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2002-06-20

日韓サッカーの源流 ワールドカップ開催を祝して


 1936年というから、昭和の11年である。ベルリン・オリンピックが開かれた。日本でも、サッカー(当時は「蹴球(しゅうきゅう)」といった)の全日本代表を決めることになった。


 実質の選考会とされたのが、前年6月の「全日本総合蹴球選手権大会」である。各地の予選を勝ち抜いてきた6チームが激突した。


 北海道、東北、関東、中部、関西。そして、ソウルから「全京城蹴球団」の姿があった。当時、韓半島は日本の植民地にされていたが、サッカーは以前から盛んであった。


 ボール1個あれば、みなで楽しめる。サッカーは、日本の貪欲な支配によって貧しくさせられた人々にも可能なスポーツだったのだ。そして強かった。とてつもなく強かった。


 この選手権でも、当然のように決勝戦まで来た。相手は、東京文理大学。会場は、明治神宮競技場。日本にいた韓半島の出身者が続々と詰めかけていた。


「負けるな。日本には絶対に負けるな!」。声にならない声の熱気が、応援席を圧していた。


 ほとんどが、先祖伝来の土地を詐欺同然に取り上げられて、やむなく日本に来た人々だった。氷のように冷たい差別の雨に打たれながら、「日本人の半分以下」という低賃金で、食べるにも事欠く毎日を送っている人々だった。


 このころ、すでに60数万人もが玄界灘を渡っていた。


 昌原(チャンウォン)大学のある慶尚南道(キョンサンナムド)の人々も多かった。九州の対岸にあり、日本と一番近い。


 半島南端の釜山(プサン)では、こんなことがあった。幼い少女が、日本人農場主から、残忍なリンチを受けたのだ。少女が、飢えに苦しんだあまり、つい農場のキュウリを1本、もぎとって食べた。たったそれだけの理由だった。それだけのことで主は少女を捕まえ、鞭でめった打ちに打ったのだ。打ち続けて、少女が気を失うと、全身にコールタールを塗りつけて、追い払ったという。


 一体、日本人とは何なのか!


 しかも同様のことが、それ以上の非道が、幾千、幾万、全土で無数に繰り返されていたのだ。


 競技場では、全身全霊の応援が続いていた。


「負けるな! 勝ってくれ! 勝って、積もる恨みを晴らしてくれ!」


「何もかも、日本の連中に奪われた。おれたちが何をしたというのか。日本よりも、軍艦と鉄砲の数が少なかっただけだ。日本のようには野蛮なことができなかっただけだ。それだけで、おれたちは劣等民族のように、こづき回されてきた」


「国が強いからといって、自分が強いわけではあるまい。なのに、どうしていばるのだ! 一対一なら負けはしない。同じ条件なら負けはしない。勝つんだ。勝って、われらの力を見せつけてやれ。そして五輪のヒノキ舞台で、わが民族の勇姿を示すんだ!」


 燃えあがる期待にこたえて「全京城蹴球団」は戦った。そして勝った。6-1の圧勝であった。「やった、やった。オリンピックだ!」。だれもが躍り上がり、抱き合って喜んだ。


 ところが――。「この大会で優勝したチームを中心に、五輪の代表選手を決める」という当初の発表にもかかわらず、突然、方針が変えられた。秋の「明治神宮体育大会」の成績を見てから決めるというのである。


「卑怯な! これが日本だ。いつもの汚いやり口だ――」


 しかし、その「秋の体育大会」でも、また「全京城蹴球団」が優勝してしまったのである! 実力が段違いであった。


 日本の協会は頭をかかえた。だれが見ても、この飛び抜けたチームを中心に、オリンピックの日本チームを組むのが公正だったからだ。


 しかし、発表された第一次候補25人の中には、たった二人しか、半島の選手の名前はなかった。金永根(キムヨンクン)選手と金容植(キムヨンシク)選手だけである。


 日本側にも「チームワークを重視して選んだ結果である」などの言い分はあったかもしれない。しかし、韓半島では猛然たる反発がわき起こった。当然であろう。


 こんな不当な扱いをするならば、二人の選手の派遣も拒否せよ!


 二人は、板ばさみになった。周囲から「こんな差別的な選考は受け入れられない。受け入れたら、差別を大きくするだけだ。民族の誇りにかけて辞退せよ」と迫る声と、五輪出場という一世一代のチャンスと。


 そして金永根(キムヨンクン)選手は、強引に半島に戻されてしまった。


 残った金容植(キムヨンシク)選手も、苦悩したが、「世界の舞台で、だれにも負けない活躍をしてみせよう。その姿で、民族の気骨を示すんだ」と結論した。「それが結局は、わが民族の勝利になると信じよう」


 金容植(キムヨンシク)選手は、最終選考の16人にも入った。しかし、祖国では彼を裏切り者のように言う人もあったようだ。つらかった。


 しかも、これほどの思いをして、ベルリンに到着したにもかかわらず、監督は、彼を練習試合にさえ出してくれないのである。


 どこまで侮辱すれば気がすむのか――。


 自分よりも格段に力の劣る選手が起用されているのに、「お前は引っ込んでいろ」というのか。おれを、はるばるヨーロッパまで連れてきたのは、ベンチの番をさせるためか。何なのだ。スポーツは、スポーツだけは、実力の世界ではないのか。こんな仕打ちを我慢できるか。


「帰ります! 帰りの汽車の切符をください!」


 周囲はあわてて彼をなだめた。結局、次の練習試合で大活躍できた。五輪の第1試合にも出場が決まった。しかし、相手は何と「優勝候補」のスウェーデンであった。


 だれもが観念した。「だめだ。負けは確定した。あとは大差をつけられないように頑張るだけだ」


 予想通り、前半で早くも2-0と追い込まれた。


 金容植(キムヨンシク)選手は歯をくいしばった。負けてたまるか! 自分は自分ひとりではないのだ。「本来なら、ここにいるはず」の半島の選手たちの分まで、死力を尽くすのだ!


 鬼神のごとき金(キム)選手の動きだった。その気迫が、他の日本人選手をも燃えさせた。おれたちだって、金(キム)に負けてはいられない!


 こうして同点にまで追い上げ、残り5分のところで、感激の逆転シュートが決まったのである。


 ホイッスルが鳴った。観客は総立ちとなった。怒涛の拍手が、スタンドを揺るがした。


「一番弱いといわれた初出場の日本が、優勝候補を破った!」


ベルリンの奇跡〉と呼ばれたドラマであった。


 日本サッカー界が、世界的大会で初勝利した記念の試合であった。それは、たった一人の出場とはいえ「日韓合同チーム」による勝利だったのである。


 その後も、韓民族の選手の強さに刺激されて、日本サッカーは向上してきたといわれる。


 金(キム)選手は、その生涯を後進の育成に捧げ、今なお「韓国サッカーの父」と呼ばれている。1983年、韓国にプロサッカーリーグが誕生したのを見届け、2年後に亡くなった。私心なく、一生、清貧の生活だったという。