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2002-01-30

『虹をつくる男たち コマーシャルの30年』向井敏


 向井敏、逝去――このニュースを新聞で知った時、少なからぬショックを受けた。この本を読み終えたのは亡くなる少し前だったから、何か因縁があったのかも知れぬ。学生の時に伝説的なガリ版同人誌『えんぴつ』を発行。盟友、開高健谷沢永一に挟まれた彼は、才能豊かな二人の陰に隠れがちだったが、滋味の溢れる文章を好むファンも多かった。開高や谷沢のように明るい場所で目立つこともなかったが、それがかえって抑制された意志を感じさせ、紳士然としていたように思う。野心や功名心とは無縁な平凡が光っていた。謹んで哀悼の意を表する。


 本書の副題は「コマーシャルの30年」。巻頭には更に「世界は舞台 人は役者 幕間はコマーシャル」とある。大学院卒業後、電通に就職。コマーシャルを手掛けた向井ならではの作品である。テレビ、ラジオの草創期から1980年代に至る様々なコマーシャルが取り上げられている。記憶の彼方にあるものも多く、40代から50代の方であればもっと楽しめるだろう。


 私は元々気が短いせいもあって、警句の類いに目を惹かれ続けてきた。短い時間で視聴者の興味を掻き立てることを運命づけられたコマーシャルには昔から興味があった。気に入ったコピーを目にして、カタログを取り寄せたこともあった。このカタログは現在に至っても、たまにパラリと開いて一人でニヤニヤしながら悦に入ることがある(参考までに書いておくと、SOKKIグループの『オフィスサプライ・カタログVol.2』という事務用品のカタログ)。


 ましてやお気に入りの向井が書いているのだから面白くないはずがない。


 民放テレビ局第1号のCMとなるはずだったのは服部時計店精工舎)の時報スポット。ところが「放送の不慣れからフィルムが裏返しにかけられてしまい、画面はちらつき音は出ず、数秒で中止される」という体たらく。だが、向井は時報スポットの息の長さに注目し、「とりたてて話題になることはまずなかったけれども、万事派手好みの短距離走者がひしめくCM界にあって不抜のマラソンランナーの風貌さえ覚えさせられる」と締め括る。


 メモ・ランダムとして書いておくと、「あたり前田のクラッカー」ってのは、1962年となっているから、私が生まれる前からあったCMだったんだね。見たこともないCMだが、いまだに使用されることが少なくない言葉だから凄い。付け加えておくと、藤田まこと扮するあんかけの時次郎が悪漢を一刀のもとに切り伏せて「おれがこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」となるそうだ(5p)。


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 CM表現の歴史の中で画期的と形容するに足る1本を選ぶとすれば――そう前置きして向井が挙げるのは、レナウンの「イエイエ」(1967年)。記憶のどこかには残っているのだが、蘇ってこないのが残念。それまで退屈だったCMを「一夜にしてあらためさせるほどのめざましい効果を発揮した」。要素としては「ポップアート風の華麗な映像、洗練された構成、それに、見る人の心をはずませる軽快なタッチ」を挙げ、BGMを作曲した小林亜星をべた褒めしている。「『イエイエ』のCM作法が他の作り手たちに及ぼした影響はほとんど衝撃的というに値した。彼らはこぞって『イエイエ』のひらいた水路に殺到し、その流れを追って、やがて繚乱と花咲くフィーリングCMのお花畑を発見することになる(同頁)」。だが、向井は釘を差して置くことも忘れない。「もっとも、エンターテイメントを求め、時代のファッションと戯れ、イメージに興じることに執するあまり、しばしばCMの商品性を窒息させるという幣をもたらしはしたけれども」。ニヤリ。


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 ちょっと評することから離れて、つらつら書き留めておこう。だって好きなんだもん。許してチョンマゲ。


「1969年はパイロット万年筆の『はっぱふみふみ』で明けた」。全文を挙げると「みじかびのきゃぷりてとればすぎちょびれ/すぎかきすらのはっぱふみふみ」。「ことばそのものは無意味だが、和歌の定型律を借りているため」覚え易かったとのことで、子供たちの間で大流行。大人の間でも議論が沸騰したらしい。私はまだ学校に上がる前だったので覚えていない。「CMの常識に逆らって、アンチコマーシャルとでもいうべき思い切った訴え方をあえてした着眼はやは尋常一様のものではない」。


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 1971年頃から一般市民を素顔のままで登場させる手法が流行。代表作は「ふりむかないで(ライオン油脂/エメロンクリームリンス)」。髪の美しい女性を呼び止め船山喜久弥が髪の手入れ法などをたずねるシリーズ。これはよく覚えてる。「最後に『ちょっとふりむいてください』とカメラに気づかせるのだが、その瞬間のハッとする女性の表情が新鮮でプロのタレントのよそおい顔に慣れたひとびとに受けた」。


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「意味するところは深く、よそおいは瀟洒、うかつに使うのが惜しいようなことばがある。かつて『知的』というのがそのひとつだった」と始まり、次のように締め括られる。「風俗化されることで、『知的』はひとびとの日常とは別の世界のことばとしてわけもなくたてまつられるとこがなくなったかわり、本来の文脈からひきはがされることで、牙を抜かれ、毒を薄められ、はげしく迫ってくる力を失うにいたったこともまた否みがたい。くやしく思うのはわたしだけだろうか」。


 ロバート・キャパを世界の寵児に仕立てた1枚の写真「兵士の死」。ご存じの方も多いと思われるが、スペイン戦争で塹壕を飛び出した兵士が狙撃される瞬間を撮影した写真である。これを使った日本オリペッティのタイプライターのCMについて。画面の構成を評価しながらも、ナレーションの半端さをバッサリ。「引金を引いたのもシャッターを押したのも、同じ1本の指であった。しかし、ことばは10本の指によってたたき出される。伝えるべき祈りを封じこめ、ことばよ、心を打て」。私なんぞは結構、好いんじゃないかしらと思うだが、向井は「これはCMのメッセージといったものではなくて、センチメンタルなつぶやきにすぎない」(136p)と時に辛辣(しんらつ)。


 開高のファンであれば、「『洋酒天国』の秘密」(158p)などは必読である。寿屋(現サントリー)のPR雑誌『洋酒天国』に「酔族館」という欄があった。これが第4号から読者の頁に衣替えした。第1回目の投稿者は「大阪・谷沢永一」。これに答えるのが開高健となっているが、実は開高のイタズラで質疑応答はいずれも開高の手によるものだったとのこと。この後の数十篇の投稿は9割以上が開高自身の文章だったという。この時、開高健、26歳。早くも大器を思わせるエピソードである。


 流行り廃りの多い歌よりも儚(はかな)い存在のコマーシャル。それこそシャボン玉のようにパッと消え行く運命は物悲しくもある。だが、瞬間の生を享けたシャボン玉の表面には、時代や社会の動向から、人々の欲望までが映し出されている。向井は実に鮮やかな手並みでこれらをすくい挙げて見せてくれる。高度成長下で豊かになる庶民の暮らし振りまでが目に見えるようだ。物を売るというあざとい目的がありながらも、どこか心惹かれる印象を巧みに捉え、時代を見事に切り取った読み物である。


 最後に「追悼 金子光晴」から引用を。


 向井は、「ものがたりのように遠い昔」金子の詩集を「表紙はポケットの中でぼろぼろにすり切れ」るまで読んだことを記す。そして、コピーライターの職を得てから、逆らい難い誘惑に負けて金子の言葉をコピーに紛れ込ませたことを白状する――


 ある日、ひとつの文章を読んだ。「詩人がみずからの孤独を賭けてうみだした一行が、いまでは調子のいい名文句となって、日々にテレビの宣伝文のなかにさえ躍っている」。彼はふかく恥じ、デスクから詩集を遠ざけた。


 金子光晴がなくなった夜、ひとりのコピーライターが街の底へおりて行った。止まり木に腰かけ、目の高さに盃をあげて、ひそかに冥界を行く詩人の平安を祈った。あわせておのれの免罪を。


 向井敏は今頃、黄泉路の向こうで、金子光晴に詫びをいれてる頃だろうか。

虹をつくる男たち―コマーシャルの30年 (1983年)

2002-01-29

「[書評]のメルマガ」を斬る


[書評]のメルマガ」をご存じだろうか。


 それほど面白いわけでもないんだが、間接的な知人(つまり直接は知らない)がいることもあって惰性で購読している。まあ、内のマガジンと扱う書物のジャンルが異なることもあって、大して面白くもなければ、参考にすらならないというのが実情である。しかーーーしっ、部数は負けていることをご報告しておこう。


 ここのvol.31に私の知り合いである八方美人男氏のサイトが紹介されていた。

これは「書評サイト探検隊」という連載の第1回目の講評で、


「玉石混交」の書評サイトを探検して、そのなかからめぼしいものを取り上げて評してしまおうという暴挙に出ることにした。「めぼしい」ものの規準は、ない。


 というのがそもそもの狙いらしい。書き手はグッドスピードという編集経験のある人物。年齢は私よりも若い。


「八方美人男」と名乗るさして美しくもなさそうな人が個人で運営している書評サイトである。そのタイトルどおり「読んだ本は意地でも褒める」がモットー(「八方美人宣言」は必読。これは美しい宣言です)。そんなふざけた試みが面白そうだが、書評を読んでみるといたって真面目である。


 軽薄な修飾語をふんだんに使い、書評と関係ないことをあげつらうところにこの人物の人間性がよく出ている。会ったこともない人に対して「さして美しくもなさそうな個人」などとはよく書けたものだ。思い上がった視点からは、まともな評価など期待できるはずもない。


 いずれもしっかりと読んだうえでの書評であることが生真面目過ぎる文章からうかがえるし、決して皮肉まじりの褒め殺しではない。世にあふれる安易な罵倒より、生真面目に褒める行為は、読まずにいた本に対して世評とは違った角度から出会わせるという点で評価できる。


 読みにくい文章である。手放しで褒めることができない捻(ねじ)れた気質によるものだろう。あるいは、こき下ろすことによってしか、自分の優位性を表現することができないのかも知れない。


 しかし「意地でも褒める」の意地が書評からいまいち感じられない。「つまらない、駄目だ」という世評に対する反論を説得力をもって語ることができれば、読者はその本がどういう本なのかよくわかるのだ。もっと肩の力を抜いて褒めていいんじゃないかしら。そうすればもっと面白い書評になると思うんだけど。


「もっと」の重複が目立つ。でもまあ、ここらあたりは真面目な意見なんだろうね。


 素人がその文章の巧拙に関わらず書評が許されるのは対価を払っているからに他ならない。また、対価を支払わなかったとしても、「こんな代物を売ろうとしている」ことに対する反論という見方もできる。だが、ネット上の素人のページに対して、プロがしたり顔して意見するのはどうなんだろうねえ。現状よりも好いものになって欲しい、育ってゆくことを期待するという姿勢であればともかく、噂話程度の内容を公表するという神経が私には理解できない。


 八方美人男氏は、私がネットにつながって以来の知人である。私より若いが、その書評には随分と啓発されてきたものだ。そういう個人的感情を込めてこの一文を書いたことを付け加えておく。

2002-01-28

 ニュース拾い読み・書き捨て 15


ホームレス襲われ死亡/中2男子3人逮捕/図書館で注意うけ逆恨み


【読売新聞 2002-01-28】


▼上記の見出しは1面記事で、社会面でも大きく取り上げられている。取り調べに対して少年達は「涙を流したり、『許して下さい』と言っている」そうだ▼君等の涙を信用するほど社会は甘くないよ。どうせ、涙が乾いたらケロッとしているんだろうよ▼少年達の親御さんへ――あなた達は14年もかけて人殺しを育てたんですね。多分、あなた達は無慙な暴力によって殺されたホームレスの方よりも、自分達が受ける社会的な制裁を気にしてらっしゃることでしょう▼あるいは「相手はどうせホームレスじゃないか」などと思っているのかも知れません▼あなた達親子がまともな人生を送ってゆくには、殺されたホームレスの方と同じ目に遭うのが手っ取り早いと思いますね▼私の息子がそんなことをしでかしたら、間違いなく実行するだろう。だが、それでも許される問題ではない▼大人達が不況に目を奪われてる間に、どんどん社会の闇は大きな口を広げてゆく。

2002-01-27

目撃された人々 12


 ストレスを溜めない方法の一つに「電車に乗らないこと」を挙げる人が多い。紳士然とした人物が電車に掛け込むなり空席を血眼(ちまなこ)になって探すような仕草や、頭の悪そうな学生が長い脚を通路に放り出している態度や、込み合った車内で、カサカサとなった皮膚を覆い隠すために、大量の化粧品が塗ったくられたオデコに汗が浮いているのを目にした時などは、確かにそう思う。


 人生を支える大事な要素の一つに「自立」がある。しかしながら、満員電車の中では「自立」することは不可能だ。周囲の揺れに身体を任せるのが最も賢明な選択である。大体が逆らおうとしたって逆らえるもんじゃない。ひょっとしたら、満員電車は国民を無気力にするための有効な政治的策略なのかも知れない。アウシュヴィッツの強制収容所に送られるユダヤ人だって、これほどのすし詰めではなかったことだろう。


 冬の雨に祟(たた)られた日のことだ。平日の正午近い時間ということもあり、電車内は空いていた。私の右斜め前に座っていた若い女性がバッグの中から鏡を取り出した。結構デカイやつだ。台座がついていて直系は15センチほどもあろうか。ひたと鏡に見入るや女は突然、化粧を始めた。「無駄な抵抗はやめろ!」。拡声器が手元に無かったために、舌打ちをかましておいた。が、意に介する様子は全くない。私は瞳に力を込めて「馬鹿な女め」光線を発射した。しかし、これも効き目ナシ。


 女は小さなブラシのようなもので、まつげに色を塗っているようだった。彼女の目に映っているのは自分だけだ。電車内のことはおろか、社会や世界などは全く目に映ってないのだろう。自分の将来すら映ってはいないだろう。どうせ関心があるのは自分の顔だけなのだ。彼女が母親となっても、そうした性癖は変わらないだろう。そうでなければ、衆人環視の中で化粧などできるはずがない。赤ん坊が泣いていても、化粧を続けるのだろう。成長期の子供が悩みを抱えていても、化粧を優先させるに違いない。そして、化粧をもってしても誤魔化すことができない年齢になった途端、彼女の人生は終焉を告げるのだ。医学の恩恵を夏の太陽のように浴びて、彼女は想像以上の長生きをする。棺桶(かんおけ)の中に静かに横たわる彼女の顔には化粧が施され、幼児が描いた落書きみたいになっていることだろう。


 まつげにたっぷりと時間をかけ終えた女は次の化粧品を取り出す。まだまだ、年若い女だったが、目の下の隈(くま)は化粧品をもってしても隠し切れなかった。この女が求めてやまない美しさとは、心の貧しさを不問に付すものであり、つつましさとは縁のないものだった。その内、電車内で下着を取り替える女性が現われるようなことになるかも知れない。


 と、そこへ、10代後半と思われる少年が威勢よく歩いて行った。一目で、頭の発達が遅れていることがわかる少年だ。少年は「ガチャン、ガチャン」と叫びながら意気揚々と足を踏みしめる。電光の案内に文字が出るや否や、彼は直ぐさまそれを読み上げる。「次は千駄ヶ谷」。一息遅れて車内アナウンス。少年は得意げな顔をした。「Next Sendagaya」と英語まで読み上げる。私は頬を緩めた。初老の婦人が顔をしかめた。一仕事終えた少年は窓外の風景を見つめ、無気力な顔に戻る。


 人前で化粧をする愚かな女と、いくらかの障害があっても一人で電車に乗れる少年。彼等を取り巻く人々はどんな人達だろう。彼等が泣いたり、笑ったりするのはどんな時なのだろう。そんな思いがよぎった瞬間、雲間から光が差した。