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2001-12-28

『同じ月を見ている』土田世紀


永遠を見つけるための生き方


 泣ける。涙が噴き出すという形容が大袈裟でないほど泣ける。既に5回読んだが、それでも泣ける。


 少年の心を失わずに生きた男の物語だ。男の名は水代元(みなしろげん)。子供の頃から“ドンちゃん”と呼ばれている。母親は既に死んでおり、飲んだくれの父親から虐待されながらの極貧生活。鼻腔が大きく膨らみ、厚ぼったい唇をしたその相貌はやや動物的だ。


 ドンちゃんは幼い頃から人の心を読み、それを絵にした。ある時は喜ばれ、またある時は嫌悪された。


 近所に住む大使館員の娘エミと知り合う。難病の少女エミは、会った途端、ドンちゃんに心を開く。テッちゃんを含めて3人で遊ぶ楽しい日々――。エミの誕生日にドンちゃんは似顔絵を書いた石をプレゼントする。少女は、20歳(はたち)になるまで毎年、私の絵を描いて欲しいと望む。それを希望に、少しでも輝いて生きたかったのだ。


 エミ、20歳(はたち)の誕生日。その約束を果たすためにドンちゃんは少年院を脱走する。だが、周囲の人間は打算と利害という苦い水を飲んで大人へと変わっていた。変わらぬドンちゃんを受け容れることのできないテッちゃん。ドンちゃんを殴りながら、自分の欲望を吐き出す姿の何と醜悪なことか。テッちゃんは、ドンちゃんがエミを自分から奪い取りにきたのだと邪推した。


「シットより…好き…………大事……こと」(1巻176p)


 と、本気で思っているドンちゃんは殴られながらも、テッちゃんを恨むことはなかった。ドンちゃんは少年時代を回想しながら、


「テッちゃんは…………ずっと優しくしてくれた。

 俺のこと汚い…臭いって言わなかったもんな…

 遊んでくれたもんな…

 俺……よかったな…

 いっぱい楽しい想い出できたもんな……」(2巻38p)


 と泣きながら微笑む。そんなことが現実にはあるはずがないと嘲笑うのは簡単だ。馬鹿馬鹿しいと本を閉じる人もいるかも知れない。だが、殴られても尚、感謝せずにはいられないほど、ドンちゃんの孤独の闇は深かったのだ。駆けつけたエミは後ろ姿のドンちゃんと一瞬、目を合わせただけでドンちゃんからのメッセージを余すところなく理解する。


 キャッチバーで知り合った金子とドンチャンは盃(さかずき)を交わし、義兄弟の契りを結ぶ。鉄砲玉の役目を命じられた金子が、死んだ兄貴分の妹・雪恵の行く末を案ずる。自分に万一のことがあったら雪恵を頼むと言われた瞬間、ドンちゃんの顔は一変する(3巻110p)。


 組長を殺害するよう説き伏せられた金子は、最初からその指示を出した坂崎を殺すつもりだった。金子の企てが失敗し、組長が撃たれようとしたその時、ドンちゃんが身体を投げ出し、銃弾は左胸を貫通した。時を同じくして手術を受けたエミも昏睡状態となる。ここで前半のクライマックスとなる。二人は同時に臨死体験をする。安否を気づかう組長と金子が座るベンチの横を少年時代のドンちゃんが駆け抜ける。病院の窓から飛び出したドンちゃんの生命はそのまま大宇宙に漂う。エミはその姿を見つめながら身悶えする。


 そこには母がいた。母は微笑みながら両手を差し出す。


「おいで、もういいんだよ。

 その人達のことはもう忘れなさい。

 真から心を開けばそこに人はどんどん汚れたものを放り込んでくる。

 よくこらえたね、元」(4巻76p)


 地球を見下ろす高みでドンちゃんは母の胸で泣く。


「元……あんたは少し欲張りだったね。

 あんたが欲しがっていたしあわせは、

 そんなに大きく、

 どんどんふくらんでいったんだね。

 地球ぜんたいがしあわせになることをかい?

 欲張りな子だよ……

 泣きなさい、元……

 そして笑顔で見送りなさい。

 あんたの祈りがいつか叶うことを信じて、

 もうサヨナラを言いなさい」(4巻86p)


 ドンちゃんは現代という悪世(あくせ)に遣(つか)わされた菩薩だった。菩薩の誓いは、一切衆生が幸福になるまで戦い続けることを旨とする。表面的な姿形など問題ではない。人生を通して如何なる心で日々を生きたか、何を目指して生き抜いたかで一生の価値は決するのだろう。


 ドンちゃんが流した涙の意味を思う。善なる心が通用しなかった人々に対する慙愧の念か。はたまた、世の中を変えることができなかったことへの悔しさであろうか。青く輝く星は、そこに棲む人々の真っ黒な欲望で覆い尽くされていた。


 そこへエミが駆けつける――


「約束したじゃない。

 ずっと一緒だって言ってくれたじゃない」(4巻97p)


 エミは少女の時のままで、ドンちゃんに笑い掛ける。そこには山火事の類焼で死んだエミの父親もいた。


「母ちゃん……ゴメンなさい」(4巻111p)


 そう言うなり、三途の川を渡ろうとするエミの手を引っ張ってドンちゃんは再び走る。エミはもう帰りたくないと泣く。


「さっきのは……永遠の場所じゃない……

 そう呼べるものは……あそこで自分で見つけるしかないんだ」(4巻117p)


 ドンちゃんは地球を指差しながらそう語る。


「たった一人で…誰よりも苦しんで……

 誰よりも傷ついて……

 受け入れて……

 許して……

 手放して……

 その時とその場所が……永遠なんだよ。

 エミ……ほんの…もう少しだけ……ボクも残るよ。

 かならずエミのそばにいるよ。エミが永遠を見つけるまで」(4巻118p)


 二人は同時に蘇生する。


 高校時代の恩師が語る――


「あの子の人生には自分が勘定に入ってないんですから」(4巻204p)


 組長が語る――


「やはりワシらのカゴでは狭すぎる…

 あの男はおさまりきるまい」(5巻83p)


 後半はドンちゃんを取り巻く人間模様に重きが置かれる。ドンちゃんの生き方に触れた彼等に革命的な変化が起こる。圧巻のラストでは、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩が朗読される。基調に流れるのは法華経の精神であった。人のために尽くす生き方が魂の交流を生む。心が拡大されていった分だけ、世の中を劇的に変えてゆくことができる。


 物語の合間合間に月が顔を現す。クレーターの彫りが深く描き込まれた絵が、月のリアリティを示し、厳然と存在する姿を示している。太陽ではなく月としたのはなぜか? それは、夜という孤独に耐えた上で光輝く理想を象徴したではないだろうか。


 触覚にピリリと来るような感性などとは桁違いの、肚(はら)に堪(こた)える大感情のドラマであり、物語の復興を思わせるほどの傑作である。

同じ月を見ている (1) (ヤングサンデーコミックス) 同じ月を見ている (2) (ヤングサンデーコミックス) 同じ月を見ている (3) (ヤングサンデーコミックス)


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2001-12-24

『臨死体験』をめぐる書き込み 2

赤マント


 意外どころじゃないッスねー。全然知らなかった。


 立花の「生、死、神秘体験」の「序論と解題」に以下のようなくだりがあります。


 空海の晩年の著作『秘蔵宝鑰』は、空海の密教理論の精髄をなすものとして知られている。その冒頭の序に次のような一節がある。


“生れ生れ生れ生れて生の始に暗く

 死に死に死に死んで死の終に冥し”

 

 生と死の向こう側は人間にとって同じように永遠の謎なのである。


 近代の科学主義によって立つ人は、死の向こう側には何もない、従って謎もないというであろう。そういうのはたやすい。だがそういい切ったとたんに、心の片隅で本当にそうなのだろうかという疑いが首をもたげてくる。


 我々が知っているこの世界は、生と死という境界線で区切られた内側だけの世界である。我々のすべての知識は、境界内の知見をもとにして得られた知識である。そのような知識をもとにした判断が、境界の外側の異界に対しても通用するのだろうか。境界内で通用する論理が境界の外でも通用するものだろうか。知識とか、論理というものは、それが得られた世界の世界構造を反映するものである。だから、必ずしも異なる世界に適用可能というわけではない。平面幾何学を球面に適用したり、線形方程式を非線形の世界に適用したりすれば、必ず過ちを起す。


 それと同じように、この世しか知らない者の判断を、この世ならざる世界へ拡張しようすると、誤りにおちいる可能性が強いのである。


 それに対して、そもそもこの世ならざる世界などというものはないのだから、そういう考えは誤りだという反論があるかもしれない。しかし、では、その「この世ならざる世界などというものはない」という判断はどこから生まれたのか。それは厳密にいえば、境界内しか見たことがない者の、境界内から得た経験則の、境界外への無原則拡張適用でしかないのである。コロンブス以前、地球は平面だから、地球の裏側などというものはないと信じてきっていた人々と同じなのかもしれないのである。


 先に引いた空海の『秘蔵宝鑰』には、次のような一節もある。

 

“三界の狂人は狂せることを知らず

 四生の盲者は盲せることを識らず”

 

 狂っている人間は、自分が狂っているということを知らないし、あらゆる目が見えない生物は、自分が目が見えないということを、知らない、というのである。

 

 随分長い引用になってしまいましたが、ここは立花隆の基本的なスタンスがはっきり出ているところだと思うのです。このあとさらに死生観の話などが続くのですが、面白いのは本編の山折哲雄との対談です。そこで彼は宗教について、それが人間に与えた大きなもののひとつはコスモロジーだと言います。


「つまり『世界と言うのはこうなっているんだ。』と、実に見事な説明をある一つの体系をもって与えてくれたわけですね。」


 このあと彼は続けて、近代になってその説明が科学の立場から色んな部分でフィクションだということが分かってきた、しかし、それをフィクションにしたけれど、だからといって、科学も一向にこの世界を明解に説明出来ないでいる、と言ってます。物質の最小単位は原子だと言っていたものが素粒子に変わりそうかと思えばさらに小さなクォークというものが発見され、なお、さらに小さな単位があるのでは、という説がある、宇宙論にしても疑問だらけで、ビッグバンで宇宙が出来たとしても、それ以前はどうなっていたのか、ということは全くわからない、と。


 この本の出版もこの対談も、臨死体験の出版の後で行われたのですが、臨死体験はオカルト主義的に過ぎる、という批判に対して科学万能主義を批判しているわけです。当然この本に対してもオカルト主義的だという批判が出たのは言うまでもありませんが。(笑)


赤マント


 私はもっと拡大解釈をしております(笑)。大宇宙そのものが常に変化してやまない。変化しないものは存在しないといってよいでしょう。その変化せしめるエネルギーこそが宇宙を貫いている。それが波のように現われたのが個々の生命体であると考えます。


 それは確かにそうかも知れません。かなり同意できます。ただ、わたしの場合は漠然とそういう感じがする、という程度の理解レベルですが。


赤マント


 科学を中心とする西洋の思考法は帰納法です。これに対して仏法というのは演繹法なのです。わかりやすい例えを挙げますと、西洋では進化論的な考えをします。猿から人間がどのように進化したのか。仏法的な見方はこうです。猿が人間の生命を感じたから人間に進化した。まあ、やや突飛と思われるかも知れませんが、科学の世界と相反するわけでもありません。


「進化するときがくれば進化するのだ」の 今西進化論に少し近いような気がします(笑)。自然淘汰だけの進化説というのはかなり無理が来ていますから、ある部分正しいのかも知れません。進化論に関しても、先ほどの宇宙論と同様、疑問だらけです。


赤マント


 また三諦論で申せば、現在の私と3歳の頃の私とでは、肉体的には全く別個のものであり、目玉の芯までが新陳代謝することによって新しい肉体となっております。更に、性格も全く異なっているでしょう。つまり、仮諦・空諦は全く違うのに、そこには一貫して「私」が貫かれているのです。これが中諦(ちゅうたい)です。


 永井均いうところの〈わたし〉とかなり近いと思います。 彼の『〈こども〉のための哲学』に魂の存在証明の話が出て来ます。 人物Bが拷問にかけられることになりました。そのときある科学者がBの苦痛を取り去るためにこう言います。『お前の記憶を消し去ろう、そして別の実在の人物Aの記憶を移植しよう。』それでBの恐怖は無くなるだろうか、答は否でしょう。では体も入れ替えればどうか、それでも答えは否でしょう。あいかわらず拷問にかけられるのは〈わたし〉だからです。ではそのときの〈わたし〉とはなんだろう?という話です。 (蛇足ですが、この本の中で永井はこのわかりにくい概念の〈わたし〉をじつに見事に説明してます。それは『今度生まれ変わるときは何になりたい』と問われて例えば『わたしは象になりたい』と答えるときの〈わたし〉であると。)


赤マント


 立花が行っているのは、そのメカニズムに迫ろうとしているわけです。私の考えによれば、メカニズムがわかったところで、自分の人生に変化が現われるとは到底、思えません。立花が求めているのは知識に過ぎない。生き方が変化せずしては、価値が無いというのが私の立場です。


 さきほど書いた本の対談で、山折哲雄は――


 私の場合、臨死体験というものは脳の中で起こる現象 なのか、あるいは現実に起きる死の体験の一部なのかという、「あれかこれか」という考え方をあまりとらないんです。それが真であるか、偽であるかを問わず、そういうものを見た、ということが、その人間にとってどういう意味を持つのか。つまり実感のレベルでどういう意味を持っているのか、そこのところが非常に大事だと思うんです。その人にとってはそれで人生観が変わったり、死の恐怖が薄れたりすれば、それだけで意味があったということになるわけです。むしろその点だけが私にとっては重要なのです。


 と言ってます。が、わたしはそのような立場は取らない です(笑)。それが脳の中で起こったことなのか、実際に死の世界を見たのか、そこのところが非常に気になるのです。それを知ってどうなるものでもないかも知れません。でも知りたい。生命のメカニズム、知りたくて堪りません。これは小野さんが批判するところの「ためにする知識」欲かも知れません。


 どこかの評論家がたしか同じような批判をしていました。立花のただ純粋な知性のための、というスタンスはいかがなものか、という内容だったと思います。たしかにそれはその通りでしょう。性欲や食欲が 必ずしも善いことではないのと同じで、知識欲がいいものだとは思いません。それが何かの役に立た なければ何の意味もないでしょう。だから彼が得々と自分の知識欲をしゃべるとき、大食い自慢や、性豪自慢程度に軽く聞き流すことにしています(笑)。


赤マント


 で、先程の永井均の魂の存在証明の話の続きですが、わたしはこう思うのです。そのとき、BとAの脳を交換 したらどうなるのかと。そのとき〈わたし〉は拷問の恐怖から開放されるのではないか、と。つまり永井の〈わたし〉、小野さんおっしゃる「中諦(ちゅうたい)」は脳の中にあるのでは、という立場です。どうでしょう?


小野不一


 つまり永井の〈わたし〉、小野さんおっしゃる 「中諦(ちゅうたい)」は脳の中にあるのでは、という立場です。どうでしょう?


 脳が「生命の座」であることに異論を挟む心算はありません。脳を中心に生命活動が為されていることも、また事実です。


 生きるということをどのように定義すればよいのでしょう? 京都大学名誉教授の佐藤進が『立花隆の無知蒙昧を衝く 遺伝子問題から宇宙論まで』(社会評論社)で、このように書いております。


 生物学的にいえば『生命体が外部からエネルギー源を摂取して生体エネルギーに変え、外部から摂取した物質を自己の生体成分とし、不要になったものを外部に放出する』ことであろう。(149p)


 まぎらわしい表現ではありますが、肉体的に生長してるってことでしょうか。では、なぜ、そうした現象が起こるのか? 仮に脳が機能しているからだとしても、では、どうして脳が機能しているのか? それは「生きている」からではないでしょうか。こうなると仏法の演繹的な思考法と一緒で「生きているから」としか言いようがありません。


 中諦とは目に見えない本質という意味です。目に見えるものは全て仮諦なのです。生命を脳に閉じ込めようとする考えは、人間をモノ化し、機械化するように思います。


 また逆に、脳が全てであると仮定しましょうか。では、人の一生と同等の刺激を与えれば、それが果たして人間らしい人生といえるのでしょうか? 最新号の逆耳にも書きましたが、ベートーヴェンの『歓喜』を聴いた時の感動が、脳を調べることによって判明し、そこから『歓喜』のメロディーを生むことが可能でしょうか?


 更に、思想というものは人生を奥深いところで支えているものです。死後の生命が無いとする立場の方が、迫り来る死に脅(おび)えている人を励ますことができるでしょうか? 死ねば無に帰するという思想から希望を生み出すことはできません。本当に何も無くなるのであれば、世界に存在するであろう苦しみ悩んでいる大勢の人々は、自殺すべきではないでしょうか。


 わからないことをどんなに考えても答は見つかりません。では、どちらの立場を信じるべきなのでしょうか? 次号では、パスカルの賭けの論理を紹介する予定です。


赤マント


 中諦とは目に見えない本質という意味です。目に見えるものは全て仮諦なのです。生命を脳に閉じ込めようとする考えは、人間をモノ化し、機械化するように思います。また、逆に、脳が全てであると仮定しましょうか。では、人の一生と同等の刺激を与えれば、それが果たして人間らしい人生といえるのでしょうか? 最新号の逆耳にも書きましたが、ベートーヴェンの『歓喜』を聴いた時の感動が、脳を調べることによって判明し、そこから『歓喜』のメロディーを生むことが可能でしょうか?


 ここでわたしが言いたかったのは永井による魂の存在証明は不完全である、ということだけです。身体や、記憶を入れ替えてもなお〈わたし〉であるということは魂の存在証明にはならないということです。人間が生きているとき、〈わたし〉は脳の中にある。それは脳を入れ替えたとき〈わたし〉も一緒に引っ越しするだろうと思うからです。ただ、その〈わたし〉は脳内で作られた自己完結的なものなのか、そうではなくそこから出ることが出来るものなのかは、また別の議論です。つまり、人が死んだとき脳の中にいた〈わたし〉も消滅するのか、あるいは宇宙のエネルギーの一部となって、存在するのか、ということです。それは誰にも分らないでしょう。ただ、臨死体験を読む限り、なんとなく宇宙の一部となって存在するような気もしないではない。


 的外れかも知れませんが、小野さんがおっしゃってる中諦とはことは哲学でいう実存主義的なことなのでしょうか。鍛冶屋が鋏を作る前から鋏という本質は存在し、鍛冶屋はそれを形にしたに過ぎない、と。そうだとしても、そうでないにしても、ここに関しては、わたしには何かを言うだけの知識はないです。とても残念ですが。


 入力と出力が1対1で対応しているなら、脳の反応からベートーベンの歓喜を作譜することも出来るでしょうけど、そうでない以上それはもちろん無理です。ただ、小野さんがおっしゃるように近年の脳研究や分子生物学の発展に伴い、生物=有機的ロボットという見方が徐々に蔓延しつつあることは否定出来ませんし、それを認めたくない、という気持ちはわたしにもあります。だからといって、そうではない、と根拠なく否定することはしたくない、とも思うのです。


 更に、思想というものは人生を奥深いところで支えているものです。死後の生命が無いとする立場の方が、迫り来る死に脅(おび)えている人を励ますことができるでしょうか? 死ねば無に帰するという思想から希望を生み出すことはできません。本当に何も無くなるのであれば、世界に存在するであろう苦しみ悩んでいる大勢の人々は、自殺すべきではないでしょうか。わからないことをどんなに考えても答は見つかりません。では、どちらの立場を信じるべきなのでしょうか?|


 ここは大いに意見が分かれるところだと思うのですが、こう信ずれば恐怖から解き放たれるますよ、とか、そうでなければ自殺する人が絶えない、から世界はこうあることにしておこう、というのは小野さんの宗教的な立場のあらわれだと思うのですが、それは言わば、ある種のまやかしではないでしょうか。その人の生き方になんの変化も齎さない知識には意味がない、という立場の延長線上にある考え方だと思うのですが、そこには実は大きな飛躍があるように思えます。キリスト教は当然キリスト教的な生き方を肯定して、そうすれば人々は幸せになる、と説くわけですが、その自ら築いた世界観は地動説や進化論によって次々否定されていくわけです。そのとき教会や信者達がとった立場はまさに目的論的世界観だったのではないでしょうか。小野さんがそうだと言っているのではありません。小野さんの文章にはいつも事実に対する誠実さを感じています。ただ、小野さんがおっしゃる死生観の ここの目的論的な部分がいつも気になるのです。一方、わたしはこの部分に一番小野さんの誠実さを感じもするのです。何故かと言いますと、ある宗教の世界観が目的論的に築かれたものであったとしても目的論的に築かれたものではない、というのが宗教的立場だと思うからです。小野さんのように、まるごとご自分の考えをさらけ出す方もめずらしい。死後の生命という概念が多くの人々を救うか、ということについてはまた別の機会に議論したいと思います。


 最後に全く蛇足ですが、佐藤進先生の生命の定義は実に馬鹿らしいと思います。生きるということを定義するのに、いきなり「生命体が、〜」とは運動を定義するのに「運動物体が〜」と書きはじめるようなものではないでしょうか。


小野不一


 ここでわたしが言いたかったのは永井による魂の存在証明は不完全である、ということだけです。


 仏法でも魂の存在は否定されております。あるのは生命のみです。


 身体や、記憶を入れ替えてもなお〈わたし〉であるということは魂の存在証明にはならないということです。


 五感を通じて外界の情報を認識する主体が「私」ではないでしょうか? 人それぞれの固有を形成している核が「私」であると考えます。


 人間が生きているとき、〈わたし〉は脳の中にある。


「逆耳」にも書きましたが、植物の場合はどうなるでしょう? 生きているのは間違いありません。


 それは脳を入れ替えたとき〈わたし〉も一緒に引っ越しするだろうと思うからです。ただ、その〈わたし〉は脳内で作られた自己完結的なものなのか、そうではなくそこから出ることが出来るものなのかは、また別の議論です。つまり、人が死んだとき脳の中にいた〈わたし〉も消滅するのか、あるいは宇宙のエネルギーの一部となって、存在するのか、ということです。それは誰にも分らないでしょう。ただ、臨死体験を読む限り、なんとなく宇宙の一部となって存在するような気もしないではない。


「私」を「私」たらしめているのが生命ではないでしょうか? 科学というのは因果関係を明らかにする学問といえましょう。では、なぜ「私」は「私」となって生まれてこなければならなかったのか? 人生につきまとう苦悩は「私」であることに起因しているのではないでしょうか?


 的外れかも知れませんが、小野さんがおっしゃってる中諦とはことは哲学でいう実存主義的なことなのでしょうか。鍛冶屋が鋏を作る前 から鋏という本質は存在し、鍛冶屋はそれを形にしたに過ぎない、と。


 実存主義がわかりまへん(笑)。次号のネタを次々と公表するのは気が進みませんが、イギリスのルパート・シェルドレイクという生物学者は、記憶と脳の関係をテレビの画像と受信機に例えております。感動したシーンを見たとしましょう。その画面を翌日、テレビの中に探しても決して見つかりません。テレビは電波を受信するだけです。受信機が無くては画像は映らないが、テレビの中に画像そのものがあるわけではありません。つまり、心は、脳を媒介にして働くとしても、脳そのものではないということなのです。テレビのどこかが壊れてしまえば、画像はきちんと映りません。脳もどこかが破壊されてしまえば、精神に以上をきたします。


 脳に生命が存在するとすれば、科学の発達によって、いつしか生命を創り出すことが可能となるはずです。果たして、それが可能となる日が来るのでしょうか?


 ただ、小野さんがおっしゃるように近年の脳研究や分子生物学の発展に伴い、生物=有機的ロボットという見方が徐々に蔓延しつつあることは否定出来ませんし、それを認めたくない、という気持ちはわたしにもあります。


 それを聞いて安心しました(笑)。


 ここは大いに意見が分かれるところだと思うのですが、こう信ずれば恐怖から解き放たれるますよ、とか、そうでなければ自殺する人が絶えない、から世界はこうあることにしておこう、というのは小野さんの宗教的な立場のあらわれだと思うのですが、それは言わば、ある種のまやかしではないでしょうか。


 では逆に質問させてもらいますが、科学的な知識のどれほどを私達は実際に検証しているのでしょうか? 実際には、それらの知識、あるいは実験結果を信じているだけに過ぎないのではないでしょうか? 事実の上でわかっていることは余りにも少ないのが現実です。地球が丸いということすら、自分の目で確かめた人は殆どおりません。


 その人の生き方になんの変化も齎さない知識には意味がない、という立場の延長線上にある考え方だと思うのですが、そこには実は大きな飛躍があるように思えます。


 飛躍があるのは、私の知識不足と言葉足らずのせいです。


 キリスト教は当然キリスト教的な生き方を肯定して、そうすれば人々は幸せになる、と説くわけですが、その自ら築いた世界観は地動説や進化論によって次々否定されていくわけです。


 道理に合わないところにキリスト教の限界があるのではないでしょうか?


 そのとき教会や信者達がとった立場はまさに目的論的世界観だったのではないでしょうか。


 御都合主義が暴かれた後は、見るも無慙な人間性を無視した振る舞いが現われます。


 ただ、小野さんがおっしゃる死生観のここの目的論的な部分がいつも気になるのです。


 例えば、科学が発達して生命の神秘が次々と明らかにされたと仮定しましょう。では、その時、人によって死ぬ時期が違う理由が解明されるでしょうか? 不遇の死を迎えた人物のことが説明可能になるでしょうか?


 ある宗教の世界観が目的論的に築かれたもので あったとしても目的論的に築かれたものではない、というのが宗教的立場だと思うからです。


 確かにそうですね。それと、因果関係の整合性があるかどうかという点を見逃すことはできないでしょう。


 小野さんのように、まるごとご自分の考えをさらけ出す方も珍しい。


 持ち物が少ないんで、さらけ出す他ないんですよー。


 最後に全く蛇足ですが、佐藤進先生の生命の定義は実に馬鹿らしいと思います。 生きるということを定義するのに、いきなり「生命体が、〜」とは運動を定義するのに「運動物体が〜」と書きはじめるようなものではないでしょうか。


 そう言われりゃ、確かにそうですね(笑)。但し、この本は所謂、タメにする批判本ではありません。


小野不一


 五感を通じて外界の情報を認識する主体が「私」ではないでしょうか? 人それぞれの固有を形成している核が「私」であると考えます。


 環境の影響を受けながらも、環境に支配されているだけではない。環境と密接に関わりながら形成される主体ってこってすな。


小野不一


 移動した方に「私」も移ってしまうでしょうね。ところがどっこい鏡を見た瞬間、そこには他人がいる。つまり、仮諦と空諦が股裂き状態となります。死ぬまで、元の顔や身体が思い起こされることでしょう。その自覚は、他の身体に入り込んだ「私」というものになるのではないでしょうか? いわば、コスチューム人生。


小野不一


 それは、「私」でありながらも「私」ではない、という不幸この上ない余生になることでしょう。


 つまり、そんなことをやるだけの価値は無いということです


小野不一


 それは、「私」でありながらも「私」ではない、という不幸この上ない余生になることでしょう。


 例外がありました(笑)。互いが互いになりたいと望んだ場合、ある程度の幸福感を得ることができるかも知れません。


 しかしながら、本当の「私」ではないという認識が、死ぬまで本人を苦しめ抜くことでしょう。


小野不一


 この本の出版もこの対談も、臨死体験の出版の後で行われたのですが、臨死体験はオカルト主義的に過ぎる、という批判に対して科学万能主義を批判しているわけです。当然この本に対してもオカルト主義的だという批判が出たのは言うまでもありませんが。(笑)


 不可思議とは、思議し難いが故にそういうのです。全てを知識の範疇(はんちゅう)に収納し、対話を拒否する手合いは必ず「オカルト主義」という言葉を持ち出します。まあ、言って見れば科学万能信仰ってところでしょう。


 科学の出発点は、こうした不思議な現象の中に法則を見出そうとしたところにあったのではないでしょうか。


小野不一


 自然淘汰だけの進化説というのはかなり無理が来ていますから、ある部分正しいのかも知れません。進化論に関しても、先ほどの宇宙論と同様、疑問だらけです。


 ダーウィンの進化論は、キリスト教の最右翼である物見の塔(エホバの証人)が完膚なきまでにやっつけております(笑)。それなりに信用できる内容です。


小野不一


 ただ、小野さんがおっしゃる死生観のここの目的論的な部分がいつも気になるのです。


 目的論的というよりは、意味論的ですな。


 科学は現象を説明し、哲学・宗教は実相に迫ろうとする。それ故、真理は認識の対象であって、それ自体は価値ではありません。


赤マント


 科学の出発点は、こうした不思議な現象の中に法則を見出そうとしたところにあったのではないでしょうか。


 全面的に同意です。あるものを、説明がつかないからと言うだけで、ないもの、にしてしまう態度は科学的からかけ離れた態度ですね。


小野不一


 全面的に同意です。あるものを、説明がつかないからと言うだけで、ないもの、にしてしまう態度は科学的からかけ離れた態度ですね。


 全く仰る通りです。未知なるものに対して留保する勇気が必要だと考えます。


小野不一


 しかしながら、本当の「私」ではないという認識が、死ぬまで本人を苦しめ抜くことでしょう。


 美容整形が胡散臭く感じてしまう原因はここらあたりにあるんじゃないでしょうか。春日武彦の『顔面考』(紀伊国屋書店)でも触れられている。


赤マント


 では逆に質問させてもらいますが、科学的な知識のどれほどを私達は実際に検証しているのでしょうか? 実際には、それらの知識、あるいは実験結果を信じているだけに過ぎないのではないでしょうか? 事実の上でわかっていることは余りにも少ないのが現実です。地球が丸いということすら、自分の目で確かめた人は殆どおりません。


 科学とされているものを信じるのも一種の信仰ではないか、というご指摘ですね。鋭い質問で随分考えさせられました。で、いろいろ考えたり調べたりしました結果、我々が信じているものが信仰か科学事実かは、その対象が反証可能かそうでないか、ということだろうと思います。これはわたしが自分で考えたことではなくカール・ポッパーという人の受け売りです(笑)。(科学事実と書きましたが厳密には科学的仮説ですね)


小野不一


 科学とされているものを信じるのも一種の信仰では ないか、というご指摘ですね。鋭い質問で随分考えさせられました。 で、いろいろ考えたり調べたりしました結果、我々が信じているものが信仰か科学事実かは、その対象が反証可能かそうでないか、ということだろうと思います。


 宗教にしても科学的な態度が求められるのは当然です。科学的な批判に耐えない宗教はまやかしであり、ドグマであり、教条主義であり、単なる気休めに過ぎないものと断ずるものであります(←演説調)。


 これはわたしが自分で考えたことではなくカール・ポッパーという人の受け売りです(笑)。


 それは、まさか、カールおじさんではないでしょうね。口の周りに泥棒のような髭(ひげ)を蓄えていれば、かなり怪しい。


小野不一


 科学的態度は幸福を求める人には不可欠なものでしょう。しかしながら、慎重居士になっていては人生の価値を生むことは難しいとも思われます。


 私達が産まれたばかりの時、果たして母親の母乳の成分を調べた上で飲んだでしょうか? 否です。無心に母親を信じて、口に含んだことでしょう。


 つまり、信じたものに価値があれば幸福になるという一つの証左でありましょう。科学的な態度は後からでも充分、間に合います。


 知るということは大切なことです。それ自体が幸福の一分(いちぶん)であるかも知れません。しかし、なんでもかんでも知った上で我々は行動しているでしょうか? 人生の出来事、全てに対して「石橋を三度叩いて渡る」ような真似をする人は殆どおりません。そうであっては臆病との謗りを免れないことでしょう。


 ましてや人間関係においては殊更そうでしょう。相手を科学的な態度で判じている人などにはお目にかかったことがありません。


 そう考えてみると、人生を支えている大半は「信じる」という行為に他なりません。


小野不一


 科学的態度は幸福を求める人には不可欠なものでしょう。しかしながら、慎重居士になっていては人生の価値を生むことは難しいとも思われます。私達が産まれたばかりの時、果たして母親の母乳の成分を調べた上で飲んだでしょうか? 否です。無心に母親を信じて、口に含んだことでしょう。


 また、テレビを見る時に、テレビの構造を知った上で見ている人など殆どいないでしょう。つまり、テレビを見て楽しめれば好いわけです。


小野不一


 知識という点を考えれば、現代人の知識は、古代人とは比較しようがないほど向上しております。では、現代人が幸福といえるでしょうか。知識を持つことによって、人生の喜怒哀楽が純粋に表現できなくなっていることも見逃せません。


 詰め込み教育が子供達の心に深い翳(かげ)を落としていることも、また事実であります。


赤マント


 つまり、信じたものに価値があれば幸福になるという一つの証左でありましょう。科学的な態度 は後からでも充分、間に合います。


 価値があるかどうかわからない、何を信じていいのかわからない、そもそも何を価値とすればいいのか分らない、という状況があるのだと思います。それがオウムの若者達であり、阪神大震災以降、ボランティア症候群にかかった若者達だろうと思います。災害地に駆け付けてボランティアに没頭している間は充実感を覚えるけどそこから離れると空虚になってしまう、という。もちろん知識や教養がその空虚を埋めることは出来ないでしょうが、既存の幸福論も無効になってきているのではないでしょうか。彼らはきっと何が幸福なのかも分らなくなっていたのでしょう。いま流行りの自分探しってやつですな。


小野不一


 価値があるかどうかわからない、何を信じていいのかわからない、そもそも何を価値とすればいいのか分らない、という状況があるのだと思います。それがオウムの若者達であり、阪神大震災以降、ボランティア症候群に かかった若者達だろうと思います。災害地に駆け付けてボランティアに没頭している間は充実感を覚えるけどそこから離れると空虚になってしまうという。


 確かにそうですね。背景にあるのは高度成長からバブル経済に至る経済的豊さでしょうか。人間は食えるようになると堕落してしまうのか、そんなことが問われているような気がしてなりません。貧・病・争が払拭された後は、英知輝く道が現われると思いきや、中々そうは問屋が卸さない。


 もちろん知識や教養がその空虚を埋めることは出来ないでしょうが、既存の幸福論も無効になってきているのではないでしょうか。彼らはきっと何が幸福なのかも分らなくなっていたのでしょう。いま流行りの自分探しってやつですな。


 その現象の断面に刻印されているのは「生きるに値しない世の中」ということになりかねない。青少年の世界を覆うイジメという現象は、弱い者を痛めつけて平気な獣性をはらんでおります。人類は動物的な生き方しかできなくなりそうな気配すらあります。欲望に火をつける広告社会はまた、感覚を刺激する情報が氾濫し、人間をますます低いレベルに追いやろうとしています。

2001-12-23

『臨死体験』をめぐる書き込み 1

小野不一


 立花隆の同書の所感を「逆耳」にて連載中ですが、ご意見を募りたい。昨日、発行分が上巻の後半部分に当たるので、あと2回書く予定。書きながら少し見えてきたことがあります。


小野不一


 古本屋仲間より、「もっと立花批判が出てきてもいい」との意見あり。


山野健一郎


 立花隆の同書の所感を『逆耳』にて連載中ですが、ご意見を募りたい。


「逆耳」より――


 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らし青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻(いぶし)銀のような濃緑の斑点をつけていた。


 本題からズレますが、上記内容と殆ど同じ写真が、昔から(私も中学地理の授業で見た)存在するのも事実です。(但し、いつ撮影されたものかわかりませんが)インド半島とセイロン島の間にアダムズブリッジという大規模な砂嘴(さし)があり、それを説明するのに地理等の授業で使われるものです。


小野不一


 本題からズレますが、上記内容と殆ど同じ写真が、昔から(私も中学地理の授業で見た)存在するのも事実です。(但し、いつ撮影されたものかわかりませんが)


 私の記述が誤っておりました。ガガーリンは衛星軌道に達したのであって、月に行ったのはアポロでしたね。いずれにしても、ユングが臨死体験で見た地球の姿は、誰一人知るべくもないものなのです。


 つまりこの脈絡は、見えるはずのないものを見たということが体外離脱を雄弁に証明しているのではないか、ということです。


山野健一郎


 土曜日にたまたま養老孟司と古舘一郎のテレビでやっていたのですが、現在では側頭葉への刺激によって人工的に臨死体験ができるようです。臨死体験に限らず神秘的な体験も脳のメカニズムとしてある程度は説明がつくようです。ただし、臨死体験や神秘体験の説明ができるからと言って、それは神(宇宙の主体的な意志)の存在や死後世界の存在の反証ということにはならないし、その存在を証明できるわけでもないので、現段階では誰も神の存在や死後世界の存在を有るとも無いとも断言できないという旨のことを言っておりました。私もなるほどと思いました。


 仮に、死んで一切が消滅してしまうという考えを認めてしまえば、自殺を思いとどまらせることはできません。


 現段階では、認めることも認めないことも、個人の自由だと思っています。個人的には将来説明のできる時が来ると思っています。


小野不一


 土曜日にたまたま養老孟司と古舘一郎のテレビでやっていたのですが、現在では側頭葉への刺激によって人工的に臨死体験ができるようです。臨死体験に限らず神秘的な体験も脳のメカニズムとしてある程度は説明がつくようです。


 立花が下巻の最後で挙げている説です。ワイルダー・ペンフィールドという脳神経の大学者が唱えた説。側頭葉のシルヴィス溝という部分に刺激を与えると、臨死体験そっくりの状態となる。これはてんかん患者の治療から判明したもの。ところがこれだけでは説明できないことがあるのです。体外離脱、一生のパノラマ回顧などが現われるのは間違いないようですが、臨死体験者の多くが語る光に包まれた状態を説明できないのです。側頭葉の中で臨死体験が行われているとすれば、真っ暗闇でなければならないはずなのです。


 また、仮に側頭葉で全てが説明されたとして、そこから導き出される結論は何なのでしょう? 「だから、死後の生命は存続しない」ということを証明できたことになるのでしょうか? 私はそうは思えません。


 いずれにしても、脳内現象説でも現実体験説でも説明できないというのが現状です。それを説明したがるのは科学の勝手でしょう。しかし、その間にも人は死んでゆくのです。説明されるようになったとしても、人間の生き方が変わるとも思えません。これが科学の限界ではないでしょうか。科学の土俵で白黒がハッキリすることは多分、ないでしょう。ケリをつけるのは哲学だと私は踏んでます。


山野健一郎


 体外離脱、一生のパノラマ回顧などが現われるのは間違いないようですが、臨死体験者の多くが語る光に包まれた状態を説明できないのです。


 うろ覚えですが、このことは、「光体験」が脳にプログラムとして存在しているのではないか(?)というようなことを番組で触れていたように思います。


 また、仮に側頭葉で全てが説明されたとして、そこから導き出される結論は何なのでしょう? 「だから、死後の生命は存続しない」ということを証明できたことになるのでしょうか? 私はそうは思えません。


 それは、先にも書きましたが、番組でも同様なことを言ってました。


 いずれにしても、脳内現象説でも現実体験説でも説明できないというのが現状です。それを説明したがるのは科学の勝手でしょう。


 番組は、このようなこともあるという感じで、それによって強引に全ての説明をしようというものでは無かったように思います。


 しかし、その間にも人は死んでゆくのです。説明されるようになったとしても、人間の生き方が変わるとも思えません。


 もし仮に、神や死後世界の有無が明確になった時、私には人間の生き方も大きく変わるように思えます。


 これが科学の限界ではないでしょうか。科学の土俵で白黒がハッキリすることは多分、ないでしょう。ケリをつけるのは哲学だと私は踏んでます。


 よく考えれば確かに全く小野さんの言われるとおりですね。森羅万象宇宙全てのことが解明できない限り、あるいはできたとしても、科学によって、神や死後世界の有無の完璧な証明は無理かもしれません。そうであるならそれらの有無の完璧な証明がないままに現に生きている我々は、それらの存在の有無をオノレ自身の哲学を拠り所に(場合によっては流動的に)生きるしかないように思えます。


小野不一


 うろ覚えですが、このことは、「光体験」が脳にプログラムとして存在しているのではないか(?)というようなことを番組で触れていたように思います。


 光というのは後頭葉という部分で認識されるらしいのですが、これが機能してない臨死体験があるとのことです。また、先天性の全盲だった方が、臨死体験によって様々な光景を目撃したことも確認されています。


 もし仮に、神や死後世界の有無が明確になった時、私には人間の生き方も大きく変わるように思えます。


 私も同感です。また、それによってのみ生命の尊厳性を確立できると思います。


 森羅万象宇宙全てのことが解明できない限り、あるいはできたとしても、科学によって、神や死後世界の有無の完璧な証明は無理かもしれません。そうであるならそれらの有無の完璧な証明がないままに現に生きている我々は、それらの存在の有無をオノレ自身の哲学を拠り所に(場合によっては流動的に)生きるしかないように思えます。


 死を自覚した生き方が、生を充実させるはずです。不老不死の薬ができたら人類はどうなるでしょうか? 誰も努力しないでしょうし、頑張ろうとしなくなるでしょう。そこには完璧な“無気力の世界”が現われることでしょう。


赤マント


 考えれば考えるほど重いテーマですね(笑)。自殺を思いとどませるのに死後の世界が有効かどうか 、今のところわたしには何とも言えません。来世を信じて自殺した人もいるのではないでしょうか。ところで最近自然科学の入門書ばかり読んでいますが、読めば読むほど科学と哲学、宗教の境界が分らなくなって来ます。例えば物質は全て原子(厳密に言えば素粒子)からなっているとされていますが、これは 実際に私たちが電子顕微鏡で見ることができるから 科学なのであって、そうでなければ全く哲学ですよね。 相対性理論にしても、ほとんど哲学的認識論ですよね。 宇宙論や進化論などはまだ解明されていない部分が多いだ けに入門書を読んでいても、もっと哲学的な色彩が濃いで す。 で、何を言いたいかといいますと、私たちは「明らかなこと=科学、明らかでないこと=哲学、宗教」と分類しているのではないでしょうか。


 だとすれば「科学的に証明」という言葉は全く意味をなさないのでは。科学的でない証明とはなんでしょう。 何かを証明しようとすれば科学的にならざるを得ない、それは、証明あるいは解明しようとする姿勢そのものを科学的と呼んでいるからではないでしょうか。ですから小野さんが「科学の限界」と言うとき、それはこの世の「明らかさの限界」とイコールなのだな、と思うのです。そういう意味で哲学はこの問題に決着を付けないと思います。それは、科学の場合とは逆に、決着のつかないものを哲学とわたしたちが呼んでいるような気がするからです。


 ここでまた「では証明とはなんぞや」というちょっとやっかいな問題がでてきますが。


小野不一


 赤マントさん、素晴らしい書き込みをありがとうございます。大きなヒントを与えて下さったことに感謝申し上げます。


 考えれば考えるほど重いテーマですね(笑)。自殺を思いとどませるのに死後の世界が有効かどうか今のところわたしには何とも言えません。


 いみじくも山健さんがお書きになったように、「生き方が変わるかどうか」が私にとっては最も重要なテーマなのです。


 来世を信じて自殺した人もいるのではないでしょうか。


 こうしたケースに問題となるのは「死ねば楽になるのか」というテーマとなりますね。


 ところで最近自然科学の入門書ばかり読んでいますが、読めば読むほど科学と哲学、宗教の境界が分らなくなって来ます。


 僭越ですが、あっさりと申し上げれば演繹法と帰納法の違いです。


 例えば物質は全て原子(厳密に言えば素粒子)からなっているとされていますが、これは実際に私たちが電子顕微鏡で見ることができるから科学なのであって、そうでなければ全く哲学ですよね。


 原子の例を見てもわかるように、科学というのはどんどん細分化していくわけです。それで「分かる」となるわけですな。これに対して仏法的な見地は何かというと「悟る」になるわけです。


 相対性理論にしても、ほとんど哲学的認識論ですよね。宇宙論や進化論などはまだ解明されていない部分が多いだけに入門書を読んでいても、もっと哲学的な色彩が濃いです。


 科学が相対的な世界観であるのに対して、宗教は絶対的、あるいは根源的な色彩が強い。


 で、何を言いたいかといいますと、私たちは「明らかなこと=科学、明らかでないこと=哲学、宗教」と分類しているのではないでしょうか。


 私は、知識と智慧の違いだと思います。智慧とは、生きる力に裏打ちされた確信と言えるかも知れません。生活とは生命活動の謂いです。故に、その生命活動によりよき変化を与える何かが必要となってくるのではないでしょうか。それが信念であり、哲学・宗教であると考えます。知識だけでは変化が乏しいことと思われます。


 だとすれば「科学的に証明」という言葉は全く意味をなさないのでは。科学的でない証明とはなんでしょう。何かを証明しようとすれば科学的にならざるを得ない、それは、証明あるいは解明しようとする姿勢そのものを科学的と呼んでいるからではないでしょうか。


 これは全く仰る通りです。科学的態度、科学的証明は不可欠です。哲学・宗教に対しても同様です。


 ですから小野さんが「科学の限界」と言うとき、それはこの世の「明らかさの限界」とイコールなのだな、と思うのです。そういう意味で哲学はこの問題に決着を付けないと思います。それは、科学の場合とは逆に、決着のつかないものを哲学とわたしたちが呼んでいるような気がするからです。


 決着がつかなければ私が困ります(笑)。しかし、どうして我々人類は、こうも死に対して無自覚なまま生きていられるのでしょうかね?


 ここでまた「では証明とはなんぞや」というちょっとやっかいな問題がでてきますが。


 赤マントさんは侮れませんねー。いやあ吃驚した。では、立花を批判した上で、突っ込んだ論を展開することにしやしょう。


小野不一


 ただ、現実的に言えることは、神や死後世界が存在すると信じている人も居れば、それらは存在しないと信じている人も居る、ということです。


 どちらでも構わないのです。ただ、それが生き方にどのような違いをもたらすか、ということです。まあ、どっちにしても、死ぬのは確実ですから、皆わかるようになるんですがね(笑)。でも、手遅れ。死後の世界があるとすれば、我々は既に何度も死んだ経験をしているはずですから。


山野健一郎


 どちらでも構わないのです。ただ、それが生き方にどのような違いをもたらすか、ということです。まあ、どっちにしても、死ぬのは確実ですから、皆わかるようになるんですがね(笑)。でも、手遅れ。死後の世界があるとすれば、我々は既に何度も死んだ経験をしているはずですから。


 輪廻転生ということですか。(?)


 神、死後世界、輪廻転生、有無を組み合わせてみます。


 1.神有、死後世界有、輪廻転生有

 2.神有、死後世界有、輪廻転生無

 3.神有、死後世界無、輪廻転生有

 4.神有、死後世界無、輪廻転生無

 5.神無、死後世界有、輪廻転生有

 6.神無、死後世界有、輪廻転生無

 7.神無、死後世界無、輪廻転生有

 8.神無、死後世界無、輪廻転生無


 私としましては上記4の考え方です。ただし、神=宇宙の主体的な意志=自然・科学の法則・規則と考えています。


小野不一


 輪廻転生ということですか。(?)


 その通りです。キリスト教は人の一生を1冊の本に喩える。仏法では1ページに喩えるのです。


 神、死後世界、輪廻転生、有無を組み合わせてみます。


 私は一般の宗教が説くところの人格神は信じません。「天にまします我等が父よ――」って言ったって、宇宙飛行士が見たって話も聞かないし……。


 ただし、神=宇宙の主体的な意志=自然・科学の法則・規則と考えています。


 仏法では文字通り「法」と説かれてます。大宇宙と我が生命を貫く法則があると示されております。


 原稿を書くより、こっちの方が面白くなってきた(笑)。


小野不一


 4 神有、死後世界無、輪廻転生無


 私としましては上記4の考え方です。


 死後の世界があるのか、ないのかは誰にもわからないことでしょう。こういう場合は逆から考えるべきだと私は考えます。


 では、「生きる」とはどういうことなのか? これを科学で解明することは可能なのでしょうか? 無から有が生まれるということは科学的にあり得ません。では、地球が誕生してから生命体が出現するまでを、科学で説明できるでしょうか? タンパク質から生命が生まれた背景を明らかにできるでしょうか?


 どうして髪は伸びるのか? 顔の美醜があるのはなぜか? 目が見えるのはどうしてなのか? 感動するのはなぜか? 人が人を好きになる理由は? 等々、こうしたことの方が私にとっては遥かに不思議なことと思われます。


小野不一


 自殺を思いとどませるのに死後の世界が有効かどうか、今のところわたしには何とも言えません。


 権利や自由という観点から申せば、「自殺する権利」や「自殺する自由」はあってしかるべきでしょう。だが、自殺は絶対にいけない。その奥底(おうてい)にあるのは誤った死生観ではないでしょうか。


 また、家族を始めとする周囲の人間に悲しみを与える自由や権利は認められるものではありません。


山野健一郎


 権利、自由、義務、責任権利や自由という観点から申せば、「自殺する権利」や「自殺する自由」はあってしかるべきでしょう。


「自殺する権利」に対する「義務」、「自殺する自由」に対する「責任」、とは何だろう。自殺してしまえばこの世に居ないのだから、権利や自由を行使したことに対する義務も責任も取りようがない。


 権利、自由、義務、責任は、他者というものに(或いは神などに)束縛されることによって成立する概念。全くの一人ぼっちで他者に束縛されないなら、権利、自由、義務、責任もありえない。そして、自殺は「他者の否定」ではないだろうか。本当は他者を殺したい、だけど殺せない、だから本当は死にたくないのに自殺、ということなのではないだろうか。自殺=他殺であると私は思う。


 だが、自殺は絶対にいけない。その奥底(おうてい)にあるのは誤った死生観ではないでしょうか。


 自殺=他殺と考え、人類の永続を願うから、私もそう思う。


小野不一


 確かに。わたしも自分の死についてとことん深く考えたことがないです。


 死というものが生活から姿を消してしまってるのが現実です。3世代が同居するのも珍しくなってしまったし、家で最期を看取ることも少ない。人間の死は病院やアスファルトの道路上にしか見当たらない。


 また、食べ物にしても同様で、動物の死が人間の生を支えていることが直接的には感じられなくなりつつある。


 あたかも文明は死を忌避しているかのようです。


小野不一


 自殺は「他者の否定」ではないだろうか。本当は他者を殺したい、だけど殺せない、だから本当は死にたくないのに自殺、ということなのではないだろうか。自殺=他殺であると私は思う。


 私は自殺≦他殺だと思います。殺しやすいことを踏まえると、男性よりも女性、大人よりも子供、他人よりも自分を殺すケースの法が罪は重いと考えます。


山野健一郎


 死後の世界があるのか、ないのかは誰にもわからないことでしょう。こういう場合は逆から考えるべきだと私は考えます。


 小野さんの仰りたいことは何となくわかります。


 しかし、私は現世に生きている。たとえ仮に死後世界や輪廻転生を経て現在の私「山野健一郎」が存在しているにしても、この現世以外には「山野健一郎」は存在しない。私にとっては現世の「山野健一郎」が私自身の全てであり、この世以外の「山野健一郎」ではない何者かは私ではないのです。そして、さらに仮に死後世界や輪廻転生があったにしても私はこの世で「山野健一郎」として生きることのみで充分であると思っています。


赤マント


 どうも小野さんはウィトゲンシュタインいうところの 「言語ゲーム」に陥ってるように見えます。前に掲示板で「科学的証明とはなんぞや、科学的でない証明とはなんぞや」といったことを書いたのですが、今回も、「生命とはなんぞや」問いましょう。それを生物学的な意味で捉えるなら、潰された蟻は間違い無く生命が消滅しています。生命の指標となるホメオタシスは明らかに崩壊し、あとは細胞の腐敗を待つのみです。ですから小野さんがいう「蟻を動かしめていたもの」は ここには、もうないわけです。つまり消滅したわけです。しかしさらに小野さんは問うわけです。ではここにはもう無い“生命”はほんとうに消滅したのか、と。 このへん実に小野さんらしいところですね。色んな意味で。小野さんはこう言いたいのかもしれません。ここには無いけどどこかにあるはず、と。


 でも、わたしがこのカボチャ頭で思うのは、その議論は単なる言葉の定義の問題に過ぎないのでは、ということです。まず初めに、生命を「蟻を動かしめていたもの」と定義すると潰された蟻にはそれはもう無いわけです。ここにもないし、またそれは、どこにもないのです。なぜなら、どこかにあればそれは 蟻を動かしめなければならないわけです。しかし蟻は動かない。つまりここで定義された生命は消滅したわけです。しかしそれはどこかにある、「蟻を動かしめる」という形ではなく別の形で、というならそれは最初に定義した生命というものとは違ったものとしてあるわけです。 違ったものとしてある、ということは消滅したことにはならない、とすれば確かにそれが消滅したとは言えません。でも、また問題は消滅という言葉の定義に収斂されてしまうのです。


 では、生命というものを魂のような意味で定義してみましょう。「蟻を動かしめたり、またそこから離れて形を変えて他の生命体の源となったり、あるいはその予備軍みたいな状態でどこかにいるもの」と(予備軍っていう表現は変ですけど)。そうすれば押し潰された蟻の生命は消滅しないことになります。「そこから離れて」とか「予備軍みたいな形で」の部分にその“生命”の不滅性みたいなものが暗示されています。不滅性をもって定義されたものが消滅するわけはない

のです。


 生命は不滅か、と問うときに生命の定義の仕方によってすでに結論は出てしまうのではないでしょうか。不滅だ、という人は 生命を不滅のものと定義し、不滅ではない、という人はそれを肉体の死、と定義してるわけです。これ、まさに言語ゲームではないでしょうか。


 それもこれも、生命のメカニズムというものがわたしたちには 未知のものであるからでしょう。未知だから定義できないし、定義すればそれはそのまま答えになってしまう、ということではないでしょうか。


小野不一


 赤マントさん、難し過ぎます(笑)。もっと簡単に言ってやっておくんなせいっ。


小野不一


 ちなみに赤マントさんは脳内現象派?


 私としては逆の質問をしたいのですが、では生きてる時は、どこに生命が存在するとお考えでしょうか? あるといえばあるし、ないといえばないような気もするんでやんすが……。


小野不一


 どうも小野さんはウィトゲンシュタインいうところの「言語ゲーム」に陥ってるように見えます。


 ウィトゲンシュタインは読んでおりません(赤面)。


 それを生物学的な意味で捉えるなら、潰された蟻は間違い無く生命が消滅しています。


 目に見えないから消滅したとするのでしょうか? 今、眼前にあったものが消滅するというのは科学的にはどうなんでしょうね? 証明できるのでしょうか。エネルギー不滅の法則みたいに私は考えております。


 ですから小野さんがいう「蟻を動かしめていたもの」はここには、もうないわけです。つまり消滅したわけです。


 赤マントさんが仰る「ここ」とは肉体のことですよね。肉体を離脱したという見方をするのは非科学的になりますか?


 生命は不滅か、と問うときに生命の定義の仕方によってすでに結論は出てしまうのではないでしょうか。不滅だ、という人は生命を不滅のものと定義し、不滅ではない、という人はそれを肉体の死、と定義してるわけです。これ、まさに言語ゲームではないでしょうか。


 ここらあたりが難しいですね。結局は本人の思い込みによって立場が分かれてしまうということでしょうか?


 それもこれも、生命のメカニズムというものがわたしたちには未知のものであるからでしょう。未知だから定義できないし、定義すればそれはそのまま答えになってしまう、ということではないでしょうか。


 フーーム、赤マントさんは哲学者ですな。わたしにゃ難し過ぎます(笑)。


 次回の原稿にも書く予定なんですが、魂の重さってえのあ、どうでしょう? 一節によると35gとされてるようですな。死んだ瞬間、体重が減る。質量を伴っている以上は何かが存在すると私は思うのですが……。


小野不一


 それもこれも、生命のメカニズムというものがわたしたちには未知のものであるからでしょう。未知だから定義できないし、定義すればそれはそのまま答えになってしまう、ということではないでしょうか。


 立花が行っているのは、そのメカニズムに迫ろうとしているわけです。私の考えによれば、メカニズムがわかったところで、自分の人生に変化が現われるとは到底、思えません。立花が求めているのは知識に過ぎない。生き方が変化せずしては、価値が無いというのが私の立場です。


赤マント


 赤マントさん、難し過ぎます(笑)。もっと簡単に言ってやっておくんなせいっ。


 いやいや申しわけない、どうも言いたいことが うまく言葉にならなくてシドロモドロになってしまいました(笑)。 えっとつまりわたしが言いたいのは、生命は不滅かと問う前に生命とはなんぞや、ということが明らかでないと意味がないのでは、ということですね。蟻を動かしめていたものを生命とすれば 蟻が動かないとき、それはもう消滅した、と考えるのが妥当だと 思います。そうではない、と思う人は、生命の定義を変えて、魂のような意味で定義するかも知れないけど、そのとき既にそれは不滅性をもって定義されているわけですから、生命は不滅、ということになるのだろう、つまり定義によって結論は見えているのでは? ということが言いたかったのです。以上、簡潔にまとめてみました。全然簡潔じゃないって?


 ちなみに赤マントさんは脳内現象派?


 臨死体験とか死後世界のことは上のこととはまた違う問題だと思うのですが、実を言いますと立花の本を読むまでは完全に脳内現象派でした。NHKスペシャルで立花が出てきて色んな人の臨死体験を紹介したときも、その番組では全く科学的な検証みたいなものはされずに、ただ体験を紹介するだけだったけれど それを見てもまだ完全に脳内現象派でした。でも立花の「臨死体験」を読んでからかなり現実体験側に振れ、今では全く中立というか、ほんとにどっちなのか分らない、という 状態です。


 こう書くと小野さんは、「へ?」と思われるかも知れませんが あの本は、脳内現象派だった人にとってはかなり現実体験説に有力なことが書かれているのです。それゆえ、「立花はオカルト主義」という批判が一斉に湧きおこったわけですね。どうです、意外でしょう(笑)。


 私としては逆の質問をしたいのですが、では生きてる時は、どこに生命が存在するとお考えでしょうか? あるといえばあるし、ないといえばないような気もするんでやんすが……。


 生命がどこにあるか。う〜〜〜む。 わたしは、結局は生命は物質的なものに還元されると考えています。しかしそれは私達が今想像できる物理化学現象ではないかも知れ ない。例えば物理学でいえばニュートン時代からアインシュタイン時代、量子力学時代の各々の転換点では世界認識を根底からひっくり返させられるほどのインパクトがありますよね。それの何十倍 も強烈な世界認識の変革が行われるほどの発見や研究があったとき に生命の神秘が解きあかされるかもしれないな、と思います。それが死後の世界や霊魂の存在を証明することになるのか、否定することになるのか、あるいは全く違った形の死生観を提示することになるのか、それは全然わからないけど。でも少なくともわたしにはそんな日は訪れないですね。あとよく生きて50年。でも死んでから、生命とはなんだったのかを悟る かも知れない(笑)。


 わたしが生まれる前、わたしにとってはこの世界は存在しなかったわけです。全くの無ですね。死んだときもそういう状態 になるのだと思うのですが、全くの無というのは、どうしても想像できないですね。それは自分がこの頭で考えているのに、そこから、この考えている自分というものを除外するという、かなり無理な思考を強いられるからだと思うのですが、とにかく 無になるのだと思うのです。それも永遠に。そう考えるとほんとうに恐ろしいです、「永遠に」というところが一番恐ろしい(笑)。


赤マント


 目に見えないから消滅したとするのでしょうか? 今、眼前にあったものが消滅するというのは科学的にはどうなんでしょうね? 証明できるのでしょうか。エネルギー不滅の法則みたいに私は考えております。


「蟻を動かしめていたもの」は消滅して、何か他の 蟻を動かしめないものに変わったと考えるのは どうでしょう。エネルギー不滅の法則は面白い着眼点だと思います。 ただエネルギーの場合、総量は保存されるけれども不可逆的に劣化する、というエントロピー増大の法則があります。たとえば車を運転しているとき ブレーキを踏んでスピードを落とします。そのとき、運動エネルギーは熱エネルギーに変わりその総和は等しいのですが、逆にブレーキを踏んで 発生した熱をかき集めて車を動かすことはできないのです。運動エネルギーが熱エネルギーに変わったときに劣化(エントロピー増大)したからです。生命現象でもこのようなことが起こると考えるのはどうでしょう。


 赤マントさんが仰る「ここ」とは肉体のことですよね。肉体を離脱したという見方をするのは非科学的になりますか?


 いえ、全然非科学的とは思いません。ただ、たとえ離脱してそれがどこにいようとも、それが蟻の生命であることを辞めてしまっているのは間違い無いですよね。しかし「蟻を動かしめる」という作業を免除して それがどこかでフラフラ遊んでいてもそれは「生命」と認めてあげよう、と定義すれば、生命は不滅かという 問いの答えも変わってくると思うのです。ただ、蟻から離れてフラフラしてる、と定義するときすでにそれは不滅性を前提されているのではないでしょうか。だとすれば生命は不滅か、という問いは意味を成さないのでは。


 次回の原稿にも書く予定なんですが、魂の重さってえのあ、どうでしょう? 一節によると35gとされてるようですな。死んだ瞬間、体重が減る。質量を伴っている以上は何かが存在すると私は思うのですが……。


 その話は何度か聞いたことがあります。死後、水分が抜けるからだ、という俗反論も耳にします(笑)。 ただ、その35gの話はどうか慎重に、書かれる前に色々詳しく調べたほうがいいと思います。もちろん余計なお世話でしょうけど。


小野不一


 つまり定義によって結論は見えているのでは?


 少し、わかって参りました(笑)。


 仏法に三諦論(さんたいろん)というのがありまして、まあ、基本的な物の見方みたいなもんです。空・仮・中(くうけちゅう)の三諦といいます。空は目に見えない性分・性質。仮は目に見える姿。中はそれらを司っている本体という意味。科学の世界は仮諦(けたい)にとらわれがち。赤マントさんが仰る「動かない蟻」というのも仮諦です。空仮を貫く核のようなものを私は生命と言ってるわけです。


 科学を中心とする西洋の思考法は帰納法です。これに対して仏法というのは演繹法なのです。わかりやすい例えを挙げますと、西洋では進化論的な考えをします。猿から人間がどのように進化したのか。仏法的な見方はこうです。猿が人間の生命を感じたから人間に進化した。まあ、やや突飛と思われるかも知れませんが、科学の世界と相反するわけでもありません。


 それを見てもまだ完全に脳内現象派でした。でも立花の『臨死体験』を読んでからかなり現実体験側に振れ、今では全く中立というか、ほんとにどっちなのか分らない、という状態です。


 こいつあ、ぶったまげた。


 こう書くと小野さんは、へ?と思われるかも知れませんがあの本は、脳内現象派だった人にとってはかなり現実体験説に有力なことが書かれているのです。それゆえ、「立花はオカルト主義」という批判が一斉に湧きおこったわけですね。どうです、意外でしょう(笑)。


 意外どころじゃないッスねー。全然知らなかった。


 私としては逆の質問をしたいのですが、では生きてる時は、どこに生命が存在するとお考えでしょうか? あるといえばあるし、ないといえばないような気もするんでやんすが……。

 生命がどこにあるか。う〜〜〜む。わたしは、結局は生命は物質的なものに還元されると考えています。


 三諦論を紹介したように、私は物質(仮)と非物質(空)を統合している核のようなものだと考えてます。科学も好い線をついてまして、例えば光ですね。光は波でありながら、粒子でもあることが判明してます。波と粒子は相矛盾するものですが、どちらか一方の姿を必ず現すようになっております。


 わたしが生まれる前、わたしにとってはこの世界は存在しなかったわけです。全くの無ですね。死んだときもそういう状態になるのだと思うのですが、全くの無というのは、どうしても想像できないですね。それは自分がこの頭で考えているのに、そこから、この考えている自分というものを除外するという、 かなり無理な思考を強いられるからだと思うのですが、とにかく無になるのだと思うのです。それも永遠に。そう考えるとほんとうに恐ろしいです、「永遠に」というところが一番恐ろしい(笑)。


 これは次回の原稿で書ければ書く予定なんですが、仏法の唯識論をやると考え方が変わってきます。赤マントさんが仰っているのは「意識」レベルのことでしょう。深層心理にはもっと膨大な生命のエネルギーが潜んでおります。五感の上に意識があり、その上に四つの段階があるのです。七番目が自我、八番目が業、九番目が一番上で、大宇宙と一体の生命流(せいめいりゅう)とでも名づける他ない世界が説かれています。


小野不一


「蟻を動かしめていたもの」は消滅して、何か他の蟻を動かしめないものに変わったと考えるのはどうでしょう。エネルギー不滅の法則は面白い着眼点だと思います。


 これはですね、そもそも赤マントさんと私の発想が逆の位置からスタートしているわけです。私の立場は始めに生命ありき、なんです。その生命が仮に和合した姿が人間や動物・植物になってるというのが私の見方。これを五陰仮和合(ごおんけわごう)といいます。


 ただエネルギーの場合、総量は保存されるけれども不可逆的に劣化する、というエントロピー増大の法則があります。たとえば車を運転しているときブレーキを踏んでスピードを落とします。そのとき、運動エネルギーは熱エネルギーに変わりその総和は等しいのですが、逆にブレーキを踏んで発生した熱をかき集めて車を動かすことはできないのです。運動エネルギーが熱エネルギーに変わったときに劣化(エントロピー増大)したからです。生命現象でもこのようなことが起こると考えるのはどうでしょう。


 これは面白い見方ですね。しかしながら、赤マントさんは何でもよくご存じですね。


 私はもっと拡大解釈をしております(笑)。大宇宙そのものが常に変化してやまない。変化しないものは存在しないといってよいでしょう。その変化せしめるエネルギーこそが宇宙を貫いている。それが波のように現われたのが個々の生命体であると考えます。


 エネルギーが劣化したという場合、五陰(ごおん)を仮に和合させている力が劣化しただけであって、生命のエネルギーそれ自体が劣化するわけではないと私は思います。


 その話は何度か聞いたことがあります。死後、水分が抜けるからだ、という俗> 反論も耳にします(笑)。ただ、その35gの話はどうか慎重に、書かれる前に色々詳しく調べたほうがいいと思います。もちろん余計なお世話でしょうけど。


 そーなんですよー。でね、少し前にネットで検索したところ、35gなんてえのがあったわけです。数十gらしいですね。でも、あれだなー、重さがあったとすると物質になっちまうか。やっぱり書くのやめよ。


小野不一


 これを五陰仮和合(ごおんけわごう)といいます。


 五陰とは、色(しき)・受・想・行・識を指します。


 色とは、物質的側面のこと。受とは、六根(ろっこん/五感+意識)をもって外界の事物を受け入れること。想とは、その受け入れた外界の対象によって、心に種々の想いを生ずること。行とは、その想いによって行動と現すこと。識とは、思慮分別するところの智慧という意味です。陰(おん)とは「おおいかくす」「あつまる」という意味があります。


小野不一


 例えば水。水蒸気になると見えませんが、そのようになる要素は既に水の中にあるわけです。


 また三諦論で申せば、現在の私と3歳の頃の私とでは、肉体的には全く別個のものであり、目玉の芯までが新陳代謝することによって新しい肉体となっております。更に、性格も全く異なっているでしょう。つまり、仮諦・空諦は全く違うのに、そこには一貫して「私」が貫かれているのです。これが中諦(ちゅうたい)です。

2001-12-21

立花隆『臨死体験』その五


科学万能主義による視野狭窄を露呈


 初めに発行が遅れた言いわけをしておく。原稿を書こうかと思っていたところ、掲示板にて赤マント氏からの逆襲を受けてしまった。あたふたと応戦している内に、色々と考えざるを得なくなってしまったのだ。ってなわけで失礼つかまつり候。尚、掲示板でのやり取りを付録として掲載しておく。


 私には昔から妙な趣味がある。安手のボールペンや100円ライターをもらったり、拾ったり、奪ったりするのが好きで、これらを完全に使い切ることに執念を燃やすことを常としている。たった今も火のつかなくなったライターを供養したところである。彼等は生き物ではないかも知れないが、それぞれの目的を持ってこの世に誕生したわけであるから、使命を全うさせてやりたいという、ささやかな手助けをすることによって、密やかな満足感を覚える。使い切った瞬間、「よくやった! ご苦労さん!」と満腔の意を表してゴミ箱に捨てる。合掌――。


「人間が人間として生きなかったということぐらい、恥ずかしいことはありますまい。松の木は松の木としてのびていきます。ライオンは一生ライオンの声を失いません。しかるに人間が人間らしく生きなかったということは、金銭登録器のような生活しかしなかったということは、人間としてこれ以上の恥辱はないと思います」〈銀行員だった父・義平の遺書〉


【『真実一路山本有三(新潮文庫)】


 これも忘れ難い一節である。この世にあるもの全てが何か役目を持っている。無目的なものは何一つないといっていいだろう。また、人生の充実も何らかの目的を果たした時に感じることが殆どである。太陽や月も、花や木も、虫や動物もあるべきところに収まっている。大自然の摂理は古来より調和のリズムを奏でている。


 では、人間が生まれた目的は何であろうか? あなたがあなたとして生まれきた目的は何なのであろうか? これを追求し、今世(こんぜ)で見事に果たし切った時に、人は尊厳ある死を迎えることができるのではないだろうか。昨今、見受けられる、「みっともない無様(ぶざま)な死に方だけはしたくない」なんて論調の尊厳死論に、私は真っ向から異を唱えるものだ。


 思想家であり数学者でもあったパスカル(1623-1662)は、死後の生命があるかどうかが理性では判じ難いことを前提とした上で賭けの理論で説明している(『パンセ』)。人が「死後の生命がある」方に賭けて生き、死んだとする。その結果、賭けに負けた(死後の生命が存在しなかった)としても「あなたは何も損をしないではないか」とパスカルは言う。一方、「死後の生命がない」方に賭けて生き、死んだとする。それでもし、死後の生命が実在していたら、もう取り返しがつかない。後の祭りである。こう冷静に考えれば、死後の生命を信じる方に賭けることは、極めて合理的な選択であり、理性的な人であれば、これ以外の選択肢はないという論理である。


 立花の論証は意識に傾き過ぎるキライがあると書いてきた。日常生活においては意識を中心とした生命活動となる。深層心理学の発達によって、意識下に広大な領域があることが判明しつつある。ところが既に、今から3000年以上も前に説かれた仏法では唯識論(あるいは九識論)というのが説かれており、生命の限りない可能性が具体的にされている。


五感

―――

意識

―――――

末那識(自我)

―――――――

阿頼耶識(業)

―――――――――

阿摩羅識(根本浄識)

―――――――――――


 とまあ、図にするとこうなる(作るのに結構、苦労した)。


 識とは、対象を認めその異同を知り、分別する心の作用のこと。一般的には末那識(まなしき)あたりまでなら想像もつくだろう。この下にある阿頼耶識(あらやしき)とは生死を超えた業(ごう)の世界である。カッとなって刺してしまった、などという黒い衝動の世界もこの部分に当てはまる。所謂(いわゆる)、深層心理学が説いているのは大半がこの部分である。そして最後の部分が最も広大な領域である。開かれた三角形となっているのは、この部分は大宇宙と等しい大きさの領域であるからだ。ここに至ると、生命は自分以外の全ての生命とつながってて一体となる。それ故、他人を傷つけることは、そのまま自分を傷つけることになるのである。


 仏法では、生命は無始無終にして永遠の存在であると説かれている。生死(しょうじ)生死と繰り返し、自らが為してきた業(ごう)が現在の一瞬に凝縮されているという。死後の生命は宇宙に溶け込み、次なる縁によって何らかの生命体となるまで厳然と存在するという立場をとる。この考え方に正当性があるのは、元々、地球上には生命体が無かったにもかかわらず、タンパク質が誕生し、遂には人間に至っていることを踏まえれば、それほど突拍子もない考えとは言えないだろう。無から有は生じない。何か要素があるから目に見える結果が生じるのだ。


 生命の奥深くで自分を自分たらしめているのは阿頼耶識、阿摩羅識に他ならない。この部分が三世永遠に引き継がれてゆくのである。死して尚、消失しない領域といってよい。


 イギリスの生物学者ルパート・シェルドレイクが、記憶と脳の関係を、テレビの画像や音と受信機に喩えている。例えば、テレビで感動した場面を見たとしよう。その画面を翌日、テレビの中に探しても決して見つかりはしない。つまり、心は脳を媒介にして働くとしても、脳そのものではないということだ。生命とは電波のようなものかも知れない。目には見えないが、互いに邪魔になることもなく厳然と存在している。きちんと電波が受信されて映っている状態が、私達の生命活動であり、「私のチャンネル」が「我が人生」といっていいだろう。


 死ねば終わりとする思考から生まれるのは、今さえよければ構わないとの刹那主義である。死を忘れた文明が欲望を野放しにしてしまったのが現実である。


 阿頼耶識、阿摩羅識という第八、九識の実体は見えない。しかし、生命流とでも名づける他ない生命の核が大宇宙と永遠を貫いているのだ。生を受けてからの瞬間瞬間に亘る自らの行為は、塵も残さず生命に刻印される。これによって死して尚、千差万別の境涯が決まってしまうのだ。臨死体験が私達に教えてくれるのは、永遠の存在である生命が、人間のわずかな一生で軌道修正できるというメッセージであろう。彼等の生き方が大きく変化するのがその証拠といってよい。

【了】

臨死体験〈上〉 臨死体験〈下〉

2001-12-05

立花隆『臨死体験』その四


科学万能主義による視野狭窄を露呈


 前回の原稿を読み直して、ふと妙案を思いついた。脳が無い生き物がいるではないか。ネットで調べたところにはあるようだ。


 だが植物にはないだろう。あったらゴメンなさい。いくら何でもないよなー、という前提にしておく。ミトコンドリアにも無さそうだな。まあ、植物だけでも充分だろう。脳が無くったって生きてるではないか。以上を持って、脳内現象説への勝利宣言とする。お粗末でした。


 生と死は補完し合う関係であるというのが私の考えである。例えば死の無い世界があったとしたら、果たしてどのような状態になるだろうか。この際だから都合の好いように考えることとしよう。極めて健康な状態で、若々しいまま永久に生きる世界である。まずもって完璧な無気力の世界となることは疑う余地がない。努力なんぞは見向きもされないようになり、頑張るという言葉は意味を失うだろう。ということはだ、死そのものが、人間にとっては慈悲のリズムであるということである。つまり、死という区切りがあることによって、生はかけがえのないものになるということだ。


 立花の『臨死体験』を読みながら、胸がムカムカしてきた私は、ヴィクトール・E・フランクルの『死と愛 実存分析入門』(みすず書房)を手に取った。この中に「死の意味」と題した部分が33ページに亘って書かれている。フランクルはアウシュヴィッツ強制収容所を経験した精神医学者で、代表作は『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(みすず書房)。文字通りの地獄を生き延びた人物であるが故に、死を自覚することに関しては常人の及ばぬところであろう。


「死が全生涯の意味を疑問にするということ、すなわち死は結局すべてを無にするから、すべては結局無意義である、といかにしばしば主張されたことだろうか。しかし死は実際に生命の意味性を破壊しうるであろうか、そうではなくて反対である」とし、その結果「あらゆる行為を無限に延期することができる」と喝破している。


 フランクルは生と死を統合的に捉える――


 死は本来生命に属していることではないだろうか。


 運命は死と同様に何らかの形で生命に属しているのである。


 そして個性という幸福の要素が協同体によって生まれるものであるとした上で――


 運命の意味は存するのであり、死と同様に生命に意味を与えるのである。各人はそのいわば排他的な運命空間の内部において他の人にとって代わることはできないのである。この彼の独自性は彼の運命の形成に対する彼の責任を構成するのである。(中略)その独自の運命をもちつつ各個人はいわば全宇宙の中で一人そこにいるのである。


 と論じている。死が生を照らし、運命が生に光を注ぐというのだ。


 運命は大地のように人間に属している。人間は重力によって大地にしばりつけられるが、しかしそれなくしては歩行は不可能なのである。われわれは、われわれが立っている大地に対するのと同様に、運命に対さねばならず、われわれの自由に対する跳躍台としなければならないのである。(中略)たしかに人間は自由ではあるが、しかしそれはいわば真空の空間の中に自由にただよっているのではなくて、多くの誓約の真只中における自由なのである。


 確かにそうだろう。まさしくその通りだろう。立花などに見られる小手先だけの趣味的教養などは吹っ飛んでしまうような力強い思想である。


 私が思うには、死とは眠りに就いている状態のようなものだろう。これじゃあ、あっさりし過ぎかしら? 眠りを“小さな死”としよう。なぜ眠るのか? そこに布団があるからだ。いや、失礼。それは活力を取り戻すためである。眠っている時は何も感じないだろうか? そんなことはない。悪夢にうなされる状態もあれば、薔薇色の夢に包まれることだってあるだろう。死ぬことが大変なのは、どんなに苦しんでいたとしても起こしてやることができないところである。


 古来、人類は不老不死に憧れ、科学技術の進んだ現在では、死後の肉体や脳を冷凍保存する人々まで出てきた。死後の生命は存在するのかという問題は、ある意味で宇宙探検以上の価値があろう。なぜなら、それによって人類の生き方を一変することができるかも知れないからである。死後の生命=迷信的・非科学的と考える向きも多いだろうが、これ自体、証明されてないという点では迷信に過ぎないのである。


 近年になってDNAの研究が盛んになっているが、DNAの中に生命を閉じ込めてしまうような本末転倒が見られる。DNAをつくったのは生命それ自体であり、DNAから生命が生まれたわけではないのだ。立花の論調には一貫してこのような倒錯が散見される。よもや、ベートーヴェンの『歓喜』を聴いた時の脳波を調べることによって、『歓喜』のメロディーが作れると思っているわけではあるまい。


 また、人間に良心が備わっていること自体が、死後の生命を実感として知っている証左といえないだろうか。死ねば終わりとするならなば、見つからなければ何をしでかしても構わないという論理になる。しかしながら、人間性がそれを許さない。善性とは生の永遠性を自覚することによって生まれる人間本来の英知なのかも知れない。

臨死体験〈上〉 臨死体験〈下〉

2001-12-03

立花隆『臨死体験』その三


科学万能主義による視野狭窄を露呈


 目の前に蟻がいたとしよう。6本の脚(あし)を懸命に動かしながら、蟻は前進している。これを人差し指で潰す。指を裏返せば、体液をにじませた蟻の死骸がピクリともせず貼りついている。先ほどまで活発に動いていた蟻の生命は消失したのであろうか? 蟻に脳みそがあるのか、意識があるのかは知らないが、蟻は間違いなく生きていたのである。蟻を動かしめていたものの根源は生命に他ならない。あったはずの生命は果たして消えたのだろうか? 消えたとする科学的な証明は可能なのだろうか?


 下巻冒頭で、臨死体験が本格的に研究される端緒を開いた『かいまみた死後の世界』(評論社)の著者レイモンド・ムーディへのインタビューが掲載されている。


 この中で面白いのは、ムーディ博士から「『あなたは知識欲中毒ですね』といわれて、『全くその通りです』」と立花が答えたことを得々と紹介している部分だ。立花は知識欲を満たすために本書を著したに違いない。結論部分がそれを示して余りある。取り上げられた内容が生と死に関することであるにもかかわらず尻すぼみの印象を拭えないのは、脳味噌の表面をツルリと撫でた程度の結論しか導き出せなかったことが大きい。


 エリザベス・キューブラー=ロスと双璧を為すムーディ博士本人は「科学的には(現実体験説と脳内現象説の)どっちとも決着がつけられない問題だと思います」と語る。また、“死後の世界”という表現が好ましくないとして「この世とあの世とは時間的にも空間的にもわかれているのではなく、実はつながっているのではないか。いやもっといえば、同じ世界なのではないか。同じ世界なのに見え方がちがっているのではないかと思うのです」と答えている。氏の慧眼、恐るべし。


 付け加えておくと、ムーディ・インタビューでの立花の質問は実に不躾(ぶしつけ)で小生意気な印象が拭えない。身体ごと体当たりして教えを請うようなところは微塵もなく、自分の意見に沿う答えを引き出そうと悪戦苦闘しているようにも見える。立花のスタンスが顕著になっているのは確かだ。


 こんな素晴らしい内容のインタビューの直後に立花は、またしても下世話なテーマを取り上げる。さしずめ振り出しに戻るといったところ。臨死体験の多くが育った国や時代の文化からの影響を強く受けている(米国人はキリストと出会い、日本人は三途の川を見る、等々)ことを挙げ、「文化の数だけ死後の世界も実在するという説は、やはりかなりご都合主義的なつじつまあわせの説ではないだろうか」と、自分の考え方に執着すること甚だしい。まずもって文章表現に可愛げがない。これは私に言わせれば全く逆の話で、「死生観」こそが文化や世界観を支えているのだ。


 これに答えるインド国立衛生神経科学研究所のサトワン・パスリチャ博士もお見事。二つの文化で異なる体験が起こるのは言語の限界であるとした上で「わたしたちが聞いている体験談は、本人が言語化できないといっているものを無理に言語化してもらったものなのです。だから、本当の体験それ自体と言語表現された体験との間には、かなり大きな落差があるだろうと思うのです。ある訳のわからない体験を言語表現しようとするとき、言語化以前にまずそれは何なのかという解釈を加えます。その解釈それ自体が文化の与えるフレームワークの中でなされるわけです。そして、言語化するときには、自国語のヴォキャブラリーのフレームワークの中に入れなければなりません。この二つのプロセスで生まれてくる誤差が、体験のちがいとなってあらわれている可能性も強いのです」と卓見を披露している。


 この後も、脳と心の関係を“感覚遮断”などの実験例を示したり、側頭葉のシルヴィウス溝を刺激すると臨死体験とほぼ同様の感覚を得られるなどと説明される。また視覚のメカニズムに至るまでが解説されている。この章の小見出しに「『見えないもの』は見えるか」とある。つまり、臨死体験者が見るはずのないものを見たとする経験によって、現実体験説の裏付けとしようという実験が紹介されている。結果はどちらとも言い難いものだった。タイトルが面白く感じられたこともあって印象に残ったのだが、逆説的に捉えれば、見えるということは見えないということでもある。別に謎掛けをしているわけではない。見えるということは見えるものの後ろを隠してしまうということだ。この本を読んでいる最中に、なかなか見つからないライターを煙草の箱の下から発見した時にそう実感した。


 見えるはずのないものが見えたとする体験をどう解釈するか。立花は三つの立場を列挙する。第一は錯覚である。第二はそのような事実は認めた上で、科学的な説明理論が発見されてないものの、いつの日か説明できるだろうと問題を棚上げにする。第三はありのままを受け容れること。立花自身は第二の説だとしている。


 そして立花は本音を吐露している――


 もともとそのような世界観(魂の存在を肯定する立場)を持っていた人には、それは受け入れやすいロジックかもしれないが、そうでない人にとっては、それはいわば世界観を大転換して、これまでの考えの対極にあるものを丸呑みにするに等しいことだから、なかなかふんぎりがつかないだろう。


 この臆病さこそが本書の最大の敗因であろう。つまり、新しい価値観を受け容れるだけの勇気を持ち合わせていなかったことが立花の最大の不幸であったということだ。


 そうして立花の結論はこうだ――


「臨死体験の取材にとりかかったはじめのころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣に思っていた。それというのも、私自身死というものにかなり大きな恐怖心を抱いていたからである」。それが取材を重ねてゆく内に「いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなってしまったのである」。そして、「生きてる間に、死について、いくら思い悩んでもどうにもならないのに、いつまでもあれこれ思い悩みつづけているのは愚かなことである。生きてる間は生きることについて思い悩むべきである」と締め括られている。


 これが868ページも読んでもらった読者に対して放つ言葉であろうか? 小馬鹿にするのも大概にしておけと怒鳴りたくなるのは私だけではあるまい。何たる無気力、何たる弱気、何たる無責任だろう。こんな人物が生の意味を見出すことができるはずもない。初老の物書きが様々な取材を重ねた挙げ句、自分の価値観を肯定することのみに執着した結果、全く何の変化も及ぼすことがなかった、というのが本書に書かれた全てである。


【※以降は、私の死生観を示して、立花氏への批判としたい。あと2回書く予定】

臨死体験〈上〉 臨死体験〈下〉

2001-12-02

目撃された人々 11


 近所に中学があり、夕刻になると数人で連れ立って家路へつく生徒達を時折、目にする。


 男女とも、とにかくだらしがない。制服はヨレヨレで、革靴のカカトを踏んだままで引き摺るような足の動き。頭髪においては何をかいわんや、である。みっともない姿で平然としている彼等に美意識の喪失を思う。


 瞳に輝きがない。挙措(きょそ)に溌剌(はつらつ)さがなく、年齢特有の瑞々しさがない。世界を面白がるような好奇心も見えない。そんな彼等にしてしまったのは、我々大人の責任であろう。彼等から生きる希望を失わせたのは、どこの誰でもなく我々なのだ。


 十有余にして老い、衣食足りて礼節を失う。そんな光景に世の中の悲惨を垣間見た思いがする。ああ、せめて彼等が朗らかに笑える世の中となりますように。