場に直面したなら、楽にしてあげます。安楽死。これは、信念ではなく心情です。素朴な人間の心情。皮剥拷問を、例えば小生の子供が受ける、その前に選択肢(ピストル)が置かれたら、迷うことなくピストルを選ぶ。これは、安楽死です。ここで、否、あくまで、命が終わるまで生きるべきだと考える人がいて、このような状況でそのように決断するのなら、それは小生には理解し得ない存在です。愛情からは、或いは、自己愛からは、それは考えることができない。できるとすれば、宗教的な価値に重きを置く殉教者。しかし、それは「私ー神」からしかでてきません。「心頭滅却すれば」というものもありますが、それはしかし、自分の子供には貫けないでしょう。
yamabiko
↑の、ヤスパースの例が安楽死の問題にどのように関連するのか? わたしにはわからないが。安楽死を、現在及び、未来の確実な苦しみ、苦痛からの究極的な手段と考えれば、問題として同じです。
安楽死法が想定している情況とは全然異なる。ヤスパースの場合は、原因がハッキリしており、駆除方法も明解だ。安楽死法、は そういうことを想定しているのではない。
単なる自殺にしか過ぎない。個人が思想的に悩み、窓から飛び降りた、などは誰にも防げないし、法律が関わる問題ではない。
greeny
強制収容所と安楽死の問題は、わたしもやはり別問題のような気がするのですが。収容所内には、たしか外の解放勢力にコンタクトを取ろうとする連絡組織ができてたところもあったのではなかった? やはり、かすかながら希望が……あった。安楽死には、いつか救われる可能性が……ないのですよね。そして、安楽死は、可能性がひたすら零に近い場合のみ許されなくてはいけないということなんですよね。そういう意味では、12歳だっけ、子供に適用される場合もあると……エッエッエッ? と思っちゃうのだけど。
強制キャンプでカポとか言われる管理する側に回った人たち含めて、生き延びたナチの人たち、わたしもりっぱだと思うな〜 。
セイ・オールド男
↑「安楽死」と「安楽死法」は問題を異にする。
小野不一
あのような状況の中(強制収容所)でもよく生きた例」は、例えば『夜と霧』、小生にも生きる勇気を与えますが。しかし、その殆ど多くはただひたすらの悲惨を偶然の力もあって、死から逃れた、というのではないですか?
私の書き込みも『夜と霧』を思いながら記したものです。一冊の本に対して、それぞれの人が様々な感じ方をするのは当然である。だが、あの本を読んで「偶然の力もあって」生き抜くことができた、とする考えには異を唱えざるを得ない。フランクルが書きとどめたのは、収容所によって、それまでの生き方があぶり出され、最後の最後に至っても尚、希望を捨てなかった者のみが、かろうじて生き残ることができた、という話しではないのか? もし偶然が入り込む余地があったとすれば、それは、生き続けんとする人間の足元にしかなかったことだろう。
の場合、生きることの決断が必ずしもよいとは云えない。彼(ら)にこのようにしろ、そうすれば、お前は生き延びられる、というささやきで、そのものは生きるために云うとおりにする。その生き延びたあり方は、果たして多くの人々に生きる勇気を与えるものか?
どうもオールドさんは「自殺する権利」に論が傾き気味ですね。上記のケースは、話が早い。他人の犠牲の上に成り立つ延命などは、自らの主体的な生を放棄した人間であり、生きるに値する人生など送れるはずがない。そこまで卑劣な手段を使って生き延びる目的は何か? それは、自分の肉体的苦痛を避けるためである。
小野不一
生き抜いた→多くの人間に生きる勇気を与えた」というところがよく分からないのですが。
生き抜くことが不可能と誰もが思うような状況下であっても、尚、生きた。生き抜いた。自殺して当たり前のような地獄に耐えて生き延びた。このような方々の経験を知ることによって、生の意味を問い直した人は数え知れない。無気力と戦え、小さな悪を見逃すなという彼等のメッセージは、私の魂に刻印されている。まあ、そんな意味です。収容所のユダヤ人が、全員、自殺したら、こうした声はどこにも届かなかったことでしょう。
小野不一
小野さん、なにが何でもただ生きるべし、という考えはどれほど残酷な考えになる場合があるか、想像することはできませんか?
できません。これじゃ、チトあっさりし過ぎか。
生なら、自分の子供がただひたすらの、想像を絶した悲惨に引かれていくのが分かって、その場に直面したなら、楽にしてあげます。安楽死。これは、信念ではなく心情です。素朴な人間の心情。皮剥拷問を、例えば小生の子供が受ける、その前に選択肢(ピストル)が置かれたら、迷うことなくピストルを選ぶ。これは、安楽死です。ここで、否、あくまで、命が終わるまで生きるべきだと考える人がいて、このような状況でそのように決断するのなら、それは小生には理解し得ない存在です。
まず、こうした前提で物を考えたことがありません。そりゃ、心情としては理解できますよ。例えば、現実にそうなったとしたら、私は最後まで何があるかわからないから、あきらめることはしない。また、ピストルで殺すことが楽であるとは思えない。その瞬間の苦痛を想像するに、永遠と思えるような時間を感じるようにも思えますが。更に、何度も言うようで恐縮ですが、私は死んだら楽になるという考え方ができないものですから……。
セイ・オールド男
が、あの本を読んで「偶然の力もあって」生き抜くことができた、とする考えには異を唱えざるを得ない。フランクルが書きとどめたのは、収容所によって、それまでの生き方があぶり出され、最後の最後に至っても尚、希望を捨てなかった者のみが、かろうじて生き残ることができた、という話しではないのか?
例えば、「選別の手が(ガス室)、彼に触れなかった」というのが、偶然の力です。希望を捨てなかったものも、選別の気まぐれな手が触れれば生きることができませんでした。偶然とはそれを言います。
私は「収容所に囚われた以上、その運命と向かい合い、生と死は決断の問題だ」という意味のことを云っています。収容所行きになったら、自殺しなさいとは云っていない。ヤスパース夫妻の場合は、文脈が異なります。
できません。これじゃ、チトあっさりし過ぎか。
では、噛み合わないな。これも、人間と人間の言葉の行き交いだろう。
greeny
話しに横槍は申し訳ないと思うのだけど……。ふっと興味覚えたの。
なら、小野さんはあの実話に基づいた映画 『暁の七人』の若者二人の死、自殺をどう見たの?やはり、生きて拷問にも耐えるべきだったんだろうか。
セイ・オールド男
現実にそうなったとしたら、私は最後まで何があるかわからないから、あきらめることはしない。
砂漠の狐、ロンメル元帥はヒトラー暗殺に失敗して、「自殺せよ。さもなくば、家族は収容所行きとなる(「知ってるつもり」)」と云われて、自殺した。
小野さんはこの選択をどう思いますか。私は男らしい選択だと考えています。ロンメルが「殺されるまで生きる、家族については最後までどうなるか分からないから、あきらめることなく、彼らの生きる力と運命の手に任す」と考えるとしたら、人間として軽蔑しますな。子供の、家族の運命を「私」が引き受けるのです。子供に対して「死ぬまで生きなさい」、お前を楽しすることは、最後になにがあるか分からないから、しない」と告げるとしたら、そこで私は子供の運命を自らが引き受けることを放棄したのです。つまり、沈黙した。そこで、全ては子供の手に委ねられる。子供はなにもできない。ただ、苦痛だけが待っている。絶望視ながら、子供は死ぬまで生きることになる。
「他者の苦痛に対する沈黙」がここにあります。
私の立場ではこれは、非人間的な在り方です。小野さんのお考えはなんとなく分かりました。
セイ・オールド男
なんだか、同じ問題について話をしているようにみえて、それぞれが、本当は違う問題について自分の考えを語っているように思えてきた。小野さんの問題にしているところと、小生のそれは、実は違うのではないか。
「生きようとする意志」という言葉で考えた時期があります。小生の思秋期を巡ってです。小生人間は生物だと、当たり前のことを云うようですが、そう考えとります。一枚一枚剥がしていくと、生きようとする意志が顕わになってくる。最後のところで、この意志が生かす。そんなことを考えた。その傍をぴたりと絶望が併走するというを知るようになったのは、そう古いことではないですが。果たして知っているのかどうか、それは怪しい。
自分の生と死観は、生きるだけ生きる、死ぬ時分に死ぬ。癌になったら、身体の自然が、時を告げたのだと考える。その時は生の終わり時と見なしている。近藤氏の「患者よ癌と闘うな」は共感するところ大。しかし、残されたもののことを考えると、そうも云えない。幸い、いまは病らしいものはないが。時分の考えを果たして貫くことができるかどうか、定かではない。私の読みは、小野さんは「生きようとする意志」の一点を強調をされているのではないか、というもので
す。
yamabiko
自殺のハナシをしているのですか? 自殺と安楽死は全く別。自殺を止める論理はない。するのも勝手(つまり自殺者を処罰してもしようがない。あるいは自殺連座処罰制?でも設けるならば別だろうが。自殺者を出した家族は全員死罪。あるいは財産没収、など。自殺防止には役立とう。もちろん、保険金は一切出ない、とか)
安楽死は、他殺もしくは自殺幇助をアル場合にみとめる! というのだから議論になる。コレを議論しないのなら、興味なし。
アルキメデス
アルキメデスさんがチョイト前に引用された中の、「一大事因縁」ってえのは何を指しているんでやんしょ?
「仏家一大事の因縁」ですから仏教者となるにいたった根本の、もっとも大切な因と縁、つまり目的ということになります。生死の真理を自身から明らかにする(=サトリ)ということが根本であると……。
2001-04-21
『思考のレッスン』丸谷才一
知識の豊富な人の本だから、まあ、それなりには面白い。読んで損はしないと初めに断っておこう。レッスンというタイトルがついているものの、押しつけがましさは全くない。その上、対談形式なので大変わかり易い。
読書に対して何を求めるかは人によって様々だろう。十人十色であってしかるべきだし、狭い考えでかくあるべしなんて言ったところで誰ひとり見向きもしないに違いない。楽しむために読むもよし、学ぶために読むもよし、暇つぶしだって構いやしない。
一読後、考えさせられたことは、私自身が読書に何を求めているのかということだった。それは、本書が私の求めている「本」ではなかったことを期せずして証明していることになる。結構スイスイ読めたにもかかわらずどうしてこのような思いに駆られるのか。
丸谷才一と聞けば、軽妙洒脱なエッセイを思い出す人も多いだろう。小説も書くし、手掛けた翻訳も数多い。その上、古典にも造詣が深い。そうでありながらも学者然としたところがなく、遊び心を大切にする知識人といった印象が強い。
面白い話が多数、紹介されている。例えば、歌舞伎がキリシタン劇に端を発しているという仮説なんかはたまげた。歌舞伎で使用する小道具がイエズス会演劇を描いた古い絵に出てくることを紹介。イエズス会演劇がバロック演劇の一分派であることに注目し、名誉・復讐・裏切り・陰謀といったモチーフの共通性を挙げ、歌舞伎とバロックの語源にまで迫りトドメを刺す。歌舞伎はご存じのように「かぶく」の連用形で、かたむく、常軌を逸する意。これに対してバロックはスペイン語の「バロッコ」に由来する言葉で、変形した真珠を表わすとのこと。生命力がありすぎて球形になることができずに歪んだことを示す。丸谷曰く「どちらも生命力の過剰ですね(232p)」。思考の空中ブランコを眺めているようで、息を飲む手応えがある。
膨大な読書量と該博な知識の人物が説く逆説的なアドヴァイスも警句の余韻をはらんでいて楽しい。例えばこう。
一番大事なことがもう一つある。それは、まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。
名は体をあらわすとはよくいったものだ。この本を読んでいると「才」の字がどんどん大きくなって読者に迫ってくる。だが「才」は興味や関心を引き立てることはあっても、感動で打ちのめすことはできない。知識がひけらかされるごとに心が冷めてくる場合すらある。ハッキリいえば、脳みその表面では刺激を感じながらも、魂に触れる一節は皆無であったということだ。
私が求める書物は、ページをめくるごとにそわそわさせられ、読み終えるといてもたってもいられなくなり、本を閉じた途端、新たな変化へと猛烈に促すような本である。その意味で本書は、ためにはなるものの、魂を殴りつけられるような感動は無い。
私が書店で丸谷の本を発見した際は、素早く右隣にさっと目を配り丸山健二の作品を血眼になって探すのが常である。
2001-04-20
作家の声
抑制された爽やかな声だった。論旨も明快。整然とした話し方だ。学生からの質問に対しても、一旦は質問者を持ち上げておいてから、自説を諄々と説く。ユーモアもあり、リズミカルに笑い声を誘い出している。少し耳を慣らすと、口吻(こうふん)に締まりがないことに気づく。育ちのよさが現れたものだろうか。はたまた、誰もが耳を傾けてくれることに甘えた仕草なのだろうか。写真で見た風貌から勝手に精悍なイメージを抱いていたが、やや覆された感がある。
丸山健二が嫌悪している三島由紀夫その人である。1968年(昭和43年)、早稲田大学で行われた講演と質疑応答の録音を聴いた(『学生との対話』新潮カセット・講演/1988年発行 2880円)。「盾の会」結成の2日前。この講演から2年後に割腹自殺を遂げる。
どこかで似た話し方を耳にしたことがあるなと記憶を辿ると、石原慎太郎に思い当たった。ふむ、確かに似ている。政治信条も同じだしね。
政治から経済へと季節替わりをする時代の背後では、熱に浮かれた学生がゲバ棒を振り回していた。こうした時に学生の中へ分け入り、差し向かいで対話を遂行したことは評価に値する。文学の山と政治の峰が、まだ両目に映る範囲にあった時代の寵児(ちょうじ)といえるだろう。
私は三島の作品は2〜3作しか読んでいないが、生前の声を聴き、ふと彼の体温を感じたような気にさせられた。
追記
数日後、拙宅を訪れた友人にこのカセット・テープを聴かせ「誰かに似てると思わない?」と質(ただ)したところ速攻Aクィックで「慎太郎でしょ」との答えが返ってきた。こうなってくると瓜二つと言ってもよいかも知れない。
2001-04-19
「安楽死」を問う! 2
山野健一郎
高齢寝たきり老人が注射をキッカケにして安らかに死んだ旨の話よく聞くけど、これって何なんだろう? さらに、家族は医者を問いたださないし、責めないらしい。
家族の様子を察して医者が気を利かせて安楽死させているのか?
小野不一
そりゃ「暗黙(の了解)死」。
アルキメデスさんが紹介してくれた鉄舟の死に際は芸術的ですね。本能がどんどん退化し、身体能力をさほど発揮することもなく生きている私達が、果たして、迫り来る死を自覚することが出来得るのでしょうか?
為すべきことを果たし切った満足感が無ければ、それは無理に思える。その意味で私は、中途半端な死(生)、生きながらの死が一番恐ろしい。
産業革命はオートメーション化に拍車をかけて公害を生み出した。安楽死問題は、西洋医学が生んだ公害に端を発しているのではないか?
のり
母はノルウェイに住んでいました。手の施しようのない癌で、即告知だったそうです。手術もできない状態で、その検査のためわずかな入院をして、その後は家がホスピスでした。痛みの箇所に合わせて複数のクスリを、それと胃のクスリ。痛みが増すにつれ、モルヒネの含有量が増えていきます。「クスリが無いとたいへんなのよ」と話していました。そうして、ついにはモルヒネ100%になってゆくのですが、母はその手前で意識を無くしたんです。それで入院したのですが、3日後に亡くなるまで鎮痛剤でした。
病院は自宅からクルマで10分程の所。週2回、癌の専門医とナースがボランティアで訪問してくれます。更には24時間態勢で、ヘリコプターが母のために待機させられていました。
日本での癌治療は延命? 抗癌剤と放射線治療、副作用の苦しみ。患者の痛みは無視されているのですか?
ホスピスの充実、痛みをとる治療を、まず確立させるべきではないでしょうか。
のり
わたしも安楽死は反対。必要なのは安楽死ではなくて、痛みを除く終末医療。
壮絶な痛みなら、できる限り取り除いてほしい。取り巻く家族の負担や苦しみも考える。同時に、安楽死を受け入れるサインを大切なひとにさせたこと、その人が抱えていく深い悲しみと後悔にも想像を及ばせる。植物状態になって、自殺するための手足が動かなくてもそれを受け入れる。それが運命ではないの? それが寿命ではないの?
小野不一
死を恐怖の対象と捉え、延命に価値があるという錯覚に取りつかれた結果といえるのじゃないか? 挙げ句の果ては、管だらけの身体で生かされてしまう羽目となる。今まで人類が行ってきたことのツケが様々な形で現れていると思えてならない。
我が国では終末看護も満足できる状況ではない。
私は人為的な死は一切認めないスタンスなので、当然、死刑にも反対である。
yamabiko
生死は個人のコトであり、他人がとやかく言うべきコトではない。
小野不一
じゃあ、チト、大将の話しを具体的にお聞かせ願おうか。まず、自殺は認めているんですよね?
では、それが如何なる理由に基づいたものであったとしても、その判断、及び行為は尊厳なものとする考え方なのでしょうか?
例えば受験を苦に自殺しようとする高校生がいたとする。これに他人は口を出すべきではないというのでしょうか?
また、イジメで悩む小学生が実際に数多く自殺しているわけですが、これもよしとするのか?
それとも年齢に制限があるのか?
あるいは鬱病の方の自殺についてはどうか?
自殺とは異なるが、若者が暴走行為を働いて事故死するケースなどはどうか?
中小企業の社長が業績不振に苦しんだ挙げ句、自殺することも多い。自分が死ぬことによって家族等に新たな苦しみを与える点については、どのような考えを持っているのか
過去には狂信的な宗教団体が集団自殺を行っているが、これに関しては如何(いかん)?
あるいは名誉の戦死は、どうなのか?
小野不一
「干渉」という言葉は、関わり合い、触発、共感、啓発、切磋琢磨、等々、こうしたことを否定する響きがある。便利な言葉だが、私が生活の中で使用することは、まず、ない。
よく受け止めれば、自立を前提としているようにも思えるが、その本質には、人間と人間とのつながりを否定する、無慙な精神が覗いている。
小野不一
「干渉するな」という思考から生まれるのは、「我関せず」という姿勢であろう。無関心がナチスを育んだことはご存じの通り。
yamabiko
さっそくお得意の文脈無視が始まったな。安楽死と、尊厳死に関するオランダの記事読んだ? オランダで↑を認めているか? 医者が認めるか?
いかなる判断行為も尊厳、と誰がいったか? それこそ、なんのスレッドかをチェックして欲しい。
せいやん
祖母92歳。老人ホーム歴6年くらい。8年くらい前からボケてる。
家族共倒れなんて他人事だと思っていた。家で介護してた頃は、死んでくれと思ったことは、何度もある。
90まで生きれば、いや、生かしてもらえれば、もういいでしょ、って感じ。
私、冷たい?
小野不一
自分が死のうとどうしようと、勝手だろ?
いつでも、どこでも、死んでいいのだよ。
と言ってやれば、救われるひとの何と多かったこと、だろうとおもふ。
けふ、このごろ。
逝きたいひとは、逝けばいい。
生死は個人のコトであり、他人がとやかく言うべきコトではない。
などなど。
そうした発言は、生命それ自体よりも「本人の判断」を尊厳視するからではないのか?
原理的な問題として、1+2=?という問題を今論じているわけではない
というが、共通原理を模索すべきではないのか?
安楽死問題によって価値観の根底があぶり出されていると私は考える。
小野不一
「私は、自分がだれなのか分からなくなってまで生きていたくない。我が子も分からず、排泄や、人の世話になっていることさえ分からなくなったら、生きていると言えるでしょうか。私はそういう状態になったら安楽死させてほしい。それが保証される制度を作ってほしいと思います」
これは東京の主婦(65歳)の投書。
安楽死に賛成する人の多くはこうした思いが根っこにある。「生き恥をさらすよりも死を!」そんなスローガンが聞こえてきそう。私は賛成できないな。
yamabiko
↑で、ズラズラ、私が言った、逝く人は逝けばいい、と言った例を並べている。
自殺について言えば、そのとおりである。
だから、コレはナチ、につながるとかいうのはちゃんちゃらおかしいぜ。いまだって、アフリカでは多数の人間が餓死している、というし、非文化的な生活をしている。それにたいして、手も足も出ないのだろう? エーコぶるのは やめんさい。
yamabiko
ひとは、自分の意思で生まれたわけではない。だから一定年齢に達したら、生まれてくるべきであったかどうかを判断してそうでない、とおもうひとは命を絶つ、というせいどはどうか?これが、何でもかんでも生き抜く、という一本道を歩む、猿、とそうでない人間の差だ。
↑で、生き恥、とかいっているが、そんなもんではないだろう。何でもかんでも生きる、というのは、内臓移植してでも生きる、という根性とおなじ。みっともないことである。 生、とはそれほどのもんか?
小野不一
せいやんが冷たいとは思わない。ただ、その場合は安楽死云々というよりは、介護の問題ではないでしょうか? 現実に御苦労されている方々の心労は大変なものがあると察します。
小野不一
覚醒剤や暴走行為など、快楽のために死ぬことは、皆さん、どう思いますか?
ま
はじめまして。ここに書き込んでる人達は、まあ少なからず頭使って生きてる人達だと思うから実際法律がどうなろうとそんなに自分を見失わずにいられるんじゃないかな?と思います。
でも、ジャパン人って一般的にはとても世間の目とかのプレッシャーに弱いでしょ?もしくはそれを逆に糧としてる人達も居ますよね。個人的には安楽死なんてどうでも良くて、他人がどう死のうがその人の勝手だと思うんだけど、安楽死を立法化すると、なんか死ななきゃいけないような気がする人がいると思うのね。
お母さん、安楽死って知ってる?ココにサインすればいつでも死ねるのよ。あらいけない、治療費の請求書落としちゃった。気にしないでね。なんて事を嫁に毎日言われたらどうでしょう。
治る見込みがなくても死にたくない人はたくさん居ると思う。僕もそうだし。安楽死が定着すると、安楽死を選ばなければならない様な風潮が出てくる様な気がして恐い。別に安楽死なんて法律をわざわざ作らんでも本当に死にたい奴は病院の窓から飛び降りて死ねば良い。きれいに死にたいなら睡眠薬ガブ飲みすれば良い。覚醒剤、暴走行為しかり、死のうと思えば簡単に死ねるんだしね。
ナジ
ちなみによけいなことですが、睡眠薬がばがばのんでもいまはしねません。飲んだ後に、風呂で溺れるとか、手首を切ってもそんなに簡単にはしねませんね。ためしたことありますよ。
死ぬのも大変なんだと思います。だいたい↑どんなに憎んでもわしはこんな嫁にはならないね。実の息子、娘に言われる母親父親の方が多いかもしれんとは思います。
安楽死とは関係ない話ですけどね。
yamabiko
お母さん、安楽死って知ってる? ココにサインすればいつでも死ねるのよ。あらいけない、治療費の請求書落としちゃった。気にしないでね。なんて事を嫁に毎日言われたらどうでしょう。
さまよへるオランダ人、に きいてみよ〜!
セイ・オールド男
オランダ人は彷徨って港に着いたのか? ようやく、死を死ぬオランダ人は死ねるのか、など、朝から哲学的じゃで。
ナジ
ついたはついたので、彼等の魂のためにある女の人が殉教するんでしょ。そこらへんの演出がかなり問題になるらしいのだけれどはたして私の記憶が正しいのかそうなって欲しくてそう思ってるのか今はもうわからない。本をすべてそうこにしまってしまったからしまったなあ。。寝起きに哲学も音楽もないなあ
小野不一
「ま」さん、ようこそ! もうチョット長いハンドルにしてくれないッスかねー。大事なことを書いてくれました。議論が盛り上がったところで、私もそのことを書こうと思っていたんスよー。
施すものが少なく、施されることが多くなった人々が、非常に生きにくい社会となってしまうでしょうね。
のり
91歳の祖母は、新年を迎えると年賀状のかわりに友達に電話をします。毎年、去年もお迎えが来なかった、と言っています。お迎え、なんて言葉いつか無くなっちゃいそうな。みんな積極的になっちゃうのかな。
ナジ
家のアルツのハハは毎日毎日この何週間か兄と兄嫁のいない時間帯に、電話魔になってしまうらしい、その度に相手は何度初めてかけられたような事を言われて昨日だったか「迷惑かけてますでしょう?」ときいたら「はい、いい迷惑かけられてます。おかげさまで電話ノイローゼになりました。」とはっきりまじめにいわれまして、、それでも娘の嫁ぎ先にはかけても無駄だと言う気持ちが残っているのでしょう。まだ、1週間一度くらいです。私が先に逝って迎えに来てあげたいくらいです。
ま−
小野さん、と愉快な仲間達さん。勝手におじゃましました。どうぞよろぴく。ご要望にお答えして名前に「−」をつけました。
睡眠薬じゃ死ねないんですか……ショックですね。良かったらキレイにラクに死ねるもの紹介してください。誰でも手に入るものでね。バファリンとかじゃ駄目?
アルツのお母さんの相手って大変でしょうね・・アル中のお母さんの相手するだけでもかったるいもの。
アルツって安楽死の対象じゃないですよね?
小野不一
ま−さん、ようこそ!
安楽死が社会的合意を得れば、アルツハイマー患者は殺されかねない。家族のための安楽死。「生前から申しておりました」などと口を揃えて言い出すに違いない。
安楽死は新時代の姥捨て山か?
セイ・オールド男
法律では「安楽死」の要件はかなり厳しいものとなるはずです。要件を満たさなければ、殺人罪。小野さんの恐れは広げると臓器移植にも繋がります。主観的、客観的な要件を満たした、苦痛からの解放が目的。多分。
それでも、社会的コスト考からの現代版楢山節考がどこか響くのが不気味だ。
ナジ
かったるいだと?
ナジ
どんなかたちになっても親は親なんだと思う。それをおかったるいといわれたらおこります。
教えてあげましょう。そんなに死にたいのならはさみでけいどうみゃくぶっちぎってください。
ただし後片付けしてくれる人がかなり かったるい でしょうね。どこに鎮痛剤のばっふぁりんでしのうとかんがえるやつがほんきでしのうとかんがえてるとはおもえんなめられてんだろうか小野さんと仲良くしててください。
のり
亡くなった母方の祖母は、早いうちからアルツです。兄がみています。プライドの高い、気の強い祖母で、世話はとても大変だそうです。几帳面な兄嫁は、誰かに頼ることを潔しとしなかったため、家中でひとりで抱え込んでノイローゼになりかけました。今はホームに入っています。が、重症の人が優先なので、体力的には元気な祖母は、いつ退院させられるかわからないといいます。特養ホームの入院資格審査では、その性格が災いしていつも却下されています。
兄は気にするなと言いますが、義姉の気持ちを思うといたたまれなくなります。
yamabiko
誤解がありますね。殺人、とするかどうかを、議論しているのに、現行で 殺人である! と騒ぐのは、議論として間違っている。現行法はすべてリセットして、議論すべきです。殺人でない、普通の行為なんだよ、といえば(あたかも道を歩くこととおなじ)、良いわけです。予断、で 悪いこと! と決めてかかる人とは、議論しにくいですね。(世間体、を気にしているだけでしょ?)イノチを停止すること、悪!、長生きすること、善!とする 常識がいかに、われわれに巣くっているか、これを まずぎろんしたほうがよいようです。
セイ・オールド男
正確には殺人は殺人だが、違法性が阻却される、殺人罪には問われない。ボクサーがリング上で相手方を殴って、その結果殺しても、殺人罪には問われない。ボートで漂流している三人。二人分の水・食料しかない。一人は海を泳いでもらわなければならない。で、そうする。無事、陸にたどり着いた二人は一生その行為を悔い、お金も払わなければならないだろうが、少なくとも殺人罪を問われることはない。緊急避難の理。それと同じ。「生前から申しておりました」では、「それじゃあ、足りませんね」と言われて、追求されるでしょう。恐いのは、仮に安楽死が認められたとして、要件云々が曖昧にされること。天網恢々ではないとしても、疎にして漏らす、このこと。
yamabiko
つまり、殺人、という事実ではなく、ツミ(世間体)をもんだいにしてるってことです。世間(違法性)を、阻却しましょう。
yamabiko
緊急避難、と、ボクシングは、ちがいますよ。ボクシングは、公認殺人ゲーム。酔っぱい運転で誤ってコドモをひき殺すとごーごーたる非難を浴びるけど、憎い相手をリング場で殴り殺してもなんにもいわれない。その程度のもんですよ、世間の 死 の認識は。(ボクシングは非人間的として反対しているグループもある)安楽死反対、を叫んでいる人間が、ボクシングをまさか正視しているとは、おもいたくありませが。
山野健一郎
日本で2番目に重い神輿担ぎから帰って来ました。余りにも重過ぎて死ぬような思いをしました。
ところで、話が進んでますね。安楽死については、他者の安楽死に関することや法技術の問題があると思いますが、それを細部まで検討していると、キリがないように思えます。そこで、まず、第一に検討した方が良いと思うことは、正常な意志能力・判断能力を持っている自分が、耐え難い苦痛に直面した場合、安楽死を選択するか否かということです。自分自身の安楽死を検討しなければ、他者の安楽死の方向も見えて来ないように思えます。
細部は法技術、医療技術、科学技術……により検討し、改良を積み重ねながら、より良いものを創りあげていくしかないと思います。
最低でも、正常な意志能力・判断能力を持っている者が、耐え難い苦痛に直面し、安楽死を選択したいと希望した場合には、その希望がかなえられる仕組みが、良いように私は思います。
セイ・オールド男
あの、ボクシングの場合はもちろん緊急避難じゃないです。正当業務行為。法令による行為として、「正当業務行為」、「正当防衛」、「緊急避難」を違法性阻却事由としています。
行為、違法、責任で言えば、違法性が抜ける。だから、犯罪にはならない。
小野不一
結局は、「耐え難い苦痛」への恐怖が「死」の恐怖を上回るということか。治癒の見込みがあれば耐えることができ、それがなければ死んでもらうということなのか。
苦痛の対極にあるのは「快楽」だ。モルヒネの投与などに見られるように、補完し合う関係である。
苦痛のために死ぬことが許されるのであれば、快楽のために身を滅ぼすことも許されてしかるべきではないか。
ノリ太
お久しぶり! 週末はイースター(復活祭)でお休みだったんもんで。(あっ、おいらは海外に住んでるんだ)盛り上がってますなー。ところでさー、オランダの「安楽死法」って死にたい人は死なせてあげましょうって言ってるのかー? そもそも「安楽死」ってなんだい?
ノリ太
小野殿、身近な人の死に直面したことがないんじゃないか? 自分は1回しか死ねないから、そん時になってみないとわかんないだろーけどさ。例えばだ、小野さんが余命6ヶ月しかないとする。死ぬ前にタバコが死ぬほど吸いたい。でも皆が反対するんだ「寿命が縮まる」ってね。「あと3ヶ月の命になったらどーするんだ」って。吸わずに我慢して6ヶ月生きるのか、思う存分吸って、3ヶ月満足して生きるのかってことじゃないか? 安楽な死というのは。「安楽死法」を論じるか、「安楽な死」を論じるか。
山野健一郎
苦痛のために死ぬことが許されるのであれば、快楽のために身を滅ぼすことも許されてしかるべきではないか。
上記の身を滅ぼすこと=死ぬこと とし、苦痛、快楽、死ぬ、生きる を組み合わせてみます。(安楽死とは少し離れるかもしれませんが)
(1) 苦痛のために死ぬ
(2) 苦痛だけど生きる
(3) 快楽のために生きる
(4) 快楽だけど死ぬ
4パターンが考えられるが、どれも善悪は無いように思える。
基本的には自主性を尊重したいところ。しかし、肉体の耐え難い苦痛以外は、死を選ぶ必要はないと、私は考えている。精神の耐え難い苦痛は、なんとかなるし、なんとかしなければいけないと、私は考えている。
yamabiko
山健さんがいうように まず 自分の問題、を議論すべきなのですよ。それを、これをみとめると、どうなる、という大所高所、からぎろんするからおかしくなる。治療法もない、家族に多大の苦痛を賭ける、自分も苦しい(苦しくなく、家族に負担をかけない、なら話は違う)というときに、死と言うオプションを残すのは当然のことだと、おもう。これは人に適用するのではなく自分がそれを選び、その旨を、表明するのだ。人に強制するのではない。これを認めると、社会がどうこうなる、というのは堕胎を認めると社会が乱れる、というのに等しい。もちろん、安楽死とか尊厳死ヲ認めないヒトは、堕胎も認めていない、と、考えたい。堕胎を認めて安楽死とか尊厳死を認めないのは、論理的におかしい。つまり受胎(当人の意思無く、生まれさせられる)以後、生命はある、というのは事実であり、これを親の自由でツブスのは犯罪、という立場は宗教を離れてあり得る。また、本人の意思とは関連なくこの世に生まれさせられるのは人生最大の矛盾である。したがって、一定年齢に達したら、生まれたのは間違い、生きたくない、という選択させるのはどうか?とさえ私は考える。
yamabiko
カリに 安楽死法、が日本で認められたとしても、これを適用して死を選んだひとの家族は、冷たい目で見られるのではないか、と私は予想している。それほど ドウしようもない国なのである。アレフ(もとオウム)の信者家族は、とうにんになんの罪もないのに、いまやさまよえる人間ではないか? 住民票を受け付けません、と市役所などが、ドードーと宣言しているのだから。 憲法など、あってなきがごとし。安楽死法、など あってなきがとごし、となるだろう。
まあ 安楽死法を適用しても 引っ越せば住民票を受け付けない、ということはあるまいが。
米国の堕胎は大変だ。これを行う医師はコロされ、その病院にでむくひとは狂信的な信者にずっと、つきまとわれる。
小野不一
小野殿、身近な人の死に直面したことがないんじゃないか?
今までに20人ぐらいの死を間近に見てきた。下は14歳から上は80代。その内、半数は40歳に満たない方々だった。
ノリ太よ、のん気な議論をしている心算はないぜ。
小野不一
私は安楽死は大所高所から論ずべき問題だと思う。それは、昨今の社会問題が生命を軽視する風潮から生まれていると考えるからだ。
人間は生まれるべくして生まれてきたのだ。受精は単なる偶然ではあるまい。
生きるに値しない世の中だから、死ぬ自由を認めるというのも頂けない。それは主体性を尊重しているようでありながら、結局は、環境に支配された不自由な選択ではないだろうか。
人のいのちがそれほど軽いものであるとするならば、他の何に価値の重きをおくというのか?
yamabiko
大所高所から論じるから、軽視されとるんだよ。
オカルト派とつきあっているつもりはないぜ。
アルキメデス
これは宗教観の問題ですね。自分は無宗教である、という人でさえも、そのように信じている限り、信仰となんら変るところはありません。大所高所は、その人の宗教観によってポジションが違うわけです。
【道元の言葉】
生を明らめ 死を明らむるは 仏家一大事の因縁なり、生死の中に 仏あれば 生死なし、但生死即ち 涅槃と 心得て、生死として 厭うべきもなく、涅槃として 欣うべきもなし、是時初めて 生死を 離るる分あり、唯一大事 因縁と究尽すべし。
これは、道元の『正法眼蔵』から抜粋して編纂した、曹洞宗の『修証義』の冒頭にあり、僧侶・信徒はお勤めに使っています。(私の宗旨は違いますが……)
yamabiko
無宗教、という宗教に、どのような教義、があるのでしょうか?
アルキメデス
無宗教、という宗教に、どのような教義、があるのでしょうか?
私は、無宗教は信仰と変るところがない、と書いています。無宗教は、宗教のたぐいである、とは書いておりません。無宗教の人とは、程度の差はあれ、「私は聖なる事物を信じないし、拠り所ともしない」という立場の人だと信じております。こういう、自分の行動理論(教義)に、何らの疑いを持たない人ということです。この「何らの疑いを持たない」ということを「信仰」というのです。なにも、読経したり、踊ったりすることが宗教なのではありません。
ノリ太
ノリ太よ、のん気な議論をしている心算はないぜ。
のん気なつもりじゃないけどねー。
yamabiko
アルキメデスさんのいうのが宗教なら人間はみな宗教をもっているということになります。私のコトバでは、文化であり、幻想。しかし、これは 日常言う、宗教、ではないとおもいます。
現実、オランダとか米国で、安楽死や堕胎する自由をまもっているヒトビトに対して イヤガラセをおこなっているのは、宗教団体、である、というときの宗教とは 異なります。こういう宗教団体は教団の教義、を根拠にして反対しています。 これが私の当面の敵。つぎに、教団の教義とは関係なくオノレの信条として反対しているひともある。こういう人に対しては、オノレの行動はオノレの自由だろ?といいたい。 安楽死などを、人に勧めるのは、犯罪です。オノレが意思表明する自由を与えろ、といっているだけ。
ま−
ナジ様、この度は私の配慮に欠けた書き込みで不愉快にさせてしまい大変申し訳ございませんでした。ご指摘の通りバファリンを飲んでというのは冗談であり、本気で死のうとは考えておりません。かったるいというのは私のアル中の母親に対しての率直な感想でありナジ様のお母様への言葉ではありません。アルツとアル中をかけたかっただけでありまして他意はありませんが並べて書いた事に配慮が欠けていたと反省いたします。その他の方でも不快な思いをされた方がいらっしゃいましたらお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。
ナジ
おはようございます。まー様
どういうわけか、気がついたら何もつけないで寝ていると言うお間抜けな朝でございます。
え? っそおんんな、、悪い事なんかしてません……。昨日きっと暑かったのですわ。こちらは異常気象なんですのよ。4月と言うのに初夏の陽気です。変ですわ。
ところで、冗談はさておいて……
これでも、わたくし、こころやさ、ごほっごほっ貞淑な人妻でございますの。(なれない事をいおうとするから持病のしゃくが、ちがう気管支炎が……)私もつい言い過ぎましたね。感情に走りやすいのは
その時に飲んでいたからです。
こういってしまえばとってもずるいのかもしれませんが、てめえで自殺したいと言ってるわりには、まったく関係ない赤の他人が、死にたいと言うのは何としても阻止したいと言う矛盾した感情があります。だから、優しい言葉を作る前に、先にどうしたらいいんだよーーというどうしようもない、悲しい怒りが前に出て、文字だけ見たらものすごく捨て鉢のような、いやらしい表現になってしまいます。
あのね、まーさん
私は関わった人がどんな意味でも自分より大切になる時がある。
それが、たかがネットだと言っている人たちには理解できない事だとしてもそんな思いもあると言う事で、自分ではかまわないとおもっている。だからこうして文字であなたに謝られるとものすごくつらい。
だってね自分で死にたいと言った時点で多分いろんな意味であかの他人のあなたのどこかを不快に刺激してしまったと思うからです。
ほんとに死にたいのなら何も言わないで死んでるはずだものね。死ぬのは個人の自由なのですものね。それをいちいち公の場所に持ち出すのが言葉をいたづらに使っているとしか自分でも反省の余地がありませんね。本来言葉には魂があるはずなのに、どうもそれを忘れてしまっているようだな。
だから、私も配慮にかけていた事になるから、あやまります。ごめんなさいね。てれくさいから、少し オフ 酒 して話してます。
個人メールでこのような事を話さなければならないのでしょうが、あなたがどこのだれだかわからないので、ここでこうして、ふんどしさせていただきました。
真夜中まで起きてないといけないの? 今朝こっちはものすごっくいい天気です。4時と言う時間帯に朝日は見られたんだろうか? 少しは体が休まってるんだろうか?まあ、私も皆様に謝ります。もうしわけございませんでした。
で、気がついたんですけどね、たしかわたし ナジという名前とgavo-22というのとかいちゃった気がしてるんですが、よくど(う)いつだかわかりましたね。それがちょっと不思議。もしかして知ってる方?まさかね。なじ てだろう?
では、今日もはりきってはたらきます。まーさんも元気でね。
2001-04-16
影
丸谷才一の『思考のレッスン』(文藝春秋)を読み終えているのだが、書評が上手くまとまらないので、次号に回すことにした。原稿に困った時は『千日の瑠璃』に限る。
語り手は、会社帰りの工員が砂利道に落とす「影」である。
私を足枷のように引きずりながら浮かぬ顔で歩くかれらのなかに、これはと思う人物はひとりもいない。つとに将来を属目されている者、誰かを見返してやるほどの気概を持っている者、妻の暴言に色をなして反論できる者、頭打ちになってしまった給料のことで経営者に堂々と掛け合える者、そんな男はいない。いるわけがない。
小心翼々として現状に甘んじる生き方を否定するペン先が男の何かをつつく。「そんな男はいない。いるわけがない」とまで書かれては、安閑と座しているわけにはいかない。挑発された読者は背筋を伸ばして立ち上がろうとするはずだ。
2001-04-13
「安楽死」を問う! 1
【※便宜上、論旨と関係ない箇所は割愛した】
小野不一
オランダで「安楽死法」が成立。世界初。これによって12歳以上の安楽死が合法化される。私は断固、反対する。
yamabiko
国家レベルではオランダが初めて安楽死を合法化した。以下がその条件。
1.患者本人の自発的かつ十分に考慮された要請がある
2.苦痛が耐え難く治癒の見込みがない
3.医療措置など合理的な対処方法が他にない
4.医師が事前に第三者の医師に相談した
対象となる患者は、16歳以上だが12歳以上でも親権者の同意の下で安楽死を選択できる。以上。時事ニュースから。
安楽死におれは賛成だ。
小野不一
他の人、どうッスか? このスレッドで久々に盛り上げますぜ。
ノリ太
「安楽死」には賛成。でも、日本ではまだダメだね。だいたい「あなたはガンです」って本人に言えないのに、安楽死どころじゃない。
ナジ
死ねるもんなら、しなせて欲しい。痛いもんは痛いの。でも、父が切り刻まれても生きたかったときに、痛いのだけは取り除いて欲しいといったのが、痛みをとる為の安楽死ならいいかとも思う。必ず死ぬとわかっていたことだったからね。その後で、後の患者さんの為に解剖させてくれてといわれてもお母ちゃんは泣いて反対した。もうこれ以上痛い思いをさせないでくれといった。痛いはずないのにね。結局は回りにいる人と医者の天国だ。死んだらみんな安楽だ。
寝よ。大した話はできないな。ごべんださいで。
せいやん
賛成。
yamabiko
国が、認めるかどうか、関係ないワイ。
ヒトを平気で路頭に迷わせるような、国(ひとの、あつまり)が個人の生き死に、に、口出すな。
つーこと。
アルキメデス
家族が、さっさと死んで欲しい老人をブスリとやってしまうのは、あまりに非人道的だとて、アヤシイ医者に頼んで安楽死させる。ということもあるかもしれません。くわばら、くわばら。この、アヤシイ医者を「安楽師」と呼ぶ、とか……。
やはり『ソイレントグリーン』みたいに、安楽死センターが必要。国でなく、葬儀社が経営する民間のセンターがよい。アヤシくないことを示すため、ISO9001-2000認証取得するなど、条件整備が必要でしょう。
もちろん、臓器を移植に使ってはダメ。
小野不一
ゲゲッ、みんな賛成なの? 拙者は断固、反対す!
では、基本的なことから行きましょう。安楽死と殺人はどこが違うのか? また「心の安楽死」ともいえる(本当か?)自殺に関してはどうでしょう。
gavo-22
おかげさまで30分以内に、このことについて書き物を仕上げさせていただきました。喜んでおります。ありがとうございました。(マネージャー一同)
yamabiko
フイツさんが反対なのは、何に反対なんだ? 立法化に反対なのか?
生きているだけ(植物人間)、苦しくて生きているのが辛いというヒトが、事前に尊厳死(安楽死)の道を取ることを家族に話して了承を得ている場合(+複数の医者)、であっても、そいういうヒトを生かしておけ、ということ?
生きている(呼吸している)といことにどういう、価値と意味があるのか? 誰が、ある個人の生き死にを、左右して良いのか悪いのか?
ということだ。
小野不一
人間が意図的に死を選ぶこと、それ自体に反対。
yamabiko
もう、議論の余地なし、ってやつだな。別室にお引き取り願おうか。
ヒトがヒトの行動を束縛する、ことには賛成? 反対?
小野不一
自説を正しいものとして、対話を拒否する姿勢には賛成? それとも反対? 議論を単純化して結論を急いではならない。大将はどうせ、自殺もオッケーなんでしょ? 全ては脳味噌のなせる業(わざ)。
他の方、どうッスかー?
ナジ
最後の悪あがきです。
仏教徒なら反対するでしょう。なぜなら灰になっても人は人仏になるからです。
神道も一緒でしょう自然に逆らって死ぬのをよしとしないでしょう。
だら、キリスト教はどうでしょう? 体はただの器に過ぎないから臓器はくれて当然だし、安楽死だっ……だめだろう! 魂の救済をするのが目的だからだ。痛みなんか関係ない。だから、死刑囚だって殺さないでくれというんだろう。日本は特に被害者の気持ちの救済よりも死刑囚を大事にしてるじゃないでーすか。
新興宗教だったら別かもシラン。自殺する集団が後をたたん。
だから、わしは痛みに耐えられなくなったら病院では死なん。太宰はんする。龍之介はんする。一人でする。家族もなんも関係ないところで像さんのようにネコのようにそれをする。痛みに耐えられなくなるまで、うんとこさがまんしてそれをする。
セイ・オールドマンさんが、「逆もまた真なり」とおっしゃった。どう思いますか?
他の方はどうやって死にたいですか。宗教も国も身内も救いにはならん。神なんかいないんだ。
身内の目を落とすときに、きっとわかるんだとおもう。だから病院では死なん。死なせたくないんだな。
せめて病院なら好きな人に手をとってもらえるならさようならがいえるのならがまんしていられるだろうか? それどころじゃない気もするけどね。
この国では臓器をいじくれても簡単に死なせてはくれないよ。死は科学が邪魔をするんだと思う。再生できるという神話がまだあるらしいからな。
ああああああああああああああ! あったまわるいのにくるんじゃかかったわい。
寝る。
ノリ太
小野殿、「自殺」と「安楽死」は違うんじゃないかなー? もちろん、安楽死は自殺の中に含まれるわけだけど。「尊厳死」というべきかな。 安楽な死を選ぶ権利があってもいい。もう目前に苦痛と死しかない。その時にどうするかを自分が決める、それくらいの意思は持つべきだ。
yamabiko
自殺もOK? それよりも、原理的な問題として、1+2=? という問題を今論じているわけではない、ということだ。
私は死ぬのがイヤだ、というヒトを、殺そうとしているのではない。死にたい、というのを外部からとどめる論理はない、ということだ。
宗教で何を言っているかは一切関係ない。宗教とは人間が造ったモノだ。新しい宗教を個人個人でつくつべきだろう。オノレの考えと、外部(国、社会、家族)の考えが違う、ということがある。そのときどうするか? じぶんできめればよい。オランダやオレゴン州でどういうことが実際に行われているか? をみればよい。あるいは自分の家族でおなじ問題が起こったらどうか?ヲ考えるべきだろう。そうでないと、空論になる。
ナジ
なんだか、yamabikoさん、ちょっといってることが、いっつも南無阿弥陀仏の方じゃアないですか?
まあええ。
ノリ太さん、おはようございます。確かにね、自殺を尊厳死としてもいいとおもう。でも安楽死ではないね。苦しいはずだからね。
やられたほうは悔いしか残らないかもしれないけどね。死なれたときはそうおもったよ。おれもなにいってんだかわかんね。
山野健一郎
皆さんのを読んでいると、両者ともナルホドと思う。まだ、はっきり自分の考えが整理出来ていないが、とりあえず書きます。
良し悪しは別として、また、法整備の瑕疵は別として、安楽死の基本概念(様々なパターンあると思う)は、病苦や激痛などに耐えられない場合、自らの意志で死を選択することが出来るか否か、ということだと思う。
- 安楽死認める
- 死を選択出来る
- 死ぬ自由=己の死に対する自己責任あり
- 死ぬ権利あり=死に対する義務あり(どんな義務なのか?)
- 安楽死認めぬ
- 死を選択出来ない
- 死ぬ自由なし=己の死に対する自己責任なし
- 死ぬ権利なし=死に対する義務なし
選択できない社会より、選択できる社会の方が、過ごし易いようにも思われる。安楽死を認めない人は、己が病苦・激痛でも安楽死を選択しなければ良い。選択出来ない社会は、やはり、息苦しいと思う。
山野健一郎
安楽死を認めない人は、己が病苦・激痛でも安楽死を選択しなければ良い。安楽死を認める人は、安楽死を選択しない自由を認めるはず。
自分が安楽死を選択しないからといって、他者にもそれを強制する権利あるのか? もし、強制する権利を認めた場合、それに対する義務を履行できるのか? そして、その義務とは何なのか?
yamabiko
内臓をくり抜きたいセンセたちが、死にたい人をまっている。もちろん、若くてピチピチ、している人がよい。
死にたくなる人は、DNAでその傾向がつかめるそうだ。そらそうだわな。DNAを調べなくても、顔に書いてある。
山野健一郎
1.自由がなく責任もない社会を目指すなら……
己の死に対しても自由でなく自己責任もないことにすべきであろう。自由にさせない見返りとして、社会が死に責任を持たなければいけない。
2.自由と責任の社会を目指すなら……
己の死に対しても自由で自己責任とすべきであろう。社会は死に責任を持たなくてもよい。
3.自由があり責任のない社会を目指すなら……
原始時代か? 社会が成り立たないと思う。
4.自由がなく責任のある社会を目指すなら……
封建時代か? 息苦しいと思う。
yamabiko
かなり息苦しいね。なぜ息苦しいかと言えば、
- 自由がある社会、ない社会
- 責任ある社会、ない社会
……これはどんな社会だ? んで、今はどうなんだ? 誰も答えられんからだ。したがって、↑の文は意味がない。客観的な基準がないとイケンね。日本国憲法をもっている国は、自由かつ責任ある社会であ〜〜る、かな?
山野健一郎
yamabikoさんの23のことは考えずに、とりあえず、パターンだけ組み合わせてみました。
1.個人に死ぬ選択を与える → 死の選択は自己責任で、社会も責任を負う
1-1.苦痛の生は自己責任で、社会も責任を負う
1-2.苦痛の生は自己責任で、社会は責任を負わない
1-3.苦痛の生は自己責任でなく、社会は責任を負う
1-4.苦痛の生は自己責任でなく、社会も責任を負わない
2.個人に死ぬ選択を与える → 死の選択は自己責任で、社会は責任を負わない
2-1.苦痛の生は自己責任で、社会も責任を負う
2-2.苦痛の生は自己責任で、社会は責任を負わない
2-3.苦痛の生は自己責任でなく、社会は責任を負う
2-4.苦痛の生は自己責任でなく、社会も責任を負わない
3.個人に死ぬ選択を与える → 死の選択は自己責任でなく、社会は責任を負う
3-1.苦痛の生は自己責任で、社会も責任を負う
3-2.苦痛の生は自己責任で、社会は責任を負わない
3-3.苦痛の生は自己責任でなく、社会は責任を負う
3-4.苦痛の生は自己責任でなく、社会も責任を負わない
4.個人に死ぬ選択を与える → 死の選択は自己責任でなく、社会も責任を負わない
4-1.苦痛の生は自己責任で、社会も責任を負う
4-2.苦痛の生は自己責任で、社会は責任を負わない
4-3.苦痛の生は自己責任でなく、社会は責任を負う
4-4.苦痛の生は自己責任でなく、社会も責任を負わない
5.個人に死ぬ選択を与えぬ→苦痛の生は自己責任で、社会も責任を負う
6.個人に死ぬ選択を与えぬ→苦痛の生は自己責任で、社会は責任を負わない
7.個人に死ぬ選択を与えぬ→苦痛の生は自己責任でなく、社会は責任を負う
8.個人に死ぬ選択を与えぬ→苦痛の生は自己責任でなく、社会も責任を負わない
山野健一郎
まだ、はっきりしないが、上記24のパターンでは、1の3(システムが可能かどうか別にして)が、私にとっては良いように思える。
「苦痛の生はお前が選択したんだろ、苦痛が嫌だったら、死ねばいいじゃないか。」と言わることなく、苦痛の生を選択した者も生き易い社会を理想としたい。
小野不一
「死ぬ権利」「死ぬ自由」は論理的な帰結として当然ある。私はそれを否定はしない。
ノリ太がこう書いている。
「自殺」と「安楽死」は違うんじゃないかなー? もちろん、安楽死は自殺の中に含まれるわけだけど。「尊厳死」というべきかな。安楽な死を選ぶ権利があってもいい。もう目前に苦痛と死しかない。その時にどうするかを自分が決める、それくらいの意思は持つべきだ。
こうした意見の背景にあるのは「苦痛にのたうちまわりながら、糞尿まみれになっても尚、生きてゆく意味があるのか?」という疑問だろう。
では、例えば、才能ある作家が突然、病気のために失明した。作家生命を絶たれた彼は自殺をした。実際にヨーロッパであった話し。こういうケースについてはいかがででしょうか? 何を尊厳なるものとするのか。それによって安楽死の内容はガラリと変わるのではないか?
ちなみに私は、治る見込みのない植物状態の方に対して、延命治療を施すことには反対である。
のり
わたしの母は、気付いた時にはカラダ中、癌だらけでした。手の施しようが無くなった時、自宅で死ぬコトを選び、痛み止めだけを服用していました。激しい痛みは箇所によって違うらしく、たくさんの種類のクスリを、自分で管理して飲んでいました。亡くなる数日前についに意識不明になり、痛みにあったクスリが、家族ではわからなかったため、とうとう入院しましたが。
最後に母を見舞った兄は「死を待つだけの家で、静かに生きていた」と話していました。
ナジ
のりさん こんばんわ私の父も家で死にたかったみたいでね。医者の大反対を押し切って、家に帰って書類やらなんやら全部整理して、身の回りの物を片付けて、近所のいける人のところまで歩いて挨拶にいって、それから、病院に戻って、死んだわ。最後をみとったのは母だった。病院で死なせた事だけが悔やまれます。
yamabiko
自分の死は地球より重い。
他人の死は、犬の死より軽い。 風太郎
いろいろあったが、死んでみりゃあ、なんてこった、
はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、皆の衆。 風太郎
図々しくもテメエのメイゲンを仰々しく載せて、快調、フータロー先生の奇書人間臨終図巻 が文庫本になった。徳間文庫。よんでやってつかーさい。
ぐんない。
▲注 風太郎は山田風太郎
のり
ナジさん、こんばんわ。初めまして。よろしくおねがいします。
母は死ぬまで生きていた。抑え切れない痛みを抑え、死の恐怖に目を瞑りながら生きた毎日は、わたしのためだと思ったんです。
ナジ
そうですね。そうだとおもいます。おやだったらこの子を残して……とおもうでしょうね。母親だからそうだと思います。
私も父を抱いて生きているの。ね、あれ以上愛してくれる男はいない。と信じてるのね。かわれるもんなら変わってあげたかった。でも父がいうには「病気で死ぬんじゃない、寿命で死ぬんだよ」とのことだから、私は彼の愛した馬と煙草はやめないの。がんばって寿命を達成いたしましょー!
だら、健康の為に寝ます。おやすみなさい。明日は飲み会。がはははは酒も好きだったわん。
せいやん
のりさん、おこんばんは。
私の母も21年前に癌でガーンと死にました。私の前では、最期まで弱音は吐きませんでした。激痛に耐えられずに荒い呼吸をしていたとき、医者がうった注射で、眠るように逝きました。そんな安楽死、誰かに迷惑かかりますか?
のり
せいやん、こんばんわ。
癌でガーン、なんて親父ギャグ、いいんですか?
小野不一
皆さん、貴重な体験を記して下さり、ありがとう。私の両親は、父が61歳で、母が60歳。まだまだ元気です。実際に家族でなければ理解できないことも多いでしょう。本人が苦しんでいるにもかかわらず、自分は何もできないという無力感。介護や付き添いなどが必要になると、並大抵の負担で済まないことは容易に察しがつきます。介護疲れによる殺人なども多く見受けられ、何らかの制度が必要であることは痛感します。
快復の目途が立たなければ「家族の負担になりたくない」という当人の希望もあるかも知れない。
すると、苦しみから解放するために「安楽死」があると位置づけることができるか?
それ以外に考えられることはあるでしょうか?
ノリ太
小野殿、お若いのー、ご両親。
ところで、病院での死は、自然死じゃーないと思うぜ。「ターミナル・ケア」とは何? かだね。
山野健一郎
のりさんもナジさんも安楽死、反対?
ナジ
やまけんさん、おはようございます
根本的には反対ですが、植物人間になったらどうだろうか?家で看取った人がいるから、その印象をしっかり抱いてるからできれば自然に死なせてあげたい。でも、苦しむなら安楽死でも、、。たとえばせいやんさんのようにね、思う事もできる。苦しんでいる人が、選択できる余裕があるならさせてあげたい。でも、できない人に対して使うことばでしょう? 議論するだけ暇なんだと思う。ごめんなさい答になってませんね。だって、わしたんなる太宰派だもの、自殺したいの。それだけ安楽死とは別の次元の問題だ。
yamabiko
自分が死のうとどうしようと、勝手だろ? それを、禁ずることなど出来る根拠があるわけはない。それより、生むのはかってなん?堕胎するのも、勝手か? 死刑も勝手か? あ、生まれてしもた。。あ〜あ、またできてしもた……。しょうないわねえ、できちゃったの、あたい。それで、おのれが勝手に死ぬ、というのに、外部からガタガタいうなど、ちゃんちゃらおかしい、ってこってす。
山野健一郎
地球で一人ぼっち。耐えられない苦痛・激痛。目の前に安楽死できる薬あったら、たぶん、私は飲む。
yamabiko
いつでも、どこでも、死んでいいのだよ……と言ってやれば、救われるひとの何と多かったこと、だろうとおもふ。けふ、このごろ。
長生きはいいことだ、強く生きろ、自立しろ!まるで、脅迫社会じゃ、けんね。
ナチュラルな生、ナチュラルな死、ナチュラルな性、ナショナルなアホ首相。
gavo-22
あついねぃ。yamabikoさん
毎日のように発作が出る。車にのってても寝てても子供と遊んでてもいきなり止めれない痛みがくる。長い時も短い時もアル。薬も効かない。寝てもおさまらない。ただ、痛みがさっていってくれるのをまつ。
だから死を意識する。残す子供を意識する。世話のいる年寄りを意識する。自分の事の為に看病で迷惑をかけるくらいならと思う。
自分が死ぬのが勝手な、あんたにいわれんでもわかっとおよ。だれもそんないいたかったわけじゃねえ。あんたもがたがたいわんこった。がたきとんのはいっしょやないですか。らぶり〜なちゅらるぼーんきらーやまびこほえとるね。ほれるわ! ぶひっ
yamabiko
行きたい人は行けばいい。生きたい人は、生けばいい。逝きたいひとは、逝けばいい、イクイク、ゆうひとは、いってください。わたしゃ、遺憾です。
けふは、さぶい。
小野不一
原理的な問題として、1+2=?という問題を今論じているわけではない、ということだ。
この場で単純な結論を導き出して、それでよしとする心算(つもり)は毛頭ない。=(イコール)ではなく、<や≦ぐらいは模索したい。どちらに含まれるのか、どちらを優先的な価値とするのか。
大将の考え方はそれなりに理解できる。大変、整理されていて、わかりやすいのだが、他の人がそういう生き方をできるかどうかは別問題。自分に対して、何らかの自信を持っている人にのみ通用するのではないか?
ニヒリズムは手軽で簡単。レトルト的な印象を受けてしまう。
まあ、お孫さんができたら、そのように教えるといいでしょう。
議論するだけ暇なんだと思う。
これは聞き捨てならない。書き込みしてくれた人、全員を愚弄しているのか? そうやって、周囲の人間を小馬鹿にして、自分は一体、何様の心算なのだ? 高見から見下すような発言はよしてもらいたい。胸糞悪くなってくる。こうした大人の無気力・無関心が子供達に強く影響を与えているのではないか?
ちょっと話題を変えて「殺人」についてはどうでしょうか? 理由次第では、これを認める場合があるのかどうか、など。
yamabiko
他の人がそういう生き方をできるかどうかは別問題。
それは当然のことだ。さいしょからそいううている。別問題、ということは、ひとはひと、ということだ。オランダの法律だって、死にたくない、と本人がいっているのに 死なそう、というものでは、まったくない。また、他人の臓器をもらってまで生きよう、というのでもない。(<−−これを自己決定権と読んでいるバカがいる)
自分に対して、何らかの自信を持っている人にのみ通用するのではないか?
けっこうなことではないか? なんにも自信のないひとを、ふくめ、ヒトに説教するものではない。干渉を排除する、と言う権利は認めてくれ、といっているのだ。
まあ、お孫さんができたら、そのように教えるといいでしょう。
教えるんじゃないよ。オレの考え方を示すだけだ。どのように教えるのだ? 干渉するな、ということか?
議論するだけ暇なんだと思う。
これは聞き捨てならない。書き込みしてくれた人、全員を愚弄しているのか?
??いま検索して分かったが↑はナジさんが40でいっている。こんな一文をひっぱりだしてどうするのだ? 40の文脈で読んでくれ。文脈を無視してこんなのを引っぱり出すほうが、愚弄しているのだ、などと硬いことをいうてもしょうがないな、フイツサンには。好きにしてくれ。
殺人? 死刑、では認めていることになってるな、すくなくとも。
ナジ
小野さん、おれ、誰もバカにしたことないし、高いところから見た事なんかないよ。あんたも直ぐ熱くなる、ああいったのはね、そんな事討論してるよりも実際に体験すればわかるといいたかったのだ。
実際に問題のまっただ中にいるものは、誰かと討論しようとする余裕もないはずなんだ。むしろあんたも子供を作って親見てから私に干渉したらどうだね。
アルキメデス
山岡鉄舟の死
晩年、胃癌を患って自ら死期を悟った鉄舟は自ら準備をします。次第に病状が悪くなっていき、あるとき便所に立ってきたあと「今の痛みは今までと違う」といって風呂場に行って湯浴みをし、白装束に着替えます。そして、布団を背に正座して死を待ちます。鉄舟の具合が悪いと聞いた勝海舟が見舞いに訪れ、「先生、いよいよ御臨終か?」鉄舟、にっこり微笑んで「お先にごめん被る」海舟「それでは」といって帰宅します。いよいよ死が近づくと、鉄舟は皇居に向かって結跏趺坐をします。
ふと、周囲の人が気づくと鉄舟は生きを引きとっていました。その間、少しも身体を崩さなかったそうです。海舟が家に帰りついたとき、鉄舟逝去の知らせが届いたところでした。海舟は「そうか」といったきり部屋に戻りました。
これは、角川ソフィア文庫の『山岡鉄舟の武士道』にあります。鉄舟の講義の口述筆記と、後の海舟の口述評を収録した本で、非常に面白いものです。
閑話休題。この死は安楽死でしょうか。
ナジ
ぜひ読んでみたい本ですね。ありがとうございました。
山野健一郎
高齢寝たきり老人が注射をキッカケにして安らかに死んだ旨の話よく聞くけど、これって何なんだろう? さらに、家族は医者を問いたださないし、責めないらしい。
家族の様子を察して医者が気を利かせて安楽死させているのか?
2001-04-10
『消えた女』マイクル・Z・リューイン
ロバート・B・パーカーに厭(あ)きるようになれば、リューインを読む時期に差し掛かっているといってよい。就中(なかんずく)、パーカーが紡ぎ出す会話が好きで、ついついシリーズ物に手を伸ばしている人にとってはウッテツケだ。
『A型の女』(早川文庫)に始まるアルバート・サムスン・シリーズの第5作。
事務所の立ち退きが迫ったある日、友人を捜して欲しいという依頼を受ける。ナッシュビルを訪れたサムスン。調査の結果、目的の女性プリシラ・ピンは夫の元を去り、女癖の悪い実業家と駆け落ちしたということがわかる。依頼人は捜索をあきらめた。拭うことのできない小さな疑問を抱えたサムスンは再び依頼人と連絡を取ろうとしたが、今度は依頼人がいなくなっていた。3ヶ月後、駆け落ちした相手の実業家ビリー・ボイドが森の中から死体となって発見される。サムスンは、嫌疑をかけられたプリシラ・ピンの夫の弁護人と相談し、行方知れずとなった女性を、もう一度追う。
私はリューインとは大変、相性が好くスイスイ読める。5ページに一度くらいの割合でニヤリとさせられる。訳の頂けない箇所(例えば1ページ目の2行目以降など)が目立つものの、原書の魅力が遥かに上回っている。ラストの仕掛けが少々凝り過ぎたきらいはあるが、二重三重の謎はそれなりに驚ける。まあ、私のような人生も半ばに差し掛かった読者にとって、謎解きは大事な要素ではないのだ。
やや穿(うが)った見方をすればサムスンは平凡なサラリーマンと大差はない。冒頭から、人生につきまとう不安と焦燥が独白される。焦眉の急と迫った立ち退き、経済的な逼迫(ひっぱく)、乏しい仕事、42歳になった離婚歴を持つ男が吐く溜め息は深い。このような点では、市井の庶民が抱える哀感を巧みに描く藤沢周平と相通ずるところがあるようにも思える。羨ましいのは米国人気質ともいえるユーモアと皮肉に長(た)けた会話。
例えばナッシュビルの女性保安官を訪ねた際のやり取り――
「でも、彼女の食事の時間のことを気にすることはないわ。ジェアンナ(保安官)は胃がとても丈夫なの。消化不良になったなんて聞いたこともないわ」
最近は、わたしも同様だ。消化不良を起こすためには食物が必要だ。
依頼人エリザベス・ステットラーに対してはこうだ――
「わたしは約束を守るのを職業上の誇りとしています」わたしはいった。この職業をつづけるかぎりは。
また、こんなのもある――
「ミラー警部補だ」彼は、ギリシャ悲劇の合唱隊(コロス)が声をそろえて「疲れた」と朗誦(ろうしょう)するより雄弁に疲労していることを感じさせる声でいった。
画廊の支配人を一目見て、
この女性とポーカーをやるのは避けるべきだと直感した。その挙措(きょそ)と微笑はこの女性の頭の良さをはっきりと示していた。
後半、サムスンは目の前にいる犯人から殺されそうになる。
拳銃で狙われるのはウンザリだった。これで、今日二度目になる。
世界をどのように受け入れるか、そこにその人の生き方が顕著に現れる。以前『A型の女』を評して「些事への固執は、自分の意志に基づく選択によって、人生をコントロールしていることを確認する作業なのだろう」と書いた。本書を読み終えて考えさせられたのは、サムスンの巧まざるユーモアの源がいずこにあるかとの一点であった。これを考えることで、人生を面白くする秘訣を解明できるような気がした。
サムスンが行っていることは“人生を物語化”する営みといえないだろうか。豊かな形容は小さな驚きから生まれたものだ。見事な比喩は、知識や経験を統率し類型化する能力なければ不可能だ。比喩が面白いのは、比べられるものに飛躍があるからであり、柔軟な感受性の現れに他ならない。
身の周りに起きた出来事を捉え直す。自分ならではの構成を施す。自分自身を客観視できるのは、我が人生の主導権を握っている自覚がある故だ。サムスンの言葉には、人生の手綱を締め直すような力が秘められているのではないか。
真っ当な男が演じる探偵は決してスーパーマンではない。しかし「内に秘めたタフネス」はどの男性にとっても参考になる生き方を示唆してくれる。
2001-04-09
ニュース拾い読み・書き捨て 1
ダンプに自転車200メートル引きずられたが……女性、奇跡的に助かる(朝日新聞 2001-04-06)
▼走行中のダンプカーの車体の下から人の頭と自転車が見えたんだってさ。見つけたのは対向車線を走っていたパトカー。20〜30km程度のスピードだったのが幸いしたとのこと。ダンプの運転をしていた25歳の男性は「音はしたが、巻き込んだことには気づかなかった」▼何が問題だって、人を轢(ひ)いても気がつかないようなクルマを造ってるのが問題だよ。戦車じゃあるめえし、こんなクルマが公道を走っているのを許せるかってえんだ。
49歳なぜキレル 殺人事件で検挙、17歳超え最多(朝日新聞1面 2001-04-06)
目立つ49歳の凶行 転換期不安定な世代 不況直撃でストレス(同日 朝日新聞社会面)
▼95年から99年までに殺人事件(未遂・予備を含む)で逮捕・書類送検された容疑者を調べたところ49歳が最も多いことがわかった。専門家によれば「子が自立する。親の面倒をみなければならない。配偶者との関係も難しくなったりする」という年代であり、職場では「“勝ち組”と“負け組”がはっきりしている」▼と、まあストレスまみれになっているから人殺しも多くなるんだってよ。読み物としては面白い記事なんだが、どうなんだろうねえ▼「殺人事件の統計をとると49歳が多かった」→「その世代は大変なストレスを抱えている」→「49歳はキレル」→「49歳はアブナイ」→「49歳になったら人殺しに要注意」みたいな短絡的な構図だよなー▼俺なんざ単純だから「あ、49歳になったら人殺しをしなきゃなんねえかな?」なあんて思っちまうぜ。さて出刃包丁でも用意しておこうかしら▼人口比率でも50歳前後が一等多くなるらしいんだが、掲載されている棒グラフを見ると28歳と49歳が山となっているんだよな。さすがに65歳を越えると少ないわな。だけどさ、山ったって100〜150に殆ど収まってんだよ▼統計をセンセショーナリズムで脚色するのは結構だが、お遊びにしちゃ紙面を割き過ぎなんだよなー。棒グラフの向こうには殺された(あるいは殺されそうになった)人達がいるんだぜ。どんな理由があろうと、その行為が正当化されるはずがねえわな▼全く人を食った記事だぜ。
2001-04-08
こんな人がいても、いいでしょう
- 野球解説者に反論するアナウンサー/せいやん
- せいやんに、すり寄るオナゴ/yamabiko
- ダンナより毛深い奥様/山野健一郎
- 社長より立派な車に乗る新入社員/山野健一郎
- 古書店主をイジメる駄洒落オヤジ/小野不一
- 返球がピッチャーの投球よりも速いキャッチャー(マンガにありそう)/せいやん
- キレる首相/小野不一
- 誰にでも正体を明かす二重スパイ/小野不一
- 真昼の決闘を夢見る警察官/小野不一
- 「業績が悪いのは私の責任です」と言える社長/せいやん
- 朝から晩まで必死に働く若者の給料より、多額の年金をもらう海外旅行が趣味の老人/山野健一郎
- 勤労者より豊かな社会保障を受ける失業のプロ/山野健一郎
- 上記を読んで、切れるサラリーマン/せいやん
- ヤクザ政党のアホどもを金魚の糞のように追っかけ、新聞の紙面を汚す、奇者、もとい記者/yamabiko
- 種明かしが大好きな手品師/小野不一
- 放送禁止用語を連発するNHKの女子アナ/せいやん
- カッとなった余り警告するのを忘れて、一本背負いを決めてしまう柔道の審判員/小野不一
- 自行に金を預けない銀行頭取/山野健一郎
- 医師を指導する看護婦/山野健一郎
- 料金メーターを作動させる癖が抜けない元タクシー運転手の宇宙飛行士/小野不一
2001-04-07
目撃された人々 2
人の好い親父さんだった。
年の頃は還暦を越えたほどであろうか。小太りの身体に赤ら顔が乗っかっていた。商売っ気抜きの笑い声が豪快な人だった。以前、私が勤務していた会社の下請けの社長さんだ。誰からも好かれていた。いなくなった途端その人の陰口を叩くような手合いとは全く違っていた。
その頃私は、職人同士の間で見受けられる低俗な駆け引きや、足の引っ張り合いに業を煮やしていた。黙っていれば幾らでもつけ上がる。怒鳴りつければ下手に出る。そんな大人どもに向って唾を吐きかけてやりたい衝動に駆られたものだ。
下請け会社の社長さんは、必ず私に声を掛けてくれた。若かった私はよく愚痴を吐いた。「こんなクズみたいな連中と働くのは御免こうむりたい。こっちまで人間が愚劣になってしまいそうだ」。親父さんはニコニコしながら黙って私の話しに耳を傾けてくれた。
建築業界は羽振りが好い時は飛ぶ鳥落とす勢いがあるものの、景気が低迷し出すと真っ先に打撃を受ける。バブルが弾けたある日のことだった。
いつもは工場で納品をして帰る親父さんが事務所に現れた。私が振り向き「毎度っ!」とドラ声を上げると、いつになく沈痛な面持ちで作業帽を両手で握り締めて立っていた。
「社長、ちょっと宜しいですか」。親父さんはそういうなり社長の前に歩んでいった。突然大きな声で「社長、仕事を回して下さい。お願いします。社長、本当に……どうかお願いします」。深く腰を折り曲げた悲痛な姿を正視することはできなかった。世の中の厳しさを目の当たりにした私は、食ってゆくとはこういうことなのだと悟った。事務所を出てゆく時に見せた笑顔は、いつものそれとは違った。
バブルの絶頂期には1000万円を軽く上回るドイツ製のクルマを2台も購入した我が社の社長の運も尽きた。彼は最後の最後までクルマを手放すことなく、社員を次々と解雇した。今では残った従業員はわずかに4人しかいないという。
時流の変化、人生の有為転変は誰しも避けられない。クルクルと波の向きに合わせて小ざかしく泳ぎ渡るような人間も数多く見た。
私は今でも時たま、あの親父さんの笑顔を胸に浮かべることがある。あの人の笑顔は、どんな時でも変わらないだろう。否、苦境にあればあるほど輝きを増してゆくに違いない。
2001-04-01
読点の発見
編集部メーリングリストで読点の話題が出た。迂闊なことに私が気づかなかったことを教えてもらった。何通かのやり取りの中で
「文は人なり、文は一字一句、句読点の付け方まで、ひとの表現である、ということを尊重すべきであろう」
との指摘があった。私は直ぐさま、勧められた『日本語の作文技術』(本多勝一著:朝日文庫)を買い求めに行った。
技術書の翻訳をしている某氏のもとへは「同書にのっとって翻訳するように」という注文までつけられる場合があるという。
早速ページをめくると第4章に「句読点の打ち方」とあった。まあ、色々書かれているのだが、驚いたのは「思想の最小単位を示す自由なテンがある」という記述だった。尚且つこれはゴシック体で表記されていた。
もちろん全てにこれが当てはまるなどとは思わないが、普段は考えたこともなかっただけに、ちょっとした発見であった。
テンといえば山本周五郎を思い出す。
「文学に純文学と大衆文学の区別はない、あるのはただ良い小説と悪い小説だけ」と語り、「読者から寄せられる好評が真の文学賞」との信念から、直木賞をはじめとする全ての文学賞を固辞したエピソードは誰もが知っているだろう。
最後の作品『おごそかな渇き』(新潮文庫)は完結を見ずに絶筆。そのラストはこうだ。
しみとおるように、すがすがしい山の空気と、高い流れの音を聞きながら、川にまだそんな魚がいる、という感動にひたっていた。
――日本の近海から魚類がいなくなり、インド洋やアフリカや地中海まで魚撈にでかけなければならい、
連載中だった朝日新聞日曜版には句点「 。」で掲載されたらしいが、生原稿は読点「 、」で中断されていたという。
昭和42年2月14日午前7時10分、周五郎はこの原稿の傍らで逝った――。
何気なく打っているテンも、思想の自由どころか、大作家の人生の結末まで表していることになってしまう。
さて、作家としての人生を読点で終えた周五郎は黄泉路(よみじ)でどんな顔をしたことだろう。書きかけの原稿を心配して思案顔であったろうか。それとも、作家として書き続ける途上で生を終えたことに満足して微笑んでいたであろうか。
【※山本周五郎の最期に関しては『あの人はどこで死んだか 死に場所から人生が見える』(矢島裕紀彦著:主婦の友社)を参照した】