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2001-12-21

立花隆『臨死体験』その五


科学万能主義による視野狭窄を露呈


 初めに発行が遅れた言いわけをしておく。原稿を書こうかと思っていたところ、掲示板にて赤マント氏からの逆襲を受けてしまった。あたふたと応戦している内に、色々と考えざるを得なくなってしまったのだ。ってなわけで失礼つかまつり候。尚、掲示板でのやり取りを付録として掲載しておく。


 私には昔から妙な趣味がある。安手のボールペンや100円ライターをもらったり、拾ったり、奪ったりするのが好きで、これらを完全に使い切ることに執念を燃やすことを常としている。たった今も火のつかなくなったライターを供養したところである。彼等は生き物ではないかも知れないが、それぞれの目的を持ってこの世に誕生したわけであるから、使命を全うさせてやりたいという、ささやかな手助けをすることによって、密やかな満足感を覚える。使い切った瞬間、「よくやった! ご苦労さん!」と満腔の意を表してゴミ箱に捨てる。合掌――。


「人間が人間として生きなかったということぐらい、恥ずかしいことはありますまい。松の木は松の木としてのびていきます。ライオンは一生ライオンの声を失いません。しかるに人間が人間らしく生きなかったということは、金銭登録器のような生活しかしなかったということは、人間としてこれ以上の恥辱はないと思います」〈銀行員だった父・義平の遺書〉


【『真実一路山本有三(新潮文庫)】


 これも忘れ難い一節である。この世にあるもの全てが何か役目を持っている。無目的なものは何一つないといっていいだろう。また、人生の充実も何らかの目的を果たした時に感じることが殆どである。太陽や月も、花や木も、虫や動物もあるべきところに収まっている。大自然の摂理は古来より調和のリズムを奏でている。


 では、人間が生まれた目的は何であろうか? あなたがあなたとして生まれきた目的は何なのであろうか? これを追求し、今世(こんぜ)で見事に果たし切った時に、人は尊厳ある死を迎えることができるのではないだろうか。昨今、見受けられる、「みっともない無様(ぶざま)な死に方だけはしたくない」なんて論調の尊厳死論に、私は真っ向から異を唱えるものだ。


 思想家であり数学者でもあったパスカル(1623-1662)は、死後の生命があるかどうかが理性では判じ難いことを前提とした上で賭けの理論で説明している(『パンセ』)。人が「死後の生命がある」方に賭けて生き、死んだとする。その結果、賭けに負けた(死後の生命が存在しなかった)としても「あなたは何も損をしないではないか」とパスカルは言う。一方、「死後の生命がない」方に賭けて生き、死んだとする。それでもし、死後の生命が実在していたら、もう取り返しがつかない。後の祭りである。こう冷静に考えれば、死後の生命を信じる方に賭けることは、極めて合理的な選択であり、理性的な人であれば、これ以外の選択肢はないという論理である。


 立花の論証は意識に傾き過ぎるキライがあると書いてきた。日常生活においては意識を中心とした生命活動となる。深層心理学の発達によって、意識下に広大な領域があることが判明しつつある。ところが既に、今から3000年以上も前に説かれた仏法では唯識論(あるいは九識論)というのが説かれており、生命の限りない可能性が具体的にされている。


五感

―――

意識

―――――

末那識(自我)

―――――――

阿頼耶識(業)

―――――――――

阿摩羅識(根本浄識)

―――――――――――


 とまあ、図にするとこうなる(作るのに結構、苦労した)。


 識とは、対象を認めその異同を知り、分別する心の作用のこと。一般的には末那識(まなしき)あたりまでなら想像もつくだろう。この下にある阿頼耶識(あらやしき)とは生死を超えた業(ごう)の世界である。カッとなって刺してしまった、などという黒い衝動の世界もこの部分に当てはまる。所謂(いわゆる)、深層心理学が説いているのは大半がこの部分である。そして最後の部分が最も広大な領域である。開かれた三角形となっているのは、この部分は大宇宙と等しい大きさの領域であるからだ。ここに至ると、生命は自分以外の全ての生命とつながってて一体となる。それ故、他人を傷つけることは、そのまま自分を傷つけることになるのである。


 仏法では、生命は無始無終にして永遠の存在であると説かれている。生死(しょうじ)生死と繰り返し、自らが為してきた業(ごう)が現在の一瞬に凝縮されているという。死後の生命は宇宙に溶け込み、次なる縁によって何らかの生命体となるまで厳然と存在するという立場をとる。この考え方に正当性があるのは、元々、地球上には生命体が無かったにもかかわらず、タンパク質が誕生し、遂には人間に至っていることを踏まえれば、それほど突拍子もない考えとは言えないだろう。無から有は生じない。何か要素があるから目に見える結果が生じるのだ。


 生命の奥深くで自分を自分たらしめているのは阿頼耶識、阿摩羅識に他ならない。この部分が三世永遠に引き継がれてゆくのである。死して尚、消失しない領域といってよい。


 イギリスの生物学者ルパート・シェルドレイクが、記憶と脳の関係を、テレビの画像や音と受信機に喩えている。例えば、テレビで感動した場面を見たとしよう。その画面を翌日、テレビの中に探しても決して見つかりはしない。つまり、心は脳を媒介にして働くとしても、脳そのものではないということだ。生命とは電波のようなものかも知れない。目には見えないが、互いに邪魔になることもなく厳然と存在している。きちんと電波が受信されて映っている状態が、私達の生命活動であり、「私のチャンネル」が「我が人生」といっていいだろう。


 死ねば終わりとする思考から生まれるのは、今さえよければ構わないとの刹那主義である。死を忘れた文明が欲望を野放しにしてしまったのが現実である。


 阿頼耶識、阿摩羅識という第八、九識の実体は見えない。しかし、生命流とでも名づける他ない生命の核が大宇宙と永遠を貫いているのだ。生を受けてからの瞬間瞬間に亘る自らの行為は、塵も残さず生命に刻印される。これによって死して尚、千差万別の境涯が決まってしまうのだ。臨死体験が私達に教えてくれるのは、永遠の存在である生命が、人間のわずかな一生で軌道修正できるというメッセージであろう。彼等の生き方が大きく変化するのがその証拠といってよい。

【了】

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