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2002-03-19

目撃された人々 14


 電車内には礼節や親切は存在しない。ここのところ電車に乗る機会が多いのだが、そのような結論に至った。


 まず、混雑している車内から降りようとドアに向かって進む際に「あの、すみません」とか「ちょっと、よござんすか」などと行った野郎を見たことないもんね。俺はちゃあんと言うよ。声がデカイからね、皆、サッと開けてくれるよ。


 座席に座っている若造なんかは、目の前に年寄りが来たら、寝た振りしてんだよな。全く頭に来る話だよ。で、いくつか駅を過ぎると薄目を開けて年寄りがまだいることを確認したりしてやがるんだよ。「バアサン、その野郎の膝小僧の上に座ってやんなよ」って、よっぽど言ってやろうかと思ったぜ。


 で、本題。人間観察に長(た)けている私が電車という舞台をみすみす見逃すはずがない。そこで空いてる座席に腰掛けるパターンを分析してみた。


 まず一番多いのは、ゆっくりと腰を下ろし、静かに背中を押し付け、ちょこっと肩を揺すぶりながら定位置を確保するやり方だ。まあ、人が座ろうとしているのに、身体を寄せて譲るような精神の持ち主は東京じゃどこにもいないからね。


 次にこれはお年寄りに多く見られるタイプだが、座席に浅く腰を掛ける人。最近はやたらと図体だけデカイ若造がいるから、遠慮がちに座る上品な人々である。


 そして最後に、いけ好かないオヤジ連中の1割を占めるであろう倣岸不遜な輩である。コイツらは座席の前に立ったかと思うと、いきなりドォーーーンって感じで座り込んじゃう。いかり肩を両隣の客にショルダー・アタックのようにかましておいて、「あ、すみませんねー」と全く悪びれる風もなく、しっかりと余裕のポジションを獲得するというやり方だ。


 私の場合はどれにも当てはまらない。静かに座り、隣の客と肩がぶつかると、舌打ちをし、黙ってそいつを睨(にら)みつけてやるのだ。こうすれば大半の客は少し身体を寄せてくれる。それでも譲らない馬鹿オヤジであれば、思いっきり肩を押し付け、75kgの体重でプレッシャーを与え続ける。


 それとだ、以前から気になって仕方がなかったのだが、日本人はどうして端っこが好きなのかね〜? これは昔、とある食堂で働く中国系の店員も語っていた。電車内でも、よく見受けられる。座っているクセしやがって、パッと端っこに移動するのがいるでしょ? ありゃあ一体全体何なんでしょうね〜? 見知らぬ人と触れ合うのが嫌でしょうがないのかな? せめて片一方だけにして欲しいという潔癖性の現れかも知れない。

2002-03-18

『生きがいの創造』飯田史彦


平易に説き過ぎた生まれ変わりの幸福論


 副題は「“生まれ変わりの科学”が人生を変える」。チト胡散臭いな(笑)。


 著者の本業は福島大学経済学部経営学科の助教授。特定の宗教色は全く無い。


 ある講演を聞いた際、飯田史彦の名前が紹介されたので読んでみた。私は仏教徒なので所謂「生まれ変わり」に異を唱えるものではない。正確にいえば輪廻転生(りんねてんしょう)。もっと正確にいうと生まれ「変わる」とは表現しない。死んだ時の生命がそのままの状態で再び生まれてくるという教えである。


 その私が読んでも妙な気持ちにさせられる本だ。なんだか、ツルツルし過ぎてるんだよなー。掴みどころがないっていうか、あっさりし過ぎっていうか……。多分ね、文献に頼り過ぎてるキライがあるせいだと思う。俄(にわか)には信じ難い内容が実に多い。


 しかしながら、


 私は「真理」には関心がなく、生きがい感の向上という「現象」にこそ、関心を抱いています。


 という姿勢には好感が持てる。


 取り上げられている多くの証言は退行催眠を元にしている。中には現在、地球上では使用されていないヴァイキングの言語を語った患者もいたという(69p)。


 まあ、わかりやすくするために用いられたのだと思うが、例えば、憎悪し合う母と娘を退行催眠で調べたところ、過去生において父親を奪い合った関係だったとか、腎臓の悪い男性が過去生において他人の腎臓を撃ったとか、身体にアザのある子供は、アザと同じ場所を武器で傷つけたなんて話がずらりと並んでいる。


 そんな単純な因果関係なのかね? ウーーーム……。


 また、過去生までにさかのぼる際には当然、死を経験しているわけだから、その模様も語られている。でもね、なんか楽しそうな印象しかないんだよね。なんだか、童話のように辻褄が合ってるんだよなー。また、過去生を思い出したから不幸ではなくなったという展開がこれまた怪しい。


 要所要所での飯田の論調に反対する気はあまりないが、取り上げられている例が「うまい話」みたいな感じなんだよね。


 更に「生まれ変わりの科学」の根拠は何かといえば、只単に宗教を否定しているだけに過ぎないのだ。


 最後の方に本書の元となった論文を読んだ方々からの多数の反響が収録されている。「救われた」と綴っている人も多い。ということは人生を変革しゆく何らかの力はあるのだろう。ただ、私としては本書に書かれている結論は所詮、道徳の域を出ることはないと考える。


 発想を転換することによって人生はバラ色になる、といった論調がどうしても気に食わない。何らかの行為や実践なくして自分が変わるはずなどなかろう。そういう安易さが手品みたいにインチキ臭く思えてしまうのだ。


 立花隆の『臨死体験』(文藝春秋)にも辟易(へきえき)させられたが、本書の内容は正反対ではあるが同じ位置にあるような作品である。


生きがいの創造―“生まれ変わりの科学”が人生を変える