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2001-10-30

『フロスト日和』R・D・ウィングフィールド


デタラメの底に覗くタフな精神


 数年前の話題作でシリーズ第2作目となる本書は714ページで厚さが何と2.6cm。ロンドンから120km離れた地方都市デントンが舞台。上司から疎(うと)まれ、部下からは蔑(さげす)まれているジャック・フロスト。以前、いくつかの書評を読んだ際に、ただの好い加減な中年という印象を受けたのだが、とんでもない誤りだった。アクの強いタフ・ガイである。これは作品全体についてもいえる。その辺りで好き嫌いが分かれるところだろう。


 フロストは同僚からのみならず、被害者からも煙たがられる。例えばこんな調子だ――


「きみは、度しがたい間抜けだ。くそにも劣る能無しだ。そんなやつを殴っても、わたしの手が汚れるだけだ」


 これはデントン・ウッドの森で連続暴行魔の被害に遭った女性を、捜索願いの出ていた女子高生と間違えたのがそもそもの原因。被害者はストリッパーをしていた30歳の女性であった。先の発言に対してフロストはこう語る――


「だが、あちらの言うことは正しい。おれはまさにその通りの人間だもの」


 その上、フロストは怠け者だった。以下は下院議員の息子を引き逃げ容疑で事情聴取する際のやり取り――


「だが、まあ、ほかに名案も思いつかないことだし、ここはひとつ、おまえさんの言うやり方でやってみるか。事情聴取はまかせた。おれは、閃(ひらめ)きを司(つかさど)る女神が股倉のアンテナをくすぐったときだけ、控え目に口を挟ませてもらうことにするよ」


 更にフロストはドジだった――


 会議室のドアが勢いよく開き、遅刻者がよたよたと入室してきた。入室したとたん、ラガー・ビールの空き缶につまずくというおまけつきで。遅刻者に蹴り飛ばされた空き缶は、通路を転がり、演壇の上に跳ねあがり、アレン(警部)の靴に当たってようやく止まった。


 だが、彼はタフなのだ。この後、このように続く――


「おはよう、フロスト警部。会議はきみ抜きで始めさせてもらったよ」「気にしなくていい」フロストは悪びれる様子もなく言った。「今朝、くそいまいましい捜査会議があることを、すっかり忘れてたんだ。長くはかからないだろう? ひとつ手短に頼むよ。10時から始まる検死解剖に立ち会わなくちゃならないんだから」フロストは、ぶるっと身を震わせた。「なんだ、この部屋やけに寒いな」開け放ってあった窓を派手な音を立てて閉めると、彼は最後列の空席に腰をおろし、煙草に火をつけた。


 フロストが入って来る前に、アレンが煙草を禁じ、窓を開けさせた直後の出来事。主導権の握り方が実にふてぶてしい。この後も煙草を控えてもらいたい、とアレンから注意されるが――


「そうかい」フロストは煙草をくわえたまま、笑みを浮かべた。「おれも煙草を吸ってるあいだは、小難しい演説を控えてもらいたい。だが、おれに気遣いは無用だよ。なんとか我慢してみるから」


 と応酬し、一同の爆笑を誘う。めいっぱい煙を吐き出したフロストの隣にはマレット警視が座っており、フロストは恐怖にすくみ上がる。


 火曜日の夜勤から、金曜の夜勤までが描かれているが、その間、フロストとウェブスターのコンビは殆ど眠らずに仕事をしている。連続暴行魔事件を始め、浮浪者殺人事件・窃盗・ひき逃げ・賭博場での現金強盗・警官殺人と事件づくめ。「そもそもなすべきことが多すぎた。おまけに、どれひとつ片づいてくれそうになかった」(256p)。そうして、犯罪統計の提出資料は仕上がることなく、残業手当の請求書類も手付かずのままだった。ウェブスターは業を煮やす。


「くそっ、どうせなら、われらが敬愛すべき署長の、生殖機能を司る部分を蹴飛ばしてやりたいよ」(512p)などと部下の前で喚(わめ)き立てる彼は、確かに洗練とは懸け離れた存在で、ダーティーな印象を受ける。だが、やくざ者の弱みに付け込んで、彼の店で働いていた被害者のストリッパーに対して、療養中の給料を払うよう促す優しさなどは、大いに彼の人柄を窺わせるものだ。また、署長が下院議員の圧力に屈している時でさえ、彼は自分の信念を絶対に譲らない。


 事件の謎が明らかとなった時、フロストはこう語る――


「まあ、お巡りとしちゃ、たぶん、それほど出来のいいほうじゃないだろう。それでも、やっぱりおれはお巡りだ。そもそも、なぜお巡りになろうと思ったのかは自分でもよくわからない。だが、そんなおれにも、これだけは言える。おれは捏造(ねつぞう)された証拠を黙って見逃すために、お巡りになったんじゃない。死んじまったやつに、たとえそいつがけちな悪党だったとしても、犯してもいない人殺しの罪が着せられるのを黙認するために、お巡りになったんじゃない」


 普段はだらしのない警部であるが、実は志を見失ってはいない。その点を踏まえると、妙にバランスの悪い表紙カバーのイラストも、どことなく星一徹に似て見えてくる。


 事件解決への途上で、やや御都合主義的なところが散見されるものの、そんなものには目を奪わせないだけの魅力がフロストにはある。ありきたりのヒーローにうんざりしている人にとっては、うってつけの一書である。


 この作品では顕著なんだが、イギリス人ってのは罵る時は、やたらと「くそ」をつけると見える。「くそ古本屋から、くそ面白くない本をつかまされ、くそ店主を喜ばせてしまった」などと言われぬよう精進(しょうじん)を心掛けたい。


フロスト日和

2001-10-28

石塚公昭

 人形作家・石塚公昭氏の公式サイト。「作家・文士シリーズ」と題したギャラリーには江戸川乱歩稲垣足穂澁澤龍彦などの人形が紹介されている。作品を取り巻くシチュエーションが絶妙でため息が出る。それにも増して、作品のリアリティを支えているのは影であろう。顔や身体の影が、驚くべき生の鼓動を表現している。つまり、削り取る作業が作品に魂を吹き込んでいるのだ。


 私の最もお気に入りは「ジャズ・ブルース シリーズ」である。ここの一番下にある画像をデスクトップの壁紙として使わせてもらっている。


 この作品に至ると、影が光を浮かび上がらせ、その上、体温や汗までを表現していることに気づくだろう。闇に覆われたジャズ喫茶の中でウッド・ベースに心拍を煽り立てられるような趣がある。それは、あたかも産道の闇すら想像させるもので、光を目指して進みゆく人生肯定の余韻に包まれている。エッセイも読み応えがあり、製作秘話などが盛り込まれていて目が離せない。

2001-10-27

小沢昭一


 20世紀は車の時代で、21世紀はITの時代だって。19世紀的に生きたいな。子供のころの心に戻りたいのは保存のためなんかじゃなくて、消えそうなものと出会えば元気になれるからなんですよ。


【読売新聞 2001-10-27夕刊】

2001-10-26

ニュース拾い読み・書き捨て 12


「焼き鳥店に『におい』差し止め命令」――神戸市垂水区の住民が、焼き鳥店から出るにおいなどが、快適な生活をする権利を侵害したとして提訴。23日、神戸地裁の判決が下った。裁判官は「強い臭気は人格権を侵害する」として原告の訴えを認め、同市の規制基準を超える臭気発生の差し止めを命じた。


【読売新聞 2001年10月24日付】


▼煙ならわかるが、においぐらい我慢できなかったんだろうかねえ▼まあ、我慢できない方々がいらっしゃるんだから、しょうがあるめい。俺は焼き鳥のにおいは好きだね▼「においが人格権を侵害する」としたら、屁なんぞはどうなるのかしら?▼まず、あれだね。においの基準を作らなきゃならないね▼で、前の日に豆なんぞを食ったりして臭いのをぶっ放した野郎は「におい差し止め」を命ずる▼更に、食事を作った奥方も同罪▼そしてまた、製造者責任法(PL法)によって農家も罰するのだ▼最近の若いのはキレイ好きだが、昔は風呂に入ってないのが、うようよしていた▼てめえ、背中にボウフラが湧いてるんじゃねえのか、ってな野郎がいたもんですな▼においに敏感になるのは、五感が命の危機を知らせているのとは全然違って、不快なことに耐えられない虚弱な性質を現しているように思えてならない。



「『現金袋』強奪したら…被害総額2000円・石川で銀行強盗」――23日午前11時35分頃、石川県の北国銀行山島台代理店に強盗が登場。男は液体の入ったペットボトルをカウンターに置き「これをかけるぞ」と職員を脅した。男はカウンター内にあった麻袋と、客がカウンターに置いていた1000円札1枚を奪って逃走。麻袋には1円玉しか入ってなかったとさ。


【読売新聞 2001年10月24日付】


▼なかなか愉快なニュースである。行員に怪我もなかったようで何より▼強盗が麻袋を開けた瞬間の顔は見物(みもの)だったろうねえ▼骨折り損のくたびれ儲けを絵に描いたようなニュースで▼さて、犯人は強奪した2000円で何を買ったんだろうねえ。楽しい想像である▼一杯呑みに行って頭を冷やしてくれりゃいいんだが、次なる犯行のためのストッキングでも買ってるかも知れぬ▼いずれにしても1円玉をずらりと並べて、赤面している姿を思い浮かべるのは痛快だね。

2001-10-25

フライングの弁明――悪いのはパソコンの野郎なんですよ


 発行が遅れたことをお詫びいたします。「逆耳はまだか!」というお叱りの声を多数寄せて頂きました。まさか、これほどの反響があるたあ思いませんでしたぜ。当マガジンは既に社会的な影響を与えるまでに読者の生活を左右しているようです。本日までに電話が1本とメールが1通寄せられております。まあ、これは氷山の一角のようなもので、多分、逆耳が待ち遠しいあまり、家に帰る度にパソコンを立ち上げていた方も推定で1500人はいたものと察しております。


 ひょっとすると同時多発テロの影響か、と思われた方も多かったのではないでしょうか。ブッシュと連絡を取り、ビンラーディンを説得する逆耳編集長の寸暇を惜しむ活躍を御想像された方も間違いなく3人はいたと私は踏んでますがね。


 そうした憶測は決して間違ったものではありません。ブッシュに電話をしようとしたことも1度や2度ではありません。残念なことに海外への電話の掛け方を知らなかったものですから、実現には至りませんでした。また、ビンラーディンともコンタクトを取ろうと、しかるべき筋に働きかけたのですが、私の人脈では江東区を出ることすらままならかった。正直に申しますと「ビンラーディンと至急、連絡を取りたいのだが」と電話をしたのは亀戸3丁目の友人にまでであった。相手は私の真意を計りかねたのであろう。「お前、頭がどうかしたんじゃないのか?」と言ったことを付け加えておく。


 中東との対話を何とか成立させようとする私を嘲笑うかの如く、金曜日の朝、突然、パソコンが立ち上がらなくなった。ウンともスンとも言わない。最初の画面すら現れないのだ。電源を外したり、揺すったり、殴ったりしても駄目。しまいには微笑みかけてみたが全く効果がなかった。女性であればイチコロなんだけどね。


 私は気が長い方ではないので、パソコンを買い換えようかとも思った。が、その前にやるべきことはまだあった。で、リカバリーしてみた。上手くいった。ところが今度はADSLの設定の仕方がわからない。これは工藤にやってもらったので、私は全く何も知らないのだ。ところが普段は暇な工藤の野郎がこの週に限って、土日も仕事だというではないか。挙げ句の果てには帰宅が12:00を回るという。


 私のところは先月からYAHOO! BBにしたのだが、YAHOO! の掲示板でも悪罵されているように、最低のサービス内容となっている。信じられないことは電話の窓口がないのだ。つまり問い合わせはメールのみ。これによって人件費が大幅に節減されるのは目に見える。サポート体制は存在しないといってよいだろう。まあ、そんなわけで工藤が来るまで接続できない日々が3日も続いてしまった。


 つまるところ、今号が遅れたのはパソコンが一番、悪い。その次に工藤に責任があるな。私にはこれっぽっちの責任もない。だから、全く悪びれるところがない。ちなみに私が尊敬している人物は植木等である。

2001-10-16

『LINDBERG VII』LINDBERG(リンドバーグ)


 1988年に結成されたリンドバーグの7枚目のアルバム。リリースされたのは1994年。いつ購入したのか覚えてないが「清く正しく行こう」が聴きたくて買ったことを覚えている。私が持っているCD・レコードの中では最も明るい部類に入る。手持ちの物は暗いのが多いんだよねー。


 バンド名は、プロペラ飛行機全盛時代に、自分で作った単発機・セントルイス号で一人大西洋無着陸飛行を成し遂げた郵便飛行士Charles Lindberghの名前を拝借している。


 リード・ヴォーカルの渡瀬マキは1969年の早生まれだから、私と学年でいえば5年しか違わない。このアルバムを録音した当時は25歳ということになる。歌を聴く限りでは、もっと若いのかと思っていた。思春期の少女さながら、威勢の好さが全開である。声の単調さも何のその、赤毛のアンを思わせる短距離全力疾走型である。時折、街角で飛んだり跳ねたりしている子供がいる。見ているだけで、こっちまで楽しくなってくるような光景が繰り広げられる。そんな気分に極めて近い。


 珍しい表現や、奇をてらったフレーズなどはどこにもない。歌詞も素直に心の内を解き放した自分の言葉で綴られている。


 私の愛しの あの人に

 およいだ視線 なげないでよ


 そうね器量じゃ 負けてるかも

 だけど女は 愛嬌とね 度胸だよ(「Cute or Beauty」)


 全然 態度ちがうじゃない

 猫なで声を ださないでよ


 かき上げる長い髪は ないわ

 だけど最後は アイディアとユーモアよ(同)


 恋のライバルに真っ向から敵愾心(てきがいしん)を燃やす女の子だが、陰では「三度目だけど 一生のおねがい」を神様にしている。揺れる乙女心のバックではコミカルなギターが流れる。


 彼氏が他の女の子とデートしているというニュースをキャッチ。現場を取り押さえようとスッピンのまま飛び出したのはいいがタクシーがつかまらない――


 まずいよ暗いよ雨まで降ってきた

 もう ここで53分立っている(「TAXI」)


 これなんぞは大笑いしてしまう。歌の力み方が真に迫っているのだ。そうかと思えばこんな歌詞も出てくる。


 退屈な毎日に きっとひそんでいる

 希望の差し込む 窓がある


 やがて髪は白く 階段きつくなっても

 情熱の中で いつも生きていたい(「八月の鯨」)


 足腰が弱まるという書き方をせずに「階段きつくなっても」としていることに注目したい。将来をも主観で捉えられるところに、人生に対する意欲的な態度が表出されている。


 全曲オリジナルで歌詞は全て渡瀬が書いている。バンドでありながら控えめな演奏が歌詞を引き立てている。それは影が薄いのではなく、抑制された意志を感じさせるもので好ましい。リズムを心地好く奏でるバックの存在は、聴き込むごとに磐石の構えを見せる。


 ライナーノーツに掲載されている渡瀬の写真は、ショート・カットで少年のような顔つきだ。歌声からもノンセクシュアルな印象を受けるが、時折、キラリと女を感じさせる片鱗が、これまた堪らない。


 昨日より今日よりも明日こそ もっと 素敵になるために

 あわてずに さわがずに 気取らずに そう 清く正しく行こう(「清く正しく行こう」)


 昨日より今日よりも明日こそ もっと 綺麗になるために

 水のように 月のように 空のように そう 清く正しく行こう(同)


 率直でストレートなメッセージが、見えないところで手抜きばかりしている大人の心をミサイルのように直撃する。しかもこの後に奏でられるフレーズのわずかな部分が、久保田早紀の名曲「異邦人」のイントロと似ていて、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。


 どれをとってみてもシングル・カットが可能な曲ばかりで、隙のない仕事っぷりが見事。私の知っている限りでは、これほど完成度が高いアルバムは、忌野清志郎の『Memphis』ぐらいしか記憶にない。


付記


 先日、『8』を買ってきたのだが、こっちは全然ダメ。貴っ様ぁーーー、いい年こいてコギャルやってんじゃねぇーよーーー! という具合。まだ、数回しか聴いてないが、全曲束(たば)になっても『VII』の1曲にもかなわない。芸術の道は険し。


LINDBERG VII

2001-10-09

『木を植えた人』ジャン・ジオノ


世界を変えゆく信念の営み


 小品である。わずか42ページ。しかも文字が大きいので小一時間もあれば読めてしまう。タイトル通り、木を植えた男の物語である。


 我々はどんな世界に住んでいるのだろう? 同じ社会で呼吸していても千差万別の世界が人それぞれに存在する。しかも、一人の人間が持つ顔は多様だ。居心地のよい世界にいれば、人は安住を求めるだろう。そこは冬のビニールハウスのように温かく、厳しさとは無縁に違いないのだから。だが、多少の不満を抱えた場合はどうだろう? 多くの人は苦い物でも飲み込むようにして我慢するのではないだろうか。「所詮、人生なんて、こんなもんさ」などとうそぶきながら冷笑する大人はそこここにいるのではないか。居心地のよい場所に安住すること、多少の不満を抑えながら何も行動しないこと、これらはいずれも生きながらにして死んでいるような人生だ。金持ちの家で飼われている座敷犬程度の幸福しか手にすることができないだろう。


 私が以前、勤務していた会社の社長が酒席でこう語った。「一度、大きな病気で入院したから、後は美味いものを食べて、好きなゴルフが出来れば、それで人生満足だ」と。しゃあしゃあと下らない人生論を述べる社長を尻目に私は思った。「こいつは人間として既に終わってるな」と。


 若い連中が人生の深淵を知らずして本気で思いこんでいることに「好きなことが出来れば幸せ」というのがある。では、食べたい時に食べて、眠たい時に眠ることが果たして幸せであろうか? コタツで丸くなっている猫が羨ましいのか?


 結局は好き勝手ができて、楽な人生を歩みたいと白状しているようなものであろう。吉川英治が裕福な青年にこう語ったという。「君は不幸だ。早くから、おいしいものを食べすぎ、美しいものを見すぎているということは、こんな不幸はない。喜びを喜びとして感じる感受性が薄れていくということは、青年として気の毒なことだ」。生涯忘れられない言葉だ。また吉川が愛した言葉に「苦徹成珠(くてつじょうじゅ/苦に徹すれば珠と成る)」とある。


 そう考えると、人間としての輝きや幸福というのは、勇んで労苦に徹しゆく中にあるのかも知れない。スポーツや芸術の世界を見ればわかりやすいだろう。自身の限界にまで挑み、更にまた、限界から挑戦してゆく。山また山を乗り越え、波また波を突き抜けた向こう側に幸福の地平が開ける。


 ある人が真になみはずれた人間であるかどうかは、好運にも長年にわたってその人の活動を見つづけることができたときに、初めてよくわかる。もしその人の活動が、たぐいまれな高潔さによるもので、少しのエゴイズムもふくまず、しかもまったく見返りを求めないもの、そして、この世になにかを残していくものであることが確かならば、あなたはまちがいなく忘れがたい人物の前にいるのである。


「なみはずれた人物」はただ木を植えた。ひたすら木を植え続けた。寡黙な羊飼いブフィエは、鉄の棒を地面に突き刺し、その穴に団栗(どんぐり)の実を植えた。しかもその土地は男のものではなかった。男は一粒ずつ心を込めて日に100個の団栗を植えた。既に3年が経過し、今までに10万個の実を植えたという。荒地だった土地に1万本の樫の木が育っていた。


 第1次世界大戦を終えて、そこを訪れると、樫は既に10歳を越え、人間の大人ほどの背丈になっていた。


 このすべてが特別の技術をもたないこの人の手と魂から生まれたものであることを考えると、人間は破壊するばかりの存在というわけでもなく、神に似た働きもできるのだ。


 ブフィエはブナや樺をも植えていた。つまり、大戦中も休むことなく仕事を続けていたのだ。


 容易に想像がつくであろうが、成功をもたらすためには、それを妨げようとするものにうち勝たねばならない。情熱が勝利を得るためには、失望と戦わねばならない。ある年、10000本の楓(かえで)を植えてみたが1本も育たなかった。翌年、楓はあきらめ、ふたたびブナにかえたところ、樫以上の成功だった。


 その昔、20世紀初頭にはたかだか3人の住人を数える不毛の大地だった。


 それがなんというかわりようだろう。空気さえ前とはちがう。かつて私をおそった乾燥した烈風のかわりに、いろいろの香りの混ざった優しいそよ風が吹いている。水の流れるような音が高地から聞こえる。それは森に吹く風であった。

 もっと驚くことには、水場にに水が落ちる音が聞こえるではないか。いってみると、きれいな泉水ができていて、水量も豊かだ。


 遂に村には10000人の住民が暮らすようになる。半世紀前には廃墟だった土地に、子供たちの朗らかな声が飛び交い、勤勉な男女がいそいそと働く姿があった。


 一粒の団栗が多くの幸福の実を結んだ。一人の男が多くの人を幸せにした。男は木を植えただけの人生だった。しかし、これほどの幸福な人生があるだろうか?


木を植えた人

2001-10-06

ニュース拾い読み・書き捨て 14


日米同時多発本塁打(読売新聞 2001-10-06付)


▼チト不遜なタイトルだな▼海の向こうではジャイアンツのボンズ外野手が大リーグ記録タイの70号をかっ飛ばした。この3連戦で3敬遠を含む9四死球というのだから、難産の末の大記録。残り3試合は目が離せない。とはいうものの内にはテレビがない▼日本では近鉄のローズ選手が惜しくも新記録ならず。タイ記録の55本のまま、昨日、最終試合を終えた。ローズに対してもあからさまな敬遠こそ少なかったものの、ストライクが極端に少なかったのは事実だ。問題視されたダイエー戦では、お偉いさんから異例のお達しが出たほど。ダイエー首脳陣の一人は、新記録が出ることをハッキリと拒否するコメントを放った。馬鹿な野郎だね、全く。こういう手合いは、豆腐の角に頭をぶっつけて死んでもらいたいね。お前に野球をやる資格ナシ。公務員となるか、自民党代議士のお抱え運転手にでもなった方がよかろう。この手のどうしようもない保守的性格の骨董品野郎は、日本のそこここにいらっしゃる。外国人力士を拒もうとした相撲協会のジジイとかだね。こいつら自民党に投票してんだろーな▼ボンズは外国人選手にしては珍しく、日本受けしそうな物静かなタフガイ。マスコミの前で派手なパフォーマンスをすることは全くない。「四球も立派な戦術だ」という彼のコメントにスポーツマンシップの鑑(かがみ)を見る思いがする。だが「立派な戦術」というのは、四球が不可欠なゲームの局面であれば言えることで、記録潰しの卑怯な手段とは質を異にする。数え切れないほどのファンが注目する中で、よくもこうした下劣なことができるものだ▼日米の子供達は学んだことであろう。自分よりも強い者とは戦わないことが利口であることを。自分より優れた者と対峙した時には尻尾を巻いて逃げることを▼ホームラン記録を妨げた投手・相手チームの卑劣さはテロリスト並みだ。スポーツマンとしての誇り、自らの技術に対する確信、勝負を挑む潔さ、それでメシを食っているというプロの自覚、これらがどこにも見当たらない▼四球を投じた相手投手と、それを指示、あるいは黙認した監督を逮捕することを当局に要請したい。多くのファンや青少年から夢を奪う罪は余りにも重い。

2001-10-03

目撃された人々 9


 早稲田青空古本祭の初日は雨にたたられた。青空が顔を出した2日目に足を運んだ。場所は早稲田大学文学部傍の神社。前日が雨だっただけに結構な賑わいだった。若い女性もチラホラ見えたが、あれは早稲田の学生さんかしら。収穫はまあまあといったところ。及第点ギリギリですな。早稲田古書店街の総力を挙げてこんなもんかね? というのが偽らざる実感である。


 この手の場所で業を煮やすのは、 古本屋のオヤジとおぼしき年寄りが自分の動くペースを死守する余り、平気で人の身体にくっついてくるところだ。昨日もある年寄りが3度、同じ真似をしてきたので「おい!」と声を荒げた瞬間、すっと身体を離すのだが、どこ吹く風といった面持ち。


 もう一遍やったら鳩尾(みぞおち)にパンチを入れてやろうと思ったが、チャンスは訪れなかった。ジイサンのレーダーには、私の顔がちゃあんと引っ掛かるようになったらしい。


 政治家どもがボーーーッとしている間に、不況の大波が次々と襲いかかってきているが、その中であれだけの賑わいを目にすると、なんとも心が励まされる思いがする。

2001-10-02

『紙の中の黙示録 三行広告は語る』佐野眞一


生傷から病巣を覗いてみせる渾身のルポ


 副題は「三行広告は語る……」。普段は目にも止めない三行広告であるが佐野の手腕にかかると恐るべき社会の現実が立ち現れてくる。ご存じのように、この手の広告はデザイナーやコピーライターを必要とすることもなく、略字などが多く使われていて、それだけに「広告主側のむき出しの意志があらわれる結果となっている」。


 冒頭の一章で著者は三行広告が「もう一つの社会面」であることを説く。戦後の社会面を賑わせた事件の多くが、予兆のように三行広告出している(光クラブなど)。また、グリコ・森永事件においては、犯人が取り引きに応じる合図としても利用されたとのこと。こんな内容から始まっては一気に引き込まれるのも当然である。いかがわしい商売の求人広告や、死亡通知の黒枠広告、また、電柱広告、尋ね人などをも取り上げ、業界を支える人々のスケッチで締め括られている。


 社会の欲望が噴き出した感のある三行広告。それはどこか、出来たばかりの切り傷のような悲哀を伴っている。佐野はそこから血管に溜まったコレステロールを見せ、悪性の腫瘍や、肥大した臓器までさらけ出してみせる。少々堅い文章ではあるが、角度のついた切り口から展開される内容は決して飽きることがない。これが高校の教科書に採用されていれば、私ももっと真面目に勉強したことであろう。


 佐野は大地に耳を当てて、社会の基底部に響いている現実の音に耳を凝らす。金、欲望、裏切り、そして転落。たった三行のメッセージを送る人間がいて、それを受け取る人間がいる。尋ね人の広告などは1億人の中の、たった1人に宛てられたメッセージである。そこには、人それぞれの来し方があり、言うに言えない事情もあろう。広告に応じる者もいれば、黙したまま心を揺らしている者も、またいるであろう。わずか三行を挟んで人間と人間とが向かい合っているのだ。


 大事件やイチローの記事なんぞに目を奪われがちだが、たまには三行広告に目を凝らして、想像力を膨らませてみてはいかがだろう。

紙の中の黙示録 三行広告は語る 紙の中の黙示録

(※左が単行本、右が文庫本)