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2001-06-30

『ブラック・プリンス』デイヴィッド・マレル


人生を翻弄された二人の孤児の復讐譚


 再読。十分堪能できた。国際謀略モノといえば、フレデリック・フォーサイスロバート・ラドラムと並んで三羽烏の一翼を担うマレルである。この後、全く別ストーリーの『石の結社』(光文社文庫)があり、『夜と霧の盟約』(早川文庫)では、両方の主人公が一同に会するという変則的な3部作となっている。


 私がこの手の小説に惹かれるのは、スパイという職業のプロフェッショナル性への憧れからである。国家の大義(善悪は不問に付す)のために犠牲を厭(いと)わない精神、任務を遂行するための細心の注意、鍛え抜かれた強靭な肉体と精神、難局によって今まで以上に高められる能力――こうしたことが緻密に描かれていればいるほどよい。そして必ずといってよいほど、この手のストーリーは硬直した組織や、独善的な指導者に主人公が苦しめられ、人間性が勝利を収めるという結末になるものだ。


 あの『一人だけの軍隊』(早川文庫)から12年を経て、マレルは再び、傑作を物した。


 CIA工作員のソール・グリスマンが、米国各界の大企業の代表が集う「パラダイム財団」のメンバーを爆発物で殺害する。任務を終えたソールが、逃走支持に従って別の場所へ移動したところ、次々とソールの命を狙う人間が現われる。情報が漏れたのか? 局内のどこかに裏切り者がいたのか? ソールは必死になって逃げ続ける。あらゆる可能性を考慮した結果、共通する分母はエリオットだった。彼はCIAでナンバー2の要人であり、孤児だったソールとクリスの養父でもあった。組織を頼ることができなくなったソールは義兄弟のクリスと連絡を取り、謀略の本質に迫ってゆく。次第に明らかとなったのは、第二次大戦中から世界的な規模で繰り広げられた諜報機関の盟約だった。養父がソールとクリスの2人にチョコバーで示して見せたのは、愛情ではなく、彼等を利用しようという魂胆からであった。


 時を同じくして修道院から出たクリスは、工作員にとって中立地帯とされている場所で、友の仇を討ってしまう。タブーを犯したクリスは追われる身となる。エリオットはクリスを確保し、ソールを追わせるように仕向ける。


 手順。エリオットは、どんなことがあろうとも、手順だけは忘れるな、と常に教えた。それが延命を保証する唯一の手段なのだ。目標を必ず一周し、一帯を点検すること。何があろうとも確認を怠るな。


 直後にソールは撃たれる。


 コインを挿入し、暗記したナンバーをダイヤルした。すると、録音テープの声が、時刻は2時46分であると告げた。たとえクリスが敵につかまり、貸し金庫の中の伝言を吐かされたとしても、この電話ではたんに時刻しか聞き出せず、戸惑うのが落ちだろう。クリスを生かしておき、さらに問いたださなければ、その特定の時刻に意味がないことがつかめないのだ。時刻が告げられたこと自体に意味があり、それは電話ボックスの壁を見ろという合図だった。


 これは行方をくらませたソールとクリスが連絡を取るところ。


「いい所だ」「大使館から10ブロック目よ」背後でエリカが言った。

 ソールはしかし、景色をながめてはいなかった。窓外へ目を向けたのは、エリカを試すためである。


 エリカはかつての恋人であり、モサドの大佐でもあった。この時、ソールは既に世界中のあらゆる諜報機関から命を狙われていた。


 訓練に次ぐ訓練は、常に最悪の事態を想定して行われる。万般のケースに対応するには臨機応変の柔軟さが求められる。目配り一つをおろそかにすれば死が待ち受けているのだ。以下は訓練での教官の教え――


「いちばん重要なのは、自分の防衛能力を損なわず、相手に決定的な負傷を負わせることだ。強い衝撃を受けても活動能力を失わず、しかも自らの体に備わっている武器は三つある。肘の先と、親指と人差し指の付け根と、掌底だ。追って、スピードと調和、バランスを保つ正しい姿勢とともに、これらの武器の使い方を教えよう」


「敏捷さを得ようとするなら」とロスベルグが説明した。「洗練さが必要なことを理解しなければならない。持久力も体力も関係ない。自分に比べて相手がどれほど大きく、頑丈であろうと問題ない。正確な位置をあやまたず一撃すれば、相手を殺すことができるのだ。最も重要な要素は反射神経だ――だからフェンシングとバレエを練習する。自分の体を支配する――自分の体の中でくつろぎ、精神と肉体を一体化できるようにならなくてはいかんのだ。そして、考えたことをすぐに行動に移す。ためらったり、タイミングを間違えたり、攻撃する場所を誤ったりすれば、相手に殺されてしまう。スピードと調和と反射神経――自分の体同様に、これらが武器となる」


 極限状況を想定した上で吐かれる言葉の数々は、美しい響きを伴った示唆に富んでいる。


 自分の目的のために人間の感情を利用したエリオットの作戦は失敗した。自分が教えた以上のものを体得した弟子達によって追い詰められる。義兄弟の絆が復讐に花を添える。裏切りは人間として最低の行為だった。ソールとクリスが挑んだのは、簡単に人間を切り捨てることができる魔性との戦いだった。


 エリオットを追い詰めるに従ってソールの心は揺れる。正しい人間のバランス感覚が好ましい。エリカの説得にも応じることなく、彼は復讐の鬼となって走り続ける。


 物語は最後の最後まで二転三転し、ページを閉じることができない。悲劇の要素もしっかりと盛り込まれ、類い稀な活劇小説となっている。


 エリオットは最後の最後まで罠を仕掛けてくる。正義に目覚めた弟子の寛容さをも攻撃の対象とする。しかし、虚構の絆は真実の絆によって葬られる。


 フリーマントルの傑作『明日を望んだ男』(新潮文庫)と、デュマの『モンテ・クリスト伯』(全7冊:岩波文庫)を併せたような面白さは絶品という他ない。

ブラック・プリンス

2001-06-25

ニュース拾い読み・書き捨て 5


 南米チリで、15匹の野良犬を引き連れて2年間にわたって放浪生活を送っていた10歳の少年が警察に保護された。「雌犬の乳を飲んで朝食代わりにした」と話している。


【朝日新聞夕刊 2001年6月20日付】


▼5歳の時に両親と離れて施設に引き取られた少年の冒険行▼放浪の様子を絵に描いて説明している写真が掲載されている。鉛筆で描かれた絵には後ろを振り向く犬と駆け出す犬がかろうじて見える。少年は日差しのせいか少し眩しそうな眼つきで、屈託ない顔つきでカメラを見つめている。右側の唇が笑みを湛えている。見ようによっては不適な面構えだ。飢餓に耐え、洞窟での夜をくぐり抜けた風貌そのものである▼この少年こそ『争いの樹の下で(丸山健二著:新潮文庫)』に登場した「おまえ」ではないのか。「動く者」「流れる者」とは、この少年に他ならない。そして少年世一の衣鉢を継ぐ者だ。▼無くなった2本の前歯はやがて生えてくる。後は、今まで以上の自由と独立を手に入れるだけだ。少年の行く末に無限の思いを馳せる。


 作曲家の團伊玖磨氏、5月17日逝去。

「思想とか哲学を、感動に変えて聴衆に届けておられた」とはソプラノ歌手・佐藤しのぶの弁。冗談好きで『パイプのけむり』には、入れ歯を英国で作ったら英語の発音がよくなったとほめられたエピソードを紹介。


【朝日新聞夕刊 2001年6月25日付】


▼「聴き手のことを考えずに書かれた“実験的”な作品などは全く認めません。また、怜悧(れいり)な音楽や凄絶な音楽にも共感しますが、音楽には何より基本的な暖かさが必要だと思っています(『私の日本音楽史』)」▼また、あるレコードの推薦文では「不潔な唇(くち)にするのも恥ずかしい歌が巷に氾濫している昨今、すがすがしいこのレコードは、日本の青年の強い意志と、世に毒されぬ正しさを歌い上げて余すところがない」とも▼父君は三井財閥の大黒柱であった團琢磨(だんたくま)男爵。「事業は事業それ自体が目的であって、金もうけのためではない。金もうけがしたいなら、相場でもやるがいい」という信条の持ち主であった▼中国大陸の5月の空を、“つう”の如く翔んでいったことだろう。謹んでご冥福を祈る。

2001-06-21

「地の塩の箱」/『昭和の根っこをつかまえに』北尾トロ


理想と絶望のはざまを生きた詩人を追跡


 このシリーズはオンライン・テキストで公開されている。飄々としたポップな文体で知られる北尾が、ややジャーナリスティックな構えで、平成に生き残る“昭和の根っこ”を捉えた作品。いずれの対象も“残滓(ざんし)”と軽々しく言うことがためらわれるような、生々しい人の生きざまが書き込まれている。第3回「地の塩の箱」の巻を読んだ。


 発端は錦糸町駅に備えられている「地の塩の箱」と書かれた募金箱だった。この募金箱に喜捨されたお金は出し入れ自由で、困った人は手を突っ込んで志を受け取ることが可能というもの。私は隣接する亀戸駅界隈に住んでいるが全く気づかなかった。


 北尾は募金箱に添えられていた機関紙に目を奪われる。詩人の江口秦一が昭和31年に創設。やがては731個まで増えたという。江口の死後、運動は急速に冷め、現在に至っては3ヶ所を残すのみとなってしまった。機関紙からは、重い筆で運動の困難さを嘆く様子が窺われ、98年に発行されたこの号以降は発行された形跡もない。北尾は現在の発行人である江口の娘(江口木綿子氏)の元へ走る。


 高名な詩人だった江口秦一氏が、昭和のドンキホーテとなったのは、知人一家の絶望的な生活を目の当たりにしたことがきっかけだった。その家族は、父親が工場で必死に働いても食べていけず、娘が親に内緒で売春をして家計を助けていた。そのことが親に知れ、絶望した娘が自殺したのだ。マジメに働き、つつましく暮らす親子が、なぜこのような悲劇に襲われなくてはならないのだろう。


 熱心なクリスチャンでもあった江口はじっとしていられなかった。真面目に生きる庶民を犠牲にする社会が許せなかった。更に、そうした社会を支えている自分をも許せなかったに違いない。江口は仁王となって立ち上がった。


 昔の人は貧しかったけれど、気持ちが暖かかったんでしょう。募金もそれなりに集まっていたようです。箱にあった10円のおかげで自殺を思いとどまった人から手紙がきたりもしていました。(木綿子さん)


 江口が開始した運動はマスコミなどでも取り上げられ、支援者は全国的な規模で増えていった。自らの信念に忠実に生きる江口は、生活の全てを犠牲にしてまで運動に我が身を捧げる。


 この運動に似た例を過去に求むれば、ガンジーの行ったそれであります(中略)さしずめ「地の塩の箱」は彼の手紡ぎ機であり、「箱」に金を入れるという行為は本質的に彼の断食に相通じるものがあるといってもよいのではないでしょうか。(機関紙より)


 革命的な運動は炎の如き一人の人物から始まる。その一人が世を去った時、理想を目指して始まった運動も下火となる。志を同じくする人間をつくれるか否か、ここに運動の成否があると言っても過言ではあるまい。仁王立ちとなった江口奏一が斃(たお)れた後に続く者はいなかった。


 北尾は江口木綿子氏より一冊の本を借り受ける。そこには、理想に生きた江口の衝撃的な末期(まつご)が書かれていた。江口は自ら首を吊って命を絶った。ロープからぶら下がった身体の静かな揺れが収まった時、運動の行く末は決定された。理想という美名の背中には、絶望という現実の絵柄が描き込まれていた。


 知人の娘の自殺から始まった運動が、主唱者の自殺で終焉を告げる。これほどの皮肉があるだろうか。「貧しい人を救いたい」――誰もが心のどこかで思いながらも行動しなかったことを江口は実践した。江口の絶望を察することは容易ではない。しかし、彼が上り詰めた高みから見えた社会の闇を想像せずにはいられない。彼を殺したのは、私であり、あなたであったかも知れないのだ。


 北尾のペンは淡々と事実を綴り、時に自己の所感を織り交ぜながら、浮かれた世の中に鋭い一瞥(いちべつ)を与える。


【※尚、北尾トロ氏は私の先輩ではあるが、公正を期すため文中の敬称は略した】

2001-06-18

『古本マニア雑学ノート〔2冊目〕 愛と古書と青春の日々』唐沢俊一


迸(ほとばし)る薀蓄・溢れるトンデモ本


 副題は「愛と古書と青春の日々」。前号で紹介した作品の続編。二番煎じと侮るなかれ。筋金入りの古書マニアが披瀝する薀蓄(うんちく)の数々は、2冊の本で涸れてしまう程度のものには非ず。イラストは実弟の唐沢なをき


 何にせよマニアが著した作品の本質は言いわけ以外の何物でもない。自分の狂った蒐集癖を理路整然と、時に開き直りながら、声高らかな宣言をしてみせる。奥底を流れるのは周囲に対するただの言い訳である。そこが面白い。言い訳という約束事をどの程度まで巧妙にやってのけるのか、そこに期待が高まる。社会性や常識をはみ出せばはみ出すほど、言い訳は巧妙を極めるものだ。そして彼等は善良な市民を遥かな高みから見下ろし天空に遊ぶ。


 僕にとって、このエピソードは、美談なのである。古本マニアが、古本に囲まれて、モチをノドにつまらせて一人ひっそり死ぬ。永井荷風の孤独な死があの作家にとって名誉なことであるならば、マニアにとって孤独な死は名誉でなくてはならない。人生を何かにかけるならば、その果ての孤独な死を恐れてはいけないのである。


 この覚悟である。まるで武士道さながらだ。コレクターとは“もののふ”であったのだ。だが、ちょっと待てよ。この人達は最初っからこういう覚悟をしていたわけではあるまい。つまり、集めている内にこれだけの覚悟をしなければならない羽目にまで陥ったということではないか。あな恐ろしや、古本は人の命を平然と奪う。


 マニアであれば誰もが夢見るであろう「掘り出し物」。まずは掘り出し物の定義から。


 ……掘り出し物とは何か。バカバカしく価値があり、かつバカバカしいくらい意外なところで見つかった、バカバカしく安く(もしくはロハで)手に入れることができた本のことをいうのである。


 で、ここで挙げられている例には大爆笑。


 例1 家の前をチリ紙交換の車が通った。ちょうどたまっていた古新聞を出そうと呼び止めて、トイレットペーパーをもらってフトその荷台を見ると、そこにはマニア垂涎の的であるところの◯◯の初版本が……(初級)


(中略)


 例3 地方へ旅行に行って、そこの古本屋へちょいと立ち寄ったら、マニア賛仰の的であるところの△△の特装版が捨て値で置いてあった。たまたま金の持ち合わせがなかったので急いで宿へ帰ってサイフを握り締め、とって返すとすでにそれは買われてしまったあと。落胆しているとその買った客が戻ってきて、こんな蔵書印がベタベタ押してある本は汚くてダメだ、と突っ返し、店主と言い争いになる。狂喜を押し隠して、まあまあ、ここに居合わせたのも何かのご縁、じゃあこの本はワタシが引き取りましょう、とうまいことを言ってさらにもとの半値で買い取って見てみると、その蔵書印がこれがまた大変な著名人のもので……(上級)


 ここで忠告が入る。


 こんなことは絶対にない(ここ、強調!)


 マニアは、白馬に乗った王子様を待ちわびる少女のように夢多き存在なのだ。あまつさえ現実と夢が混同し、枝葉が伸び、口が滑り、尾ひれがついて斯くの如し。


 唐沢の軽妙な筆は時に鋭い切っ先を見せる。新刊書店で江戸文学関係の書籍が充実している様を見て、


 著者の経歴を見ると、僕と同じ世代の人たちが多い。なぜ同世代の女性に江戸文学研究者が、と考えてハタと思い至った。僕らの世代は、子供のころ、NHKの人形劇『新・八犬伝』を見て育っている。(中略)やがて大学に入学するに当たって、国文科を迷わず選択し、近世文学を迷わず専攻し、そして『八犬伝』を卒論のテーマに迷わず選んだのであろう。まったく同じことが、中国文学でも起こっている。原因はいうまでもない、同じNKHの人形劇『三国志』である。


 社会という大海に浮かぶ泡沫(うたかた)を睨みつけ、水底(みなそこ)を窺うような眼光を感じる、と言っても言い過ぎにはならないだろう。


 余談になるが、コナン・ドイルの『失われた世界』(ポプラ社)が紹介されているのも嬉しかった。これは小学校6年生の時に読んで、私が読書に開眼した忘れられない作品。ガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』と共に小学生時代のベスト。


 マニアほど愚かで面白い人間はいない。社会で規定された枠をも破ってみせる彼等(私は違う)に異様なまでの人間臭さを感じるのは私だけではないだろう。


 マニアへの憧れと、恐れと、敬意を抱きながらペンを擱(お)く。


 尚、先日、唐沢氏の父上が逝去された。ここに謹んで哀悼の念を捧げる。

古本マニア雑学ノート〈2冊目〉―愛と古書と青春の日々

2001-06-12

『古本マニア雑学ノート』唐沢俊一


縦横無尽な面白がり方


 以前、本屋で半分ほど立ち読みをしたのだが、ちゃんと読み直してみた。いやあ面白い。北海道出身でこんな面白い人がいたとは驚き。道産子というのはわたくしのように奥床しく、ゆったりしていて、大人しい人ばかりと勝手に思い込んでいた。


 副題が「人生に大切なことはすべて古本屋で学んだ」。タイトルだけ見てみると、幼稚園の砂場よりも説得力があると思うがどうだろう。薄暗い棚に置かれた本の数々は、持ち主によって捨てられた怨念と、商品としての再起を果たさんとする並々ならぬ決意と、作家によって吹き込まれた思想の息吹などが渾然となって、くすんだ背表紙に立ち現れている。ここは一種の墓場でもあり、産道でもあるのだ。人生を学ぶのにこれほど適した場所もあるまい。


 内容はというと、これがまた親切極まる企画で、古書マニアの1日・即売会の模様・古書遍歴・唐沢氏のコレクション紹介と、古本の世界がざっと俯瞰(ふかん)できるようになっている。


 ところでそんなにたくさんの本を買って、いつ読むのだ、とよく聞かれる。こういう愚問を発するのは古書マニアでない人間である。切手収集マニアに、そんなに切手を買って、いつ手紙を出すのだと訊くようなものではないか。古書は集めるためにあるものである。読むものではない。


 こう言い切れるかどうかで、マニアという坂道を転げ落ちてゆくか、常識的な人生を取り戻せるかが決まってしまうんでしょうな。


 ご存じの方も多いだろが氏はあの「と学会」会員である。大体、どんな本を蒐集しているか容易に察しがつく方もいるだろう。唐沢氏が本を選ぶ基準は


 1.読んで実用にならない。

 2.読んで害がない。

 3.読まなくても差し支えない。


 これらの条件を満たした本を「脳天気本」と名づけ、「読書本来の無目的性を取り戻そう、という運動をあちこちで呼びかけている」。


 紹介されている本は、いずれも「よくもまあこんな本を」という代物ばかりで、見ているだけでも楽しい。


 この人の凄いところは、面白がりながらも、それに溺れることがないところだ。各ページに配されている「カラサワ・コレクション・ピックアップ」の紹介文を読めば一目瞭然。適度な距離を置いた寸評がまた楽しい。


 古本集めの大先輩という人物の発言が、これまた奮っている。


 古いものに目の色を変えて集め回るというのは、これは病気ですよ。病気になったら、高いと思っても、おクスリを飲まなくては仕方ないでしょう。古本屋は病院、古本はおクスリと思って、私は集めているんですよ。


 ある種の悟りを思わせる発言である。“物狂おしい”というのはこういう状態のことを指すに違いない。


 古本好きの方は、本書を手にして、ご自分の病気度をチェックしてはいかが?

古本マニア雑学ノート―人生に大切なことはすべて古本屋で学んだ

2001-06-11

ニュース拾い読み・書き捨て 4


 豪快な塩まきで人気を読んだ元関脇の水戸泉が今月9日、国技館で断髪式。5歳の時に父親と死別。母の手一つで育てられる。中学卒業と同時に角界入りしたのも「母を楽にさせたい」との思いからだったという。故障に泣かされ続けたが、92年の名古屋場所で平幕優勝。水戸から駆けつけた母親はむせび泣いた。その母上も6年前に他界。断髪式には親を亡くした子供と保護者200組を招待。(朝日新聞 6月6日付夕刊)


▼決して強い相撲取りではなかったが、母親思いの優しさが胸を打つ。番付表には現れることのないドラマを垣間見て、人間を知る。


◎特集「田中外相vs外務官僚」(6月10日付朝日新聞)

 論者は4名。以下簡略して紹介しよう――

 

吉田康彦大阪経済大学法科教授】「その(外交機能不全の)責めは田中氏にある。彼女の攻撃的性格と直情径行が問題。天下り先の少ない外務官僚を支えているプライドを傷つけ、士気低下を招いた」


クライン孝子【ノンフィクション作家/フランクフルト在住】「大臣本来の権限を行使しているに過ぎず、責めることはできない。自民党中枢・外務省・マスコミのアメリカ本位という姿勢が暴露された。支持」


佐伯啓思京都大学教授】「数々の問題は外相の資質を問われて然るべき内容。田中氏の関心は、外交ではなく外務省という内政に向けられている」


宮崎学【作家】「田中氏の喧嘩の仕方は脇が甘い。感情まかせの“おばちゃんの論理”だ。報道をよく注意して見ると、攻撃側の情報が大々的に報じられ、少し送れて『少し違う』『だいぶ違う』『全然違う』というニュースが小さく掲載されている。記者クラブ制度を中心とした大マスコミの報道システムは、官僚に至極都合の良いものであることを示している。“おばちゃんの論理”は好きではないが、真紀子氏を応援したい」


▼ちょっと前になるが高村薫も朝日紙上で真紀子大臣をこき下ろしていた▼官僚をまとめ切れずに、悪口を公言するなど問題外、ってな内容でしたな▼端から見た印象は“客寄せパンダが場外乱闘をしている”といったところか▼彼女が官僚を悪し様に言うのを聞いて、庶民の声を代弁してくれているような錯覚もあろう▼血税で競走馬を買う連中と戦うジャンヌ・ダークと見てる人もいるかもね▼まず間違いないのは、双方とも、国民が信じてやまない常識や良識とは、全く懸け離れた論理で動いていることだ▼所詮、大臣と官僚の利権が一致しないという程度の問題であろう▼国民が面白がっている内に、永田町をコソコソ動き回っている手合いが、本当の実力者なんだろうね。


ラテンアメリカにウルグアイという国がある▼女性の活躍が際立っているのでご紹介を▼公務員の4割近くが女性。裁判官の過半数も女性。最高裁長官を女性が務めたことも▼大学生も女性の方が多い。法律的には当然、男女平等だが、女性の意思だけで離婚できる「離婚法」もある。更には、女性が長時間立ちっぱなしで仕事をするのはよくないとの配慮から、職場に十分な椅子を用意しなくてはならないという「椅子法」というのがあるそうだ。妊娠中や産休の間は解雇してはならないことも定められている▼我が国を振り返って見る。あれ? どこに男女平等があるのだろう? 私の周りにはないようだ。

2001-06-09

タブブラウザ「Sleipnir」

 インターネット・エクスプローラー(以下IE)はもう要らない。ネットスケープも不要だ。すこぶるつきの便利なタブ型ブラウザである。私は最近になって知った。このブラウザは、2002年度「窓の杜大賞」を受賞しているフリーソフト


 IEを使っていると、次々と立ち上がる別ウィンドウに悩まされる。スレイプニルを使えば、悩みは解消。また、ポップアップ広告も別タブで表示されるため、ストレスが極めて少ない。消したい画面は「Ctrl+W」で操作。タブの位置は上にあるが、下にすることも可能。


 何と言っても嬉しいのは豊富な検索機能。50以上の種類が網羅されている。これで、「Googleツールバー」をダウンロードする必要もなくなる。


 カスタマイズの自由度が高く、初心者にはやや難しいかも知れないが、下記リンク先の【設定】を読めば、何とかなるだろう。


 使い始めた当初、ブラウザが一発で立ち上がらず、やきもきさせられたが、何度か使っている内にスムーズになった。


 作成者の柏木泰幸氏は、21歳の大学生というのだから驚き。


 その他のタブブラウザは以下――

2001-06-04

朝日新聞久々のヒット!


▼いつもこき下ろしてばかりいるので、たまには持ち上げることにしよう。6月4日付の天声人語が好かった。歯痛の話し▼「あの痛みは孤独な痛みだ。なぜかあまり同情されない。まわりは何と自己中心的な奴(やつ)ばかりなのだ、と歯ぎしりしても痛みが増すばかりだ」▼誰もが共感できる内容だ。歯痛に悩まされると周囲の雰囲気は確かに消去されてしまう。「孤独な痛み」とは言い得て妙▼ここでドストエフスキーの『地下室の手記』が引用される。記者子によれば「何といっても、初めて? 歯痛の『哲学的考察』をした作品」とのこと▼曰く「歯痛にだって快楽はあるさ(江川卓訳)」。「おまえたちも、いっそ眠らないで、おれが歯が痛いんだということを、四六時中感じつづけるがいいさ」▼実存的な思考が「結局、人間とは何と弱いものか」と結論される。この日から“歯の衛生週間”だってさ。ニヤリ。


▼だが、前日のエラーを見逃すわけにはゆくまい(6月3日付社会面)▼おわび記事。以下。「5月29日付夕刊『殴られ4歳死亡』の◯◯◯ちゃんの顔写真は、近所に住む別の4歳児のものでした」▼苦笑を禁じ得なかった。いまだにこういうことがあるんですな▼誤って掲載された子供の家族は、どんな顔をしたんだろうねえ▼新聞記事に写真が必要ではない見事な証拠と思うがいかが?

2001-06-03

『このミステリーがすごい!/1999、2000、2001年版』


ランキングが生む現象と陥穽


 このところミステリから離れがちだったので、後学のためと思って通読してみた。1988年(昭和63年)版が最初というから月日が経つのは早いものだ。因みにこの年のベスト3はというと、


【国内編】

 1.『伝説なき地』船戸与一(講談社)

 2.『そして夜は甦る』原籙(早川書房)

 3.『黄昏のベルリン』連城三紀彦(講談社)


【海外編】

 1.『夢果つる街』トレヴェニアン(角川書店)

 2.『推定無罪スコット・トゥロー文藝春秋

 3.『死の味』P・D・ジェイムズ(早川書房)


 となっている。原籙のデビューから13年も経つとは……。


 本シリーズは、ここ数年の間で市民権を獲得したようで、帯の惹句に「このミス第1位!」などと謳われることも珍しくなくなった。野次馬的な軽い内容が支持されている理由かもしれない。今や、内藤陳率いる日本冒険小説協会よりも影響力があるのではないか。


 面白いのは売れるようになったらなったで悩む種は尽きないようで、


 ここのリスト以外にも面白い本はたくさん存在するのだから、ランキングを盲信するだけでなく、読者それぞれが“個性ある読み方”を実践してほしいとせつに祈る。(1999年版)


 などと高説を垂れている。まるで、偏差値をつけておきながら個性尊重を叫ぶ教師の姿を思わせる発言だ。この号には本誌の匿名座談会と笠井潔との確執も掲載されている。調子に乗った匿名発言が笠井の逆鱗(げきりん)に触れたらしい。編集方針の底の浅さが馬脚を現した程度の内容なので読む必要はないだろう。


 そもそも毎年登場している池上冬樹・関口苑生・茶木則雄の3人が私は好きじゃない。この3人に薦められた途端、読む気をなくしてしまう。


 などと悪し様に書いてきたが、収穫は一つだけあったのだ。1999・2000年版に出てくる中条省平(ちゅうじょうしょうへい)を発見したことだ。中条は学習院大学フランス文学科教授。「直木賞の選評にモノ申す!(2000年版)」と題したレヴューでは、ラストシーンの処理の仕方を問題視した委員の発言を紹介。


 ラストの閉じ方が不親切である。(渡辺淳一


 作者はついに読者に幼女失踪の真相を明らかにしようとしない。その意図はどうであれ、作者は読者を欺いている。(井上ひさし


 これらの意見を「絶対的な真相を提示しないことが推理小説としての条件にはずれている、という留保である」とした上で、中条はこう斬ってみせる。


 だが、こうした多義的な真実というテーマは、ミステリーの歴史のなかでパターンとして認められているものであり、それはロナルド・ノックスの『陸橋殺人事件』とアントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』という奇跡的な大傑作を見ればわかるとおり、すでに1920年代(!)に確立されている。

 桐野夏生は、意識的にか無意識的にか、このパターンに則りつつ、これを人間心理の不可知性というきわめて現代的な主題を問うために応用しているのだ。どれか一つの犯罪の解釈を絶対的な〈真実〉として提示することは容易である。だが、その安易さを棄てたところに桐野の作家としてのまなざしの深まりがあるのであり、そこを見ないのは、直木賞=娯楽文芸という先入観に、選考委員自身が囚われているのではないか。


 また惜しくも受賞を逃した天童荒太『永遠の仔』については、それぞれの委員の批判を認めた上で(会話のぎこちなさ、図式的な物語など)、


 この小説を長いと評した人は堪(こら)え性のない老人であることを暴露したにすぎない。


 と一蹴。


 1999年版では「傑作『レディ・ジョーカー』『理由』のここが残念!」と題した批評もためになるものだ。単なる好き嫌いで一刀両断するような姿勢は微塵もなく、優れたバランス感覚を窺わせる内容となっている。


追記


 最近、知ったのだが、中条は別の著書で村上龍と対談し、べら棒に持ち上げてた。私は評価を変えざるを得なかった。


このミステリーがすごい! (’99年版) このミステリーがすごい! (2000年版) このミステリーがすごい! 2001年版

2001-06-02

絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子

    • 絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇

 泣いた。

 感動した。

 魂を揺さぶられた――。


 事件(神戸少年事件)から一年と経たないうちにワープロと向かい合うまでにどれほどの勇気を奮い起こしたことだろう。キーを叩くことは我が子の死を見つめることに他ならない。指先に込められた力は心の勁(つよ)さそのものだと私は想像する。


 娘の死、しかも惨殺、その上犯人は少年。三重の悲劇は言語に絶する苦悩をもたらし、精神がズタズタに切り刻まれるほどのストレスを与えたに違いない。余りにも過酷な運命と対峙し、もつれ合い、叩きつけられそうになりながらも立ち上がった母。それを可能にした力の源は何か? 生きる力はどこから湧き出したのか? 絶望の淵から希望の橋を架けられたのはなぜか?


 ページをめくり、感動を重ねるごとに疑問は大きくなる。


 音楽コンサートを通して文化を語り、報道被害の体験からマスコミに警鐘を鳴らす。実生活の中から紡ぎ出された。人生観・人間観がちりばめられている。机上の哲学など足許(あしもと)にも及ばぬほどの人間の叡智が輝いている。それはぜか?


 疑問はどんどん膨らみ雲のように立ち込める中で、彩花ちゃんの姿の輪郭がくっきりと見えるような気がした。あっ、と思うと雲は吹き払われ、彩花ちゃんの直ぐ後ろに山下京子さんがいた。


 母と娘(こ)の絆だったのだ。死をもってしても揺らぐことのない、死をも超えた永遠性をはらんだ絆だ。時空をも超越した生命的なつながり。次なる生によって再び母子(ははこ)と見(まみ)えるであろう確信。事件を必然性から捉える達観。山下さんは永遠なる絆を絶対的ともみえる態度で信じられるのだ。その生命と生命の絆は更に普遍なるものへと昇華し、犯人とされる少年Aをも母性によって包み込もうとする。行間に涙があふれ、紙背に血が滴る思いで記された言葉は限りなく優しい。


 山下京子さんの崇高な生きざまに接し、私の心までもが浄化された感を抱いた。


 事件に同時代性があるだけに、『夜と霧』(V・E・フランクル著、みすず書房)以上の感動を覚えた。


 これほどの魂の劇と、慈愛の詩(うた)と、聖なる物語を、私は知らない。

彩花へ―「生きる力」をありがとう (河出文庫) 彩花へ、ふたたび―あなたがいてくれるから (河出文庫)