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2001-12-28

『同じ月を見ている』土田世紀


永遠を見つけるための生き方


 泣ける。涙が噴き出すという形容が大袈裟でないほど泣ける。既に5回読んだが、それでも泣ける。


 少年の心を失わずに生きた男の物語だ。男の名は水代元(みなしろげん)。子供の頃から“ドンちゃん”と呼ばれている。母親は既に死んでおり、飲んだくれの父親から虐待されながらの極貧生活。鼻腔が大きく膨らみ、厚ぼったい唇をしたその相貌はやや動物的だ。


 ドンちゃんは幼い頃から人の心を読み、それを絵にした。ある時は喜ばれ、またある時は嫌悪された。


 近所に住む大使館員の娘エミと知り合う。難病の少女エミは、会った途端、ドンちゃんに心を開く。テッちゃんを含めて3人で遊ぶ楽しい日々――。エミの誕生日にドンちゃんは似顔絵を書いた石をプレゼントする。少女は、20歳(はたち)になるまで毎年、私の絵を描いて欲しいと望む。それを希望に、少しでも輝いて生きたかったのだ。


 エミ、20歳(はたち)の誕生日。その約束を果たすためにドンちゃんは少年院を脱走する。だが、周囲の人間は打算と利害という苦い水を飲んで大人へと変わっていた。変わらぬドンちゃんを受け容れることのできないテッちゃん。ドンちゃんを殴りながら、自分の欲望を吐き出す姿の何と醜悪なことか。テッちゃんは、ドンちゃんがエミを自分から奪い取りにきたのだと邪推した。


「シットより…好き…………大事……こと」(1巻176p)


 と、本気で思っているドンちゃんは殴られながらも、テッちゃんを恨むことはなかった。ドンちゃんは少年時代を回想しながら、


「テッちゃんは…………ずっと優しくしてくれた。

 俺のこと汚い…臭いって言わなかったもんな…

 遊んでくれたもんな…

 俺……よかったな…

 いっぱい楽しい想い出できたもんな……」(2巻38p)


 と泣きながら微笑む。そんなことが現実にはあるはずがないと嘲笑うのは簡単だ。馬鹿馬鹿しいと本を閉じる人もいるかも知れない。だが、殴られても尚、感謝せずにはいられないほど、ドンちゃんの孤独の闇は深かったのだ。駆けつけたエミは後ろ姿のドンちゃんと一瞬、目を合わせただけでドンちゃんからのメッセージを余すところなく理解する。


 キャッチバーで知り合った金子とドンチャンは盃(さかずき)を交わし、義兄弟の契りを結ぶ。鉄砲玉の役目を命じられた金子が、死んだ兄貴分の妹・雪恵の行く末を案ずる。自分に万一のことがあったら雪恵を頼むと言われた瞬間、ドンちゃんの顔は一変する(3巻110p)。


 組長を殺害するよう説き伏せられた金子は、最初からその指示を出した坂崎を殺すつもりだった。金子の企てが失敗し、組長が撃たれようとしたその時、ドンちゃんが身体を投げ出し、銃弾は左胸を貫通した。時を同じくして手術を受けたエミも昏睡状態となる。ここで前半のクライマックスとなる。二人は同時に臨死体験をする。安否を気づかう組長と金子が座るベンチの横を少年時代のドンちゃんが駆け抜ける。病院の窓から飛び出したドンちゃんの生命はそのまま大宇宙に漂う。エミはその姿を見つめながら身悶えする。


 そこには母がいた。母は微笑みながら両手を差し出す。


「おいで、もういいんだよ。

 その人達のことはもう忘れなさい。

 真から心を開けばそこに人はどんどん汚れたものを放り込んでくる。

 よくこらえたね、元」(4巻76p)


 地球を見下ろす高みでドンちゃんは母の胸で泣く。


「元……あんたは少し欲張りだったね。

 あんたが欲しがっていたしあわせは、

 そんなに大きく、

 どんどんふくらんでいったんだね。

 地球ぜんたいがしあわせになることをかい?

 欲張りな子だよ……

 泣きなさい、元……

 そして笑顔で見送りなさい。

 あんたの祈りがいつか叶うことを信じて、

 もうサヨナラを言いなさい」(4巻86p)


 ドンちゃんは現代という悪世(あくせ)に遣(つか)わされた菩薩だった。菩薩の誓いは、一切衆生が幸福になるまで戦い続けることを旨とする。表面的な姿形など問題ではない。人生を通して如何なる心で日々を生きたか、何を目指して生き抜いたかで一生の価値は決するのだろう。


 ドンちゃんが流した涙の意味を思う。善なる心が通用しなかった人々に対する慙愧の念か。はたまた、世の中を変えることができなかったことへの悔しさであろうか。青く輝く星は、そこに棲む人々の真っ黒な欲望で覆い尽くされていた。


 そこへエミが駆けつける――


「約束したじゃない。

 ずっと一緒だって言ってくれたじゃない」(4巻97p)


 エミは少女の時のままで、ドンちゃんに笑い掛ける。そこには山火事の類焼で死んだエミの父親もいた。


「母ちゃん……ゴメンなさい」(4巻111p)


 そう言うなり、三途の川を渡ろうとするエミの手を引っ張ってドンちゃんは再び走る。エミはもう帰りたくないと泣く。


「さっきのは……永遠の場所じゃない……

 そう呼べるものは……あそこで自分で見つけるしかないんだ」(4巻117p)


 ドンちゃんは地球を指差しながらそう語る。


「たった一人で…誰よりも苦しんで……

 誰よりも傷ついて……

 受け入れて……

 許して……

 手放して……

 その時とその場所が……永遠なんだよ。

 エミ……ほんの…もう少しだけ……ボクも残るよ。

 かならずエミのそばにいるよ。エミが永遠を見つけるまで」(4巻118p)


 二人は同時に蘇生する。


 高校時代の恩師が語る――


「あの子の人生には自分が勘定に入ってないんですから」(4巻204p)


 組長が語る――


「やはりワシらのカゴでは狭すぎる…

 あの男はおさまりきるまい」(5巻83p)


 後半はドンちゃんを取り巻く人間模様に重きが置かれる。ドンちゃんの生き方に触れた彼等に革命的な変化が起こる。圧巻のラストでは、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩が朗読される。基調に流れるのは法華経の精神であった。人のために尽くす生き方が魂の交流を生む。心が拡大されていった分だけ、世の中を劇的に変えてゆくことができる。


 物語の合間合間に月が顔を現す。クレーターの彫りが深く描き込まれた絵が、月のリアリティを示し、厳然と存在する姿を示している。太陽ではなく月としたのはなぜか? それは、夜という孤独に耐えた上で光輝く理想を象徴したではないだろうか。


 触覚にピリリと来るような感性などとは桁違いの、肚(はら)に堪(こた)える大感情のドラマであり、物語の復興を思わせるほどの傑作である。

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