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2002-11-25

『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


 これほどまでに生きる事の美しさを描いた本を私は知らない。わずか数センチの中に有り余るほどの愛情で紡ぎだされた生命(いのち)の言葉の数々に、幾度も胸を締め付けられ、感動し、涙を流した。


 どのページのどの文字にも生命(いのち)の崇高さを感じた。憎しみを慈愛に変え、絶望を生きる喜びと希望、そして感謝の心に変えていった母の偉大さに胸を打たれた。


 事件を知ったのは何気なくつけたテレビのニュースからだった。我家から程近い町で小学生の二人の女の子が立て続けに何者かに襲われたらしい……。犯人は捕まっていない。


 何か言いようのない怒りと恐怖が町中を覆いはじめたのはその頃からだった。様々な噂が飛び交い犯人像がまことしやかに囁かれはじめた。小学生達は集団登下校となり、保護者達は皆交代で通学路の道々に見張りに立った。下校後、外で遊ぶ子供達は日増しに減っていった。そんな不安が増していく中で、信じられない残忍な凶行が新たに報道された。そして、少女の一人が亡くなった事を知った。


 連日その話題でどこもかしこももちきりであった。あの時ほど人間不信に陥った事はなかった。そう、町中が人間不信の坩堝(るつぼ)の中に入り込んでいった。犯人はまだ見つからない。事件の起こった町では人影をつくる木という木は切り取られ、空にはヘリコプターが飛び交い、町を歩く自衛官や警察官の数は相当なものであった。そんな中でマスコミ人らしい人影が妙に活気を帯びて、なんともいえない違和感を感じていた。


 近くの町に住む私達も、子供を外で遊ばせる事を一切やめてしまった。公園に行っても人っ子一人姿を見せなかった。そして、登下校の見張りは益々熱を帯び、その後、数ヶ月続いた。黒い車、中年男性、がっちりした体型等、犯人像の噂は具体性を増し、またも、まことしやかに流れはじめ、通りすがりの男性にも警戒心を抱くようになっていった。


 そんな中で、やっと犯人が捕まった。それは、日本中を揺るがせる程の衝撃だった。 誰がこんな結末を予想しただろうか。日本中が暗雲立ち込める中、メディアはお祭り騒ぎであった。被害者の方々やそのご家族に思いを馳せたなら、胸が悪くなるような報道の数々。日本のマスコミの悪辣さを思い知ったのだった。


 それにつけても、山下さんの母としての偉大さは、それらとあまりにもかけ離れ、 対照的であった。人間はこれほどまでに美しく気高く、崇高になれるものだろうか。残虐な手によって、幼い命は傷つけられたが、最後の命の炎を燃やしこの世の生を全うした魂。それは春に舞う桜の花吹雪のように、美しく美しく。そして、その生を終える時、まさに漆黒の闇から旭日が昇らんがごとく威厳に満ちた光を帯びて宇宙に帰っていった。


「少年の凶行は彩花の命の力が自ら選択した『きっかけ』にすぎず、彩花は粛々と自分自身の寿命の最終章にすすんでいくのです」


 まさに、突き抜けるような苦しみの中で、どうにもあらがえなかった運命を価値あるものに変えていかれたのだった。それは、想像を絶する苦しみの中で荘厳ともいえる光景であったに違いない。


 私は、何があっても顔を上げて生きるという決意を彩花に伝えようと、集中治療室に戻りました。

 するとどうでしょう、決意した私の心をすでに知っていたように、彩花は今までとは比べものにならないほど、にっこりと微笑んでいるではありませんか。目もとには明らかな笑い皺ができ、口の両脇にも笑った皺が出来ていました。

 それは、

「お母さん、よかったね。大事なものを手に入れることができたね。これで、彩花は安心できた。お父さん、お母さん、本当にありがとう」

 そう語りかけるかのような、信じがたい笑顔でした。

 そして、それから3時間ほど経った午後7時57分、彩花はこぼれるような笑顔のまま、悠然と旅立ったのです。


 事件直後すぐにでも生きを引き取ってもおかしくない状態からの奇跡ともいえる彩花ちゃんの様子を思い描き、私は感動で体中が身震いするのを感じた。


 その柱にも、畳にも、この道、あの公園、そこかしこに彩花ちゃんの息づかいを感じる。彩花ちゃんは生き生きとした輝きを放って確かに生きていた。それを証明するように、最後に笑顔で旅立った。


 どのような苦痛がこの世にあったとしても、これほどの苦しみはありえないと思った。あまりにも衝撃的な事件であり、それはあの震災に匹敵するものだった。私には到底読めないと思っていた。けれど、それはとんでもない間違いであった。もっと、もっと早くに読むべきだったと心から後悔した。


 私の父の死に思いを巡らせ、それを価値あるものとして受け入れる事を教えて下さった。あの時突然父は居間で倒れた。すぐに救急車で病院に運ばれ、ありとあらゆる手を尽くしていただいた。「生きて、生きて、死なないで」と、ほとんど意識のない父の背中をさすり父の回復を祈った。けれど、程なく父は霊山へと旅立った。確かに父は体調を悪くしていた。けれど、それほどまでに悪化していた事を全く気付いてやれなかった。そんな自分を何年も何年も責め続けていた。そんな苦痛の日々を送ってきた過去を、山下さんは暖かく価値あるものとして教えて下さった。私はこの本のお陰で、乗り越えられなかった過去に決別する事ができた。


 気高く昇華された人の心は何をもってしても決して悪に犯されることはないのだと実証して下さった。


 京子さんは今も彩花ちゃんを思うとき、涙を流しておられるに違いない。けれど、その涙は無数にきらめく星々のごとく、あまねく照らす月の光のように多くの人々の心に染み渡り、暖かく癒す涙となった。


 憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進むしかないのです。新しい生き方を切り開いて、全てを「価値」に変えていくしかないのです。


 いかなる行きづまりをも打ち破る、自分の内なる「生きる力」に目を開き、耳を傾けなければなりません。


 これらの言葉の数々は、今後の私の人生の大いなる目的となるでしょう。


 強く雄々しく生きていくことの素晴らしさを教えて下さった、山下京子さんと、彩花ちゃんに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。


【Ryoko】

彩花へ―「生きる力」をありがとう 彩花へ、ふたたび―あなたがいてくれるから (河出文庫)

2002-11-18

ジェネレーション・ギャップ


 いつの時代にあってもジェネレーション・ギャップは存在した。古代エジプトで造られたピラミッド内の壁にも、「最近の若い者は――」とため息交じりの嘆き節が刻印されているそうだ。私の世代がうら若き頃、巷間では、「5年違えば異邦人、10年違えば宇宙人」などとまことしやかに囁かれたものだ。世代間の価値観の違いは、時に亀裂を生み、断絶へと発展することも珍しくはない。だが、こんな楽しいやりとりもある――


「非売品」 鹿田知暉(ともき)/長野県上山田町・上山田小2年

(そんなにゲームばっかり

 やってる子はどこかに

 売ってしまうぞ)

 何言ってんだばあちゃん

 おれはこの家の大事な

 非売品だぜ


【読売新聞 2002-11-16付 「こどもの詩」より】


「まあ、こまっしゃくれたガキだこと」と思う前に、飛び出す笑い声を抑えることができない。ゲーム脳を補って余りあるユーモアの精神と、すばしっこいボキャブラリーの応酬によって、お孫さんに軍配が上がった(笑)。舌打ちしながらも微笑を禁じ得ないおばあちゃんの顔が目に浮かぶ。

2002-11-06

北朝鮮拉致家族に思う


 10月15日、北朝鮮によって拉致された5人が帰国した。早いもので、もう20日以上が経つ。これまでのニュースを私は新聞(読売)でしか知り得てない。テレビニュースは全く見ていないので、見当違いな箇所があればご指摘願いたいことを初めにお断りしておく。


 国交正常化を目指し、北朝鮮側が拉致を認めたものの、8名の方は既に死亡していると伝えられた。この情報を直ちに公開しなかった外務省と、無責任極まる北朝鮮の態度に対して、国民感情は一気に加熱した。


 日本政府はこの問題を20年以上にわたって放置し続けてきた。マスコミもまた然り。そして、あなたと私もまた然りである。私達は、今まで拉致された方々の家族の心情を思いやることなく、自分の好き勝手を行ってきた。そして今、拉致という事実が明るみに出た途端、一端(いっぱし)の意見を述べて、評論家面(づら)してみせるのだ。何という平和な国だろう!


 革新系の政党に至っては、北朝鮮による拉致を認めない発言をして平然と構えていたことも既に報道されている。日本万歳!


 帰国したばかりの記者会見では多くを語らなかった姿が印象的だった。北朝鮮の政治コントロール下に置かれていることはハッキリしていた。その意味では、帰国しても尚、彼等は拉致され続けてきたといえよう。


 それでも新聞の写真で見る彼等の表情は喜びに満ちていた。


 彼等のこうした表情に嘘はなかったことだろう。また、家族との劇的な再会シーンに目をうるませた人々も多かったに違いない。


 以下、読売新聞からいくつかの記事を拾い出してみよう。


【浜本さんの兄・雄幸さん】皆さん、どうもありがとうございます。「迎える時には、どういう感じ(になりそう)ですか」と聞かれましたが、「兄弟8人で明るく迎えてやりたい」と言いました。私の思った通り、肉親のきずなは非常に心強く思いました。すぐにパッとうち解け、富貴恵の笑顔が出てきた。兄弟のきずなが強く結ばれているな、とうれしく思いました。良かった。兄弟8人で迎えたのが本当に良かった。


【地村さんの父・保さん】国民の皆さんに支援をしていただきまして、一時の帰国にしろ、元気な顔を見ることができました。静かに迎えてやろうと思っていましたが、私らより活発に笑い声を出して、かえってこっちが励まされたりするような状態でした。これから、できるだけ朗らかに、笑いを一層深めるように接してやりたいと思っております。


【地村保さん】私が思っていたのとは逆で、「とうちゃん、年の割に元気やな」と言われて、こっちが抱きしめようと思っていたのが、反対に抱きしめられました。


 これらは帰国した直後の記者会見で。


 続いて、曽我ひとみさんが新潟に帰り、父上と再会した記事。これなんぞは涙なくして読めないものだ──


 めったに着ない背広を身に着けた父は新潟県・佐渡島の自宅の庭に立って、娘の帰りをじっと待っていた。午後4時30分過ぎ。自宅前にバスが横付けされると、出迎えの人の輪からどよめきが上がった。バラやユリの花束を抱えた紺のスーツ姿の曽我ひとみさん(43)が降りてきた。ほおが少し赤くなっている。最初の一歩を踏み出すのをためらっているかのようだ。その視線の先に、70歳の茂さんの姿があった。「来たっちゃ」と父はつぶやいた。

 目を真っ赤にしたひとみさんが歩き出した。茂さんも一歩、二歩とよろけるように前に進む。その足が止まった。

 父は「ご苦労だったな」と言葉をかけた。「父ちゃん待っとった」。娘を抱き寄せた。二人は抱き合い、声を上げて泣いた。「よう来てくれた。ありがとうな」。父の言葉に、娘はしゃくりあげながら、首を振るだけだった。


 そして、町役場でひとみさんが記者会見で読み上げたメモ。


「今、私は夢を見ているようです」。はっきりした日本語だが、たどたどしさも残る。「人々の心、山、川、谷、みな温かく美しく見えます。空も、土地も、木も、わたしにささやく。“おかえりなさい。頑張ってきたね”。だから私もうれしそうに『帰ってきました。ありがとう』と元気に話します」。


 この言葉に嘘はないだろう。北朝鮮がどんな風に彼等をコントロールしようとも、人間としての感情まではコントロールできまい。他国の人間を誘拐同然の手口でもってさらってゆくような国である。あらゆる手を使って彼等をコントロールしたに違いないだろう。彼等が、目の前で同胞が殺される場面を見せられたとしても私は驚かない。いずれにせよ、国家という装置がその意志を行使しようとする時に暴力をためらわないのは、古来、権力の常套手段だ。拉致されていった彼等は、心を死なせるしか生き延びる道はなかったことだろう。その程度の想像力も持ち合わせないで報道するマスコミは唾棄すべき存在でしかない。なかんずく北朝鮮に対する敵対感情を煽る週刊誌こそ、北朝鮮にさらっていって欲しい最たるものだ。


 帰国した5人の言葉に込められているのは、止み難いまでも望郷の念であり、家族に対する思慕であろう。今の日本には、どこを探しても見当たらない感情である。マイホームを手に入れるためとあれば、故郷なんぞはうっちゃって、造成された郊外へすっ飛んでゆくようなのばっかりじゃないのか? はたまた、親は自分のお腹を痛めて生んだ子を殴ったり、蹴ったりし、あまつさえ、熱湯をかけたりするのが登場する始末。そこまでしないにせよ、世間体のため、そして自分の安泰な老後のために、子供を勉強づくめにした挙げ句、自由を奪い取り、親の思いのままにしようとする浅ましい姿は「拉致」そのものではないのか?


 拉致された彼等が20数年振りに帰国し、思いの一端を披瀝した言葉の数々は、忘れていた日本人の感情を呼び覚ました。北朝鮮の思惑はここにおいて見事に外れてしまった。


 日本政府は5人を北朝鮮に返さないことを決定。5人は北朝鮮に置いてきた家族に思いを馳せ、新たな苦悩を抱えることになる。逆拉致ともいえる今回の決定によって、彼等の親が20数年間にわたって苦しみ抜いてきた心情を、今度は彼等が味わうことになった。これを宿命と呼ばずして何と表現すればよいのか。


【付記】以下のコラムを参照したことを付け加えておく。国見氏のコラムの方が断然、素晴らしい。