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2001-12-03

立花隆『臨死体験』その三


科学万能主義による視野狭窄を露呈


 目の前に蟻がいたとしよう。6本の脚(あし)を懸命に動かしながら、蟻は前進している。これを人差し指で潰す。指を裏返せば、体液をにじませた蟻の死骸がピクリともせず貼りついている。先ほどまで活発に動いていた蟻の生命は消失したのであろうか? 蟻に脳みそがあるのか、意識があるのかは知らないが、蟻は間違いなく生きていたのである。蟻を動かしめていたものの根源は生命に他ならない。あったはずの生命は果たして消えたのだろうか? 消えたとする科学的な証明は可能なのだろうか?


 下巻冒頭で、臨死体験が本格的に研究される端緒を開いた『かいまみた死後の世界』(評論社)の著者レイモンド・ムーディへのインタビューが掲載されている。


 この中で面白いのは、ムーディ博士から「『あなたは知識欲中毒ですね』といわれて、『全くその通りです』」と立花が答えたことを得々と紹介している部分だ。立花は知識欲を満たすために本書を著したに違いない。結論部分がそれを示して余りある。取り上げられた内容が生と死に関することであるにもかかわらず尻すぼみの印象を拭えないのは、脳味噌の表面をツルリと撫でた程度の結論しか導き出せなかったことが大きい。


 エリザベス・キューブラー=ロスと双璧を為すムーディ博士本人は「科学的には(現実体験説と脳内現象説の)どっちとも決着がつけられない問題だと思います」と語る。また、“死後の世界”という表現が好ましくないとして「この世とあの世とは時間的にも空間的にもわかれているのではなく、実はつながっているのではないか。いやもっといえば、同じ世界なのではないか。同じ世界なのに見え方がちがっているのではないかと思うのです」と答えている。氏の慧眼、恐るべし。


 付け加えておくと、ムーディ・インタビューでの立花の質問は実に不躾(ぶしつけ)で小生意気な印象が拭えない。身体ごと体当たりして教えを請うようなところは微塵もなく、自分の意見に沿う答えを引き出そうと悪戦苦闘しているようにも見える。立花のスタンスが顕著になっているのは確かだ。


 こんな素晴らしい内容のインタビューの直後に立花は、またしても下世話なテーマを取り上げる。さしずめ振り出しに戻るといったところ。臨死体験の多くが育った国や時代の文化からの影響を強く受けている(米国人はキリストと出会い、日本人は三途の川を見る、等々)ことを挙げ、「文化の数だけ死後の世界も実在するという説は、やはりかなりご都合主義的なつじつまあわせの説ではないだろうか」と、自分の考え方に執着すること甚だしい。まずもって文章表現に可愛げがない。これは私に言わせれば全く逆の話で、「死生観」こそが文化や世界観を支えているのだ。


 これに答えるインド国立衛生神経科学研究所のサトワン・パスリチャ博士もお見事。二つの文化で異なる体験が起こるのは言語の限界であるとした上で「わたしたちが聞いている体験談は、本人が言語化できないといっているものを無理に言語化してもらったものなのです。だから、本当の体験それ自体と言語表現された体験との間には、かなり大きな落差があるだろうと思うのです。ある訳のわからない体験を言語表現しようとするとき、言語化以前にまずそれは何なのかという解釈を加えます。その解釈それ自体が文化の与えるフレームワークの中でなされるわけです。そして、言語化するときには、自国語のヴォキャブラリーのフレームワークの中に入れなければなりません。この二つのプロセスで生まれてくる誤差が、体験のちがいとなってあらわれている可能性も強いのです」と卓見を披露している。


 この後も、脳と心の関係を“感覚遮断”などの実験例を示したり、側頭葉のシルヴィウス溝を刺激すると臨死体験とほぼ同様の感覚を得られるなどと説明される。また視覚のメカニズムに至るまでが解説されている。この章の小見出しに「『見えないもの』は見えるか」とある。つまり、臨死体験者が見るはずのないものを見たとする経験によって、現実体験説の裏付けとしようという実験が紹介されている。結果はどちらとも言い難いものだった。タイトルが面白く感じられたこともあって印象に残ったのだが、逆説的に捉えれば、見えるということは見えないということでもある。別に謎掛けをしているわけではない。見えるということは見えるものの後ろを隠してしまうということだ。この本を読んでいる最中に、なかなか見つからないライターを煙草の箱の下から発見した時にそう実感した。


 見えるはずのないものが見えたとする体験をどう解釈するか。立花は三つの立場を列挙する。第一は錯覚である。第二はそのような事実は認めた上で、科学的な説明理論が発見されてないものの、いつの日か説明できるだろうと問題を棚上げにする。第三はありのままを受け容れること。立花自身は第二の説だとしている。


 そして立花は本音を吐露している――


 もともとそのような世界観(魂の存在を肯定する立場)を持っていた人には、それは受け入れやすいロジックかもしれないが、そうでない人にとっては、それはいわば世界観を大転換して、これまでの考えの対極にあるものを丸呑みにするに等しいことだから、なかなかふんぎりがつかないだろう。


 この臆病さこそが本書の最大の敗因であろう。つまり、新しい価値観を受け容れるだけの勇気を持ち合わせていなかったことが立花の最大の不幸であったということだ。


 そうして立花の結論はこうだ――


「臨死体験の取材にとりかかったはじめのころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣に思っていた。それというのも、私自身死というものにかなり大きな恐怖心を抱いていたからである」。それが取材を重ねてゆく内に「いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなってしまったのである」。そして、「生きてる間に、死について、いくら思い悩んでもどうにもならないのに、いつまでもあれこれ思い悩みつづけているのは愚かなことである。生きてる間は生きることについて思い悩むべきである」と締め括られている。


 これが868ページも読んでもらった読者に対して放つ言葉であろうか? 小馬鹿にするのも大概にしておけと怒鳴りたくなるのは私だけではあるまい。何たる無気力、何たる弱気、何たる無責任だろう。こんな人物が生の意味を見出すことができるはずもない。初老の物書きが様々な取材を重ねた挙げ句、自分の価値観を肯定することのみに執着した結果、全く何の変化も及ぼすことがなかった、というのが本書に書かれた全てである。


【※以降は、私の死生観を示して、立花氏への批判としたい。あと2回書く予定】

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