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2001-06-30

『ブラック・プリンス』デイヴィッド・マレル


人生を翻弄された二人の孤児の復讐譚


 再読。十分堪能できた。国際謀略モノといえば、フレデリック・フォーサイスロバート・ラドラムと並んで三羽烏の一翼を担うマレルである。この後、全く別ストーリーの『石の結社』(光文社文庫)があり、『夜と霧の盟約』(早川文庫)では、両方の主人公が一同に会するという変則的な3部作となっている。


 私がこの手の小説に惹かれるのは、スパイという職業のプロフェッショナル性への憧れからである。国家の大義(善悪は不問に付す)のために犠牲を厭(いと)わない精神、任務を遂行するための細心の注意、鍛え抜かれた強靭な肉体と精神、難局によって今まで以上に高められる能力――こうしたことが緻密に描かれていればいるほどよい。そして必ずといってよいほど、この手のストーリーは硬直した組織や、独善的な指導者に主人公が苦しめられ、人間性が勝利を収めるという結末になるものだ。


 あの『一人だけの軍隊』(早川文庫)から12年を経て、マレルは再び、傑作を物した。


 CIA工作員のソール・グリスマンが、米国各界の大企業の代表が集う「パラダイム財団」のメンバーを爆発物で殺害する。任務を終えたソールが、逃走支持に従って別の場所へ移動したところ、次々とソールの命を狙う人間が現われる。情報が漏れたのか? 局内のどこかに裏切り者がいたのか? ソールは必死になって逃げ続ける。あらゆる可能性を考慮した結果、共通する分母はエリオットだった。彼はCIAでナンバー2の要人であり、孤児だったソールとクリスの養父でもあった。組織を頼ることができなくなったソールは義兄弟のクリスと連絡を取り、謀略の本質に迫ってゆく。次第に明らかとなったのは、第二次大戦中から世界的な規模で繰り広げられた諜報機関の盟約だった。養父がソールとクリスの2人にチョコバーで示して見せたのは、愛情ではなく、彼等を利用しようという魂胆からであった。


 時を同じくして修道院から出たクリスは、工作員にとって中立地帯とされている場所で、友の仇を討ってしまう。タブーを犯したクリスは追われる身となる。エリオットはクリスを確保し、ソールを追わせるように仕向ける。


 手順。エリオットは、どんなことがあろうとも、手順だけは忘れるな、と常に教えた。それが延命を保証する唯一の手段なのだ。目標を必ず一周し、一帯を点検すること。何があろうとも確認を怠るな。


 直後にソールは撃たれる。


 コインを挿入し、暗記したナンバーをダイヤルした。すると、録音テープの声が、時刻は2時46分であると告げた。たとえクリスが敵につかまり、貸し金庫の中の伝言を吐かされたとしても、この電話ではたんに時刻しか聞き出せず、戸惑うのが落ちだろう。クリスを生かしておき、さらに問いたださなければ、その特定の時刻に意味がないことがつかめないのだ。時刻が告げられたこと自体に意味があり、それは電話ボックスの壁を見ろという合図だった。


 これは行方をくらませたソールとクリスが連絡を取るところ。


「いい所だ」「大使館から10ブロック目よ」背後でエリカが言った。

 ソールはしかし、景色をながめてはいなかった。窓外へ目を向けたのは、エリカを試すためである。


 エリカはかつての恋人であり、モサドの大佐でもあった。この時、ソールは既に世界中のあらゆる諜報機関から命を狙われていた。


 訓練に次ぐ訓練は、常に最悪の事態を想定して行われる。万般のケースに対応するには臨機応変の柔軟さが求められる。目配り一つをおろそかにすれば死が待ち受けているのだ。以下は訓練での教官の教え――


「いちばん重要なのは、自分の防衛能力を損なわず、相手に決定的な負傷を負わせることだ。強い衝撃を受けても活動能力を失わず、しかも自らの体に備わっている武器は三つある。肘の先と、親指と人差し指の付け根と、掌底だ。追って、スピードと調和、バランスを保つ正しい姿勢とともに、これらの武器の使い方を教えよう」


「敏捷さを得ようとするなら」とロスベルグが説明した。「洗練さが必要なことを理解しなければならない。持久力も体力も関係ない。自分に比べて相手がどれほど大きく、頑丈であろうと問題ない。正確な位置をあやまたず一撃すれば、相手を殺すことができるのだ。最も重要な要素は反射神経だ――だからフェンシングとバレエを練習する。自分の体を支配する――自分の体の中でくつろぎ、精神と肉体を一体化できるようにならなくてはいかんのだ。そして、考えたことをすぐに行動に移す。ためらったり、タイミングを間違えたり、攻撃する場所を誤ったりすれば、相手に殺されてしまう。スピードと調和と反射神経――自分の体同様に、これらが武器となる」


 極限状況を想定した上で吐かれる言葉の数々は、美しい響きを伴った示唆に富んでいる。


 自分の目的のために人間の感情を利用したエリオットの作戦は失敗した。自分が教えた以上のものを体得した弟子達によって追い詰められる。義兄弟の絆が復讐に花を添える。裏切りは人間として最低の行為だった。ソールとクリスが挑んだのは、簡単に人間を切り捨てることができる魔性との戦いだった。


 エリオットを追い詰めるに従ってソールの心は揺れる。正しい人間のバランス感覚が好ましい。エリカの説得にも応じることなく、彼は復讐の鬼となって走り続ける。


 物語は最後の最後まで二転三転し、ページを閉じることができない。悲劇の要素もしっかりと盛り込まれ、類い稀な活劇小説となっている。


 エリオットは最後の最後まで罠を仕掛けてくる。正義に目覚めた弟子の寛容さをも攻撃の対象とする。しかし、虚構の絆は真実の絆によって葬られる。


 フリーマントルの傑作『明日を望んだ男』(新潮文庫)と、デュマの『モンテ・クリスト伯』(全7冊:岩波文庫)を併せたような面白さは絶品という他ない。

ブラック・プリンス

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